ガラテヤの信徒への手紙6章7-8節、創世記3章1-19節「キリギリスが見た景色」

18/9/23主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙6章7-8節、創世記3章1-19節

「キリギリスが見た景色」

人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる。すぐに刈り取ることもあるでしょう。例えば今の季節、もしどこかの夫が自分の妻に、天高く妻肥ゆる秋とかって親父ギャグ飛ばして、しばらく妻が口聞いてくれんかったら、夫は自分の蒔いた言葉の報いを、すぐ刈り取ることになったのです。

でも、すぐに刈り取らない場合もある。説教題にもしましたイソップ童話の蟻とキリギリスがそうでしょう。キリギリスは夏の間、今が命を楽しむ時!という態度で自分のしたいことに命を用いていました。その時に彼あるいは彼女が見ておった景色、どんな景色だったんでしょう。何をしても夏が続く、常夏の景色だったでしょうか。冬らあて来んきと思っていたか。来ても、夏のような冬だと思っていたか。

でも蟻は、やがて冬が来る景色を見ていました。冬を見ておった蟻の行動は、キリギリスの目にどのように映ったでしょうか。暑いのに黒い服着て冬から考えて夏を生きている蟻の姿。やがて来る刈り取りの日のために黒い服着て説教する牧師と、共に御言葉に聴く私たち教会の姿も重なるところがあると思います。

だって私たちは知っているのです。裁きの冬が来ることを。すべての人が、その行いに応じて裁かれる最後の審判が来ることを。でも、脅迫されるようにして知っているのではありません。その裁きを十字架から知っているからです。その裁きから救われるようにと、十字架で身代わりに死んで下さった神様を信じているから、知っているのです。神様が死ななければならないほどの裁きが、やがて来るのだと。

今朝の御言葉は「思い違いをしてはいけません」と言います。惑わされてはいけない。あるいは道から迷い出させられてはならない、という言葉です。先週の長寿祝福礼拝の説教で、迷い出た一匹の羊を、神様は当然捜しに行かける、あなただって行くだろうとおっしゃったイエス様の御言葉を聴きましたが、その「迷い出た」という言葉が、思い違いをすると訳された言葉です。考え方や生き方、生きる態度、これが正しいことだと信じていることが人にはある。この道でいいんだと考えている命のコースがある。この道は滅びに続いてないはずだ。裁きも、まあ仮にあっても大丈夫だと。キリスト者でも、そう考えることがある。あるから行ってしまうことがある。悔い改めない態度や生き方がある。でもそれは、道から外れさせられていないか。誰があなたを、そこに連れて行ったのか。誰が迷い出させたのか。迷い出させられてはいけない、と御言葉は私たちに告げます。聖書では、いかんと言われているけれど、でも、しても大丈夫と、裁きがあることから目をそらして言い訳をしてしまう私たちに、御言葉は説得をするのです。「神は人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」と。

聖書が、侮ることのできない神様による、正義の報いを教えるのは、そのことで、何とか、私たちを、イエス様に従う道に連れ戻そうとしているのです。すぐに迷い出してしまう私たちを、イエス様が、御言葉で牧会されているのです。

そのイエス様に牧会されている羊として今朝の御言葉に向き合うと、ともすると、因果応報のようにも思える神様の報いが、単なる原因結果ではないこと、冷たくドライな法則ではないことが、おわかりになると思います。機械的に、報いがあるのじゃなくて、神様が!罪に、または神様に従って蒔く愛の正義に、報いを与えて下さるのです。

ただし、私たちが行う愛の正義にも、また罪も、すぐには刈り取りのないことが、ほとんどかもしれません。世の中でも、すぐに結果が出ないと、ああ、もうえいわ、ってなるように、神様からすぐに報いが与えられないと、私たち、つい神様を侮ってしまいやすい。

そして罪を行う者が増えて、幸せそうにさえ見える。何故か。すぐに報いを受けないからです。でもそれは、まだ報いを受けてないからだ。それが聖書の答えなのです。その日は、でも冬が来るように必ず来る。そして私たち皆、自分が蒔いたものを、刈り取ることになる。私たちは何を蒔いて今日まで生きてきたでしょうか。まだ刈り取ってない分は、やがて刈り取ることになります。どうしてイエス様が必要なのか、何故十字架の償いと赦しが救いなのか、その日、痛いほどわかります。

でもイエス様は、今!その赦しを知って、わたしについてきなさいと招かれるのです。言わば人生を破滅させる薬物を前に、これ使ったら、当然の結果があるけど、でもどうせ天国行くき、あなたの人生やき好きにしたらえいわと、私たちが誰にも言わないのと同じで、イエス様は、さあ、新しい生き方に変えようと、共に歩んで下さるのです。

