18/8/12主日朝礼拝説教@高知東教会
ガラテヤの信徒への手紙6章1-2節、レビ記19章17-18節
「責めるより担う」
人を見る時に、しかも悪いことをした、悪いことを言った、あるいは悪い態度でいる人を見た時、その人を罪人と見るか。それともイエス様に十字架で担って頂いた人として見るかで、随分、見え方は違ってくると思います。また、そうやって見る人自身の、人との接し方や言葉遣いも、違ってくるんじゃないでしょうか。
今朝の御言葉が「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」と随分と優しく言っている言葉遣いにも、それは現れています。
そして「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と、御言葉は、罪の問題は他人事にできないはずだと注意するのです。いや、むしろこう言ったほうが良いのです。罪に向き合う時、私自身の罪が赦されている、神の子の命の代価による支払いによって、私の罪が担われ、負担され、そして赦された。その私の赦しの問題、つまり私が担われているという、私にとっての最も重要なことを見ないまま、人は罪にも、人にも、神様にも、本当には向き合うことはできない。けれど私にとって永遠に唯一必要な、十字架のイエス様に、担われている私に立ち帰る時、人は、互いに重荷を担えるようになる。
何故、互いに重荷を担いなさいと言われるのでしょう。何故か。互いにと言われていることがヒントでして、互いにですから、自分の重荷のことを先ずは考えたらわかるのです。皆さんの重荷、何でしょう。人に言えるようなら、重荷とは言えない、そんな軽くはないと思う重荷も、きっとあると思います。人には言えない罪の重荷も、負ってない人っておるのでしょうか。氷山の一角という言葉がありますが、明らかになって表に見えている部分は一部だけで、その下の暗い海に、何倍もの塊が見えないで沈んでいるのを、私たちは知っていると思います。
この御言葉は、その前からの続きですが、その前の19節に罪のリストがありまして「姦淫、わいせつ(不潔)…その他、この類のものです」。後半は比較的、表に見えやすい罪でしょうか。
例えば利己心。もとの意味は、勝とう勝とうとする心。立場として上に立ちたい。言われっぱなしは嫌。頭では、つまらない勝ち負けなんかにこだわらない、と思っていても、腹が立ってきて、言いかえしたくなって…。でも、それがどんなに人間関係を壊して、破いて、傷つけて、また傷ついてきたか、知らない人はおらんと思うのです。利己心だけではない。ここにある罪故に、壊れて以前のようには戻らなくなった人間関係や、戻らない時間が重荷となってない人がおるのでしょうか。
その重荷を、大丈夫、皆やっているから、と言って重荷ではなくさせようとすることがありますが、それは、本当は降ろしたいこの重荷を、でも降ろせないから、偽って、大丈夫って、自分に言っているんじゃないでしょうか。
本当は、皆、降ろしたい重荷がある。つぶされそうになる、あるいは本当につぶされてしまって、取り返しがつかない。その重荷を、神様はイエス様によって一緒に負って下さるだけでなく、あなたも一緒に負いなさい。だって他人事ではないでしょう、あなたにも負ってもらいたい重荷があるじゃないか。その重荷を、本当に負ってあげることができるのは、負ってもらった人だけだから。そうやって、一緒に、キリストのもとにおいでなさいと、天の父は重荷ごと私たちを招かれるのです。
既に、その招きの言葉が心の中に響き続けている方もいらっしゃると思いますが、この招きは聖餐式の時にも読まれます、マタイ11章の招きと同じもの、あるいはその延長線上にあるものです。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」28-30節
わたしの荷は軽いから、と言われます。イエス様は十字架で私を負ってくださったと信じ、キリストのもとに行き、キリストの命に生きるようになる時、そこでもう、何も負わなくなるというのじゃないのです。キリストの軽い荷を担う。キリストが下さった愛を、他の人々とも分かち合って、一緒にキリストの愛に担われるため、そのための愛の荷を、一緒に担うようにと招かれるのです。それを「キリストの律法」と呼ぶのです。
その愛の律法を、でも私たちは、自分で担えるとは思わない。だって本当に身近な人をも愛しきれず、あるいはそれが嫌で愛することをあきらめて、関係を悪くしたり、失ったりするのに、ましてキリストの愛をもって人を愛しましょうなんて、そんなハードル高すぎて、私には担えませんと思うのが、当然だと思います。牧師は違うでしょなんて、重荷を負わせないでください(笑)。ホント、笑って言いますが、つぶされそうになるのです。その愛の重さを、知らない人はおらんと思うのです。どうしてこんなにも愛がないのか。自分を見たら、逃げたくなります。私は愛せませんと。それなのに、この愛の重荷の前に、逃げ出さなくて済むのは、その愛を自分一人で担うのではないからです。キリストの愛を私たちが自分の愛で担うのではないのです。むしろ、そんな私たちをキリストが担って下さって、私は壊れ破れているけど、そんな私を用いても、キリストは私を通して、この隣人を担って下さると信じることができるから、担うために自分を差し出せるのです。
信じる理由は全く自分にはありません。あったら、その理由を皆さんに、ここで紹介しています。でも、できません。わからんのです。五里霧中です。でも一つだけ知っていることがあります。そんな私を、主は十字架で負って下さり、私の主は、私をその僕として用いることがおできになる。信じる者には何でもできるとイエス様は約束して下さいました。互いに重荷を担うというキリストの愛の律法を、主は、こんな私を通しても、全うすることがおできになると、信じる理由を、私たちは、十字架の主に持っています。十字架で私に対する愛を全うして下さったキリストに持っているから、そのキリストが、互いに重荷を担うことでわたしの律法を全うしなさい、と招かれ、命じられるから、だから破れたままの私、誰かに担ってもらわなければならない私、問題を抱えた私として、隣人の重荷を担うために生きるのです。その重荷を、イエス様が担って下さると信じるから、その重荷を、私の重荷も同じように一緒に、十字架で全て担われたイエス様のもとに差し出すために、一緒に、キリストの前に出るのです。
重荷のない人が、重荷を担うのではない。主に担ってもらっていることを自分の事として知っているから、ただただそのキリストのもとで、人の重荷をも担えるのです。キリストに負って頂いて、そこでキリストの荷を、少しだけ負わせて頂くのです。
その具体的一つが、誰かが罪に陥った時、どうするかです。罪の重荷を負わせたまま放っておくのではない。でも、責め立てたり、後ろ指を指すことでもない。教会に来ることが、できなくさせることでは決してなくて、むしろ、一緒にキリストの前に出るために、柔和で謙遜な主に学んで、キリストの愛の正しさを証して、一緒にキリストの前に出る。一緒にキリストの憐れみ深い名を呼ぶ。それがキリスト礼拝です。
重荷を負うと言っても、私たち、人の負っている重荷を、本当には、わからないと思います。抱えている問題を、一緒に抱えることも本当にはできないと思います。わかりきれないところ、負いきれないところが必ずあると思う。担うとは、その重荷をわかりきって担いきることではない。一つわかっていれば良い。それは重荷だということ。本当に重い。でもその重荷を、イエス様が担って下さると信じるから、自分では担いきれないその人の重荷を、イエス様を信じて一緒に担うのです。
罪の重荷は尚更です。キリストの十字架の前に、共に立つ他はありません。
それを今朝の御言葉は「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と言ったのですが、直訳は「柔和な霊の内に、その人の破れを直しなさい」という言葉です。
正しい道に立ち帰らせなさい。そうなのですけど、どういう正しさか間違ってはならんのです。柔和な霊によって知る正しさです。責める霊が知る責める正しさではありません。責める正しさは重荷を負うことも救うこともできない。それは十字架の正しさではないからです。
イエス様が「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい」と招かれた十字架の正しさ、赦しの正しさのもとに立ち帰ることができるように、祈り、優しく声をかけ、手を差し伸べるのです。
そこに、先に直訳した「破れを直す」癒しの道が開かれます。もとは折れた骨をくっつけるという意味です。またそれが、聖書で他にどこに用いられているかと言うと、もと漁師だった弟子たちが、破れた網を繕って直しているところです。罪によって破れた心の破れ、信仰の破れ、関係の破れ、様々な破れを、イエス様が繕って下さる。その慰めのもとに一緒に行くのです。共に破れを繕ってもらうのです。
また、骨が折れて、言わば離れてしまたった状態を、ううん、私たちは一緒やきね、イエス様が一緒にいて下さるがやきと、再びくっつける言葉、福音の言葉を分かち合い、一緒に祈る。祈るしかない時もあると思います。その時のほうが多いのかもしれません。でもそこであきらめないで祈る。心破れても祈る。その破れをも、キリストは繕って下さいます。紡ぎ直してくださいます。破れた心を携えて、主の前で、十字架の前で祈る僕もまた、愛する人の重荷を負って祈るのです。重さに耐えながら、まるで主の十字架の重さを感じるようにして、執り成しの祈りによって、担うのです。
そこにキリストは、ご自身の愛を現わして下さっています。破れた心も、破れた教会も、その破れを十字架で担い、繕って下さるキリストののもとで、人を漁る漁師として、召されて用いられるのです。