マタイによる福音書18章10-14節、詩編23篇「天の父の御心は祝福」

18/9/16主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書18章10-14節、詩編23篇

「天の父の御心は祝福」

あなたがたの天の父の、とイエス様は言われます。単に神様が、とは言われなくて、神様は、あなたがたの天の父だと、イエス様は教えて下さいました。イエス様が教えて下さったことの中で、最も大切なことの一つです。私たちには天の父がおられる。そして、その私たちの天の父は、滅びを望まれない。

そら、父なら、そうじゃないかと思います。誰が自分の子供の失われることを望むでしょう。当たり前じゃないかと思われることです。

でも、そう考えて、今読みましたところを、よく読み直してみると、イエス様はここで、当たり前のことしかおっしゃってないということもわかるんじゃないかと思います。それを、天の父のまなざしのもとで、一緒におってみたいのです。この天の父のもとに、大いなる祝福があることを、一緒に味わえると思うからです。

まずイエス様は「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」とおっしゃいました。

今日は長寿祝福の礼拝なのに、何で小さな者の話なのかと、あるいは思われたかもしれません。無論、年長者を軽んじているわけではありませんで、むしろ、どうして長寿を迎えることが天の父からの祝福であるのかを、改めて、御言葉から受け取りたいのです。

どうして長寿が祝福なのか。長く生きることが困難だった昔と違い、現代では様々な技術のおかげで、昔よりずっと寿命が延びまして、この教会でも、私が牧師として着任した当時は、確か、長寿の祝いを受ける年齢は、もうちょっと若かったんじゃなかったかと記憶しております。それが、いや私はまだそんな長寿じゃないと遠慮される方々があって、確かにそうかもと、長寿のラインを高くした(笑)。他の教会では85歳に上げたと、何か段々上がるオリンピックの棒高跳びみたいになっていますが(笑)、実際に皆さん、3-40年前の80代90代に比べたら、随分お若いと思います。

ただ、この考え方で言いますと、若さこそが祝福であって、若いねえと言われたら嬉しいという話になってしまいますと、若い長寿への祝福という、何かようわからん祝福になってしまう。まるで、背が低いけど頑張ってアメリカのプロバスケットボールの選手になって、すごいねえとか、難聴だけど素晴らしい作曲をしたベートーベンのように、一部の頑張って困難を克服した人への祝福、という話になってしまいますと、イエス様が与えて下さった、天の父からの長寿祝福から、それてしまうのです。イエス様のなさった譬えで言えば、一匹の羊が迷い出てしまうのですが、この「迷い出た」という言葉の意味が、もとの道からそれてしまうという意味でして、じゃあ誰が迷い出たのか。頑張って、自分の弱さや困難や年齢さえも克服して、強く弱音を吐かないで若々しい自分こそ、神様から祝福されるんだと、天の父の愛から、それてしまって、自分が誰であるのかがわからなくなって、迷ってしまう。頑張らないと祝福されないんじゃないか。この迷いは、特に愛に迷って、天の父から無条件に愛されて生きる、この受けた命本来の祝福を見失ってしまった現代の私たちに、そのまま当てはまるのじゃないかと思うのです。

イエス様が言われた「小さな者」。小さな子供みたいに、すぐに迷子になってしまう存在のことですが、もとの言葉はミクロン。英語のミクロになった言葉です。ミクロ。もう目に見えないほど小さいという印象がありますが、むしろ、視界には入っているんだけれども、見えてない。人ですよ。見えないはずがないのに、見落とされて、あるいは意図的に無視されて、人として扱われてない人々の存在を、イエス様は良く知っておられました。私たちも知っていると思います。いるのに、あたかも見えてないかのように軽んじられてしまう。天の父から命を与えられて生きているのに、です。もっと頑張ったら、認められるのでしょうか。人並みに、あるいは人様に迷惑をかけんように、ということなんでしょうか。頑張れないほどの小さな人は、天の父から命の祝福を受けられないということでしょうか。決してそうではない。そんな頑張ったら認められる命なんてのは、天の父が与えて下さった、そしてそれ故に、父が私たちに求めておられる命を生きる道から、それています。

イエス様は「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われました。それだけの大切な命を、天の父は、その一人一人に与えて、気にかけてくださっているからです。

その天の父のお気持ちが、どう具体的に現れているかということを、イエス様は「言っておくが」と強調されて、こう言われました。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」。天使たちは御使いとも言われるように、天の父から私たちのもとに遣わされる存在です。ということは、忍びが殿さまから呼ばれたらシュッと天井裏から降りて来て、命じられた目的を果たすために遣わされるように、天の父のもとで、この天使たちは待機しているのです。これらの小さな者たちに何かあったら、天の父は、すぐに彼らのもとに、この天使たちを遣わすことができるように準備しておられるとイエス様は言われるのです。どれだけ、大事にされていることか。

彼らに対する天の父の愛、また、イエス様の愛は「これらの」という言葉にも表れています。あれらの小さな者とはおっしゃらない。近いのです。遠く離れたところから、あの人たちと言うのとは、まさに天と地の違いがあって、それが私たちの救いのために人となられて、この地に来られた神様の救い、イエス・キリストの救いの近さなのです。私たちのところに来られて、私たちの罪も悲しみも全部負われて、十字架で、私たちの身代わりになって死んで下さった近い神様。そのイエス様が、天の父から遣わされて来て、これらの小さな者は、わたしの愛する者だから、天の父の愛する子供たちだから、軽んじてはならんと、ハッキリ宣言なさるのです。その一人でも滅びることは、天の父の御心ではないのだと。あなたがただって、決してそんなことを望みはしないだろう。たとえ、それが自分の子供でなくて、飼っている羊であっても、更に、それが100匹いる内の、1匹の羊でも、もし迷い出てしまったら、捜しに行かないだろうか。行くだろう!行くに決まっちゅうじゃないか!とイエス様は言われるのです。それが、天の父のもとから迷い出た私たちを救い、祝福するために、神様が人となられた理由だからです。滅びることなんて決して望まない。その代わりに、わたしが十字架で死んで、罪の裁きも、迷い出た悲しみも、全部引き受けて、あなたを救うから、あなたは天の父に愛された、神様の大切な子だからと、イエス様がその大きな愛の手を拡げて包み込まれて「これらの小さな者を一人でも軽んじないように」と、神様の愛の宣言をしてくださった。

このイエス様のもとで、祝福を受けない人はおりません。天の父から命を受けてない人がおらんのと同様に、その命が祝福されるようにと、イエス様の十字架で拡げられた救いの手が届かん人もおらんからです。

この祝福をもって、私たちは、長寿を受けられたお一人お一人を祝福します。すべての命を造られ、また祝福される天の父が、その命を与えられた代表として、これらの愛されている兄弟姉妹がたをイエス様の名によって祝福されるからです。