具体的に、どんな言葉を語り、どんな行いをするか。この体を、心を誰のため用いるか。神様から受けた賜物、才能、タラントンを誰のため用いるか。また、時間を何のため用いるか。お金を何のため用いるか。そのすべて、私たちが蒔くものです。

それを私たちはどこに蒔くのか。8節はこう告げます。「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に(つまり父から与えられた聖霊様に従って)蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」

自分の肉に蒔くというのも、自分自分という自分の欲から出発して、その欲に従って発する態度、口から出す言葉、自分に従って行うこと、自分が自分の主になって、これは自分の体だから、自分のお金だから、自分の時間だからという肉の態度の生き方です。それを聖書は、肉に、しかも自分の!を強調して、自分の肉に蒔くと言うのです。

何故なら神様は、この行いは正しい、この行いは悪、といった善悪の行いリストに従って私たちを採点する試験官では、ないからです。神様は、あなたは誰に従ってそれを行ったのか、また誰のためにそれをしたのかと問われる、私たちの命の主、また愛の主であるからです。この主なる神様を侮る時、人は自分が主になって命と愛を侮るのでしょう。

それが、どこに蒔くか、です。自分の肉に蒔くか。霊に蒔くか。今朝の御言葉が記された上の段で、肉と霊が対比された理由と同じです。

改めて5章1節からお読みします。「わたしが言いたいのは…」

この特に21節の「このようなことを行う者は…」と記されている部分が、今朝のところとも神学的に大事な意味で重なっています。

その時にも説き明かしましたが「受け継ぐ」というのは、家族の関係があるかないかの問題です。行いによって受け継ぐのではない。それが信仰と呼ばれる信頼関係によって救われるという意味です。その関係があるのに、何故、ないかのような、俺にそんな父はおらんというような行いをするのか。肉に従うからだろう。だから肉に従うなと説得をしているのが上の段の御言葉でして、今朝の御言葉が「自分の肉に蒔く者は肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」と言っているのも、あなたは十字架のキリストを信じて洗礼を受けて、御霊によってキリストと結ばれて、永遠の命を受けた。だから、あなたの命の土台は、もはや自分の肉でなく、キリストとあなたを結ぶ聖霊様にあるのに、その土台の上で神の子として生きないのは、嘘の生き方をしてないかと説得しているのです。あなたの人生の畑、フィールドは、もはや聖霊様に導かれて歩むキリストに従う生き方じゃないかと。

つまり、私たちは、自分の肉の欲望に従って、体や頭や時間やお金を消費するのか。それとも天の父が与えて下さった聖霊様の導きに従い、主の御言葉に、はい、と従って、体や頭や時間やお金を用いるのか。

例えば、献金。霊に蒔く献金と、破滅を刈り取る自分の肉に蒔く献金もあることを、先々週の説教で聴きました、使徒言行録に記されているアナニアとサフィラの事件から、私たちは教わっているのです。

二人は献金をしたのです。行いで救いを考えたい肉は、献金は正しい行いリストに入ると考える。しかも土地を売った収入ですから、多額の献金と思われます。でも神様は、その動機が、自分の肉の欲望に従って自分のためになした献金であったことを、見ておられました。聖霊様に逆らって、大丈夫、ばれんきって。その報いを、二人は受けました。

神様は、行いそれ自体ではなくて、それが何であろうと、その行いを誰に従って行うか、私たちの心を求めておられるのです。信頼の心と愛とを求められるのです。それが十字架の神様だからです。

人の目に、どう映るか、自分の目にどう映るかではない。立派に映ろうと、失敗に映ろうとも、命の主、愛の主が、あなたはこれをわたしを信頼して、わたしのために、わたしの言葉に従って行ってくれた。よくやった、良い忠実な僕だと喜ばれるなら、それがすべてです。人の目や自分の目は、その父の眼差しのもとから迷い出させてしまうのです。

そんな迷い出てしまう私たちであればこそ、神様はイエス様によって救って下さるのです。私たちの行いによってのみ、神様が私たちを裁くのであるなら、誰が救われるでしょうか。しかし、神様は私たちの罪を十字架で裁いて下さり、キリスト抜き、十字架抜きで、私たちの裁きをなさることはないのです。私たち、迷い出る羊たちの代表となられて、十字架でほふられた神の小羊が、また私たちの羊飼いとして、私たちを招き、導いて下さって、助け、救って下さる。だから、私たちは神様を信じられる、信頼することができるのです。神様を侮ることがあったとしても、ごめんなさいと悔い改めて、十字架の裁きのもとに帰ることができる。そこに赦しがあり、私たちの永遠の命、キリストの救いがあるからです。