ガラテヤの信徒への手紙6章3-5節、詩編8篇「自負でなく責任を負う」

18/9/2主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙6章3-5節、詩編8篇

「自負でなく責任を負う」

「自分の重荷を担うべきです」と言われます。ただし、この重荷は、よし、私はこれを担おう、と自分で選べるものではありません。また、重荷と訳されましたが、直訳は荷物。イエス様が、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからとおっしゃった、イエス様と共に負う荷と同じ言葉です。それを自分の荷として担うのです。

こう考えたら良いでしょうか。イエス様から、一人一人に、はい、これがあなたに担ってもらう、わたしの荷だと、一人一人にイエス様から言わばバックパック、リュックサックをもらう。それは一人一人、違う荷物なんですが、どれも皆、イエス様から与えられたのです。

めいめいが、そのイエス様から受けた自分の荷を担う。イエス様から託された責任を担うとも言える。皆さんどんなバックパックをイエス様から頂いて、担っておられるでしょうか。それぞれ、思われるところがきっとあると思います。

あるいは、私イエス様から何か担わされちゅうが?わからんけど、と思われる方もおられるでしょう。その場合、神様から一人一人が受けた生きる命、ある目的をもって、役割をもって生きるために受けた命、と考えたら、わかりよいかもしれません。

皆さん、考えたことないでしょうか。自分は何のために生まれてきたのかと。学校では偶然とか習います。生物の誕生は偶然で、偶然の奇跡とかドラマチックな言葉を使う時もありますが、要するに神様が私たちを神の形に造られたとは教えない。何のために生きるのかと先生に問うたら、それは自分で決めるんだ、そのために勉強するんだと言われるのかもしれません。

聖書はハッキリ伝えるのです。私たちは神の形に、神の子として生きるために、でも一人一人違う人として、神様から命を与えられて生まれてきた。その私たち、一人一人を神様は愛されて、十字架で背負われるほどに、命の責任を一緒に負って、共に生きて下さる。その神様に対して、私たちは責任を負って生きるのだと。それをバックパックとか役割とか目的と申しましたが、こう言ってもよい。神様は私たち一人一人に大切なご計画をもって、命を導かれるのです。

私はそのことを洗礼を受けてしばらくして、こう教わりました。ある所に冷蔵庫君がいた。冷蔵庫君は、でも自分が冷蔵庫なのが嫌で嫌で、電子レンジ君に憧れていた。僕もあんな熱い生き方がいい。でも残念なことに冷蔵庫君、クールなんです。誰かを熱くしたいと思って、誰かを迎えても、冷やすことしかできない。でもそれは冷蔵庫君には冷蔵庫君のための大切な目的とご計画、それに相応しいデザインが与えられているからなんだと気づいて、そのご計画のもとに身を置いた時、冷蔵庫君は、自分の存在の喜びを知って、それを担えるようになりました。

私、それを聴いた時、うんと納得しました。それまで人と自分を比べては劣等感や、くだらない優越感に振り回されていたので、そうか私がこうなのには、神様のご計画があるのだなと、それをイエス様が一緒に担って下さっているんだと知って、それを担えるようになりました。

だから比べることには意味がないのです。冷蔵庫には冷蔵庫としての素晴らしいデザインがあるからです。また逆に、電子レンジに対して、お前熱過ぎ、頭を冷やせって、クールな自分を誇るのも、今日の御言葉で言うと「自分を欺いています」。

私たちには、私たちのことを考え抜かれて、愛し抜いておられる神様の、ご計画とデザインが、一人一人の命の土台にあるのです。だから、神様から出発して、自分を見る。また人を見る。神様の眼差しとご計画のもとで、です。自分から見ない。親から見るのでもないし、先生からも見ない。無論、話を聴かんでかまんというのではありません。順番があるのです。まず神様の御言葉に聴くのです。そのご計画のもとで自分をみて、人を見る時、なすべきことがわかる。愛するということがわかる。イエス様が私を負って下さっているから、そしてこの人のことも、その大変に見える問題も十字架で全部背負って、この人を愛されているから、イエス様が負われている愛の荷を、少し負わせて頂くのです。

その「行いを吟味しなさい」と言われるのです。そもそも愛なのか。イエス様と一緒に愛する行いになっているか。愛じゃないなら、何故、誇るのか。自分が愛しているつもりだけなら、無論、誇ることは愚かな以上に恥ずかしい事です。でも、イエス様、愛のない私ですけど、でもこの人のために私をお用い下さいと身を捧げる時、目の前の人に仕え、そのことで主イエス・キリストにお仕えする時、それは、他人に対して誇るようなことではありません。でも「自分に対してだけは誇れる」と言います。無論、自惚れるってことじゃない。愛の天狗になる?ないでしょう。じゃ、どういう意味か。イエス様の前で、イエス様が共に負われた愛を誇るのです。主よ、あなたはこんな私を用いて下さいました。ありがとうございますと。だって私を通して、神様のご計画がなされたのです。素直に喜んで、感謝して良いのです。天の父は、ご自分の子がそのように喜ぶことを、まことの父として喜ばれます。そしてその喜びを、父は一生忘れません。永遠にです。だから宝を天に積みましょう。天の私たちの父の家には、大きな家族のアルバムがあって、寝っ転がってそれ一緒に見ながら、イエス様と一緒に笑い、感動し、泣いて、賛美して。それが天の御国です。宝、天に積みましょう。それが私たちへのご計画のゴールです。

改めて言いますが、それを、できる・できないで、考えないのです。天の父が、できる・できないで考えてないからです。自分の行いを吟味するというのは、できているか、できてないかで判断することではありません。それは神様が聖なる裁き主として判断なさることですし、でもならばこそ天の父は、できる・できないでは判断なさらない。だって、罪を犯さない人はおらんのです。愛しているつもりで、自分中心になるのです。自分を欺いてしまうのです。そんな私たちのために、だから、イエス様を父は与えて下さって、私たちの罪を背負い償い、完全な赦しを与えてくださって、わたしに従いなさい、この荷を負って、父の愛のご計画に、救いのご計画に一緒に歩もうと、一人一人に特別な、神の子としてこの世界に歩むご計画と、召しと、賜物とを与えてくださった。その目的に従って、招きに応えて、はいと身を捧げ行う業を、神様は、できる・できんでは裁かれない。

また、目で見える行いで言えば、できない、という荷もあるのです。障害をバックパックとして受けて、目で見える行いをできない兄弟姉妹もおられる。イエス様が「わたしの兄弟であるこの最も小さい者たち」と慈しみを込めて呼ばれる、小さい者たち。讃美歌の「主われを愛す」で「我弱くとも」と日本語で歌う歌詞は、原曲では「小さな者たちは主に属している」という言葉です。主のものとされている。だから、その小さな者たちは弱いけど、恐れはない。我が主イエス様が、私を愛してくれているから。その小さな者たちに主が与えられたバックパックの、その重さを知らない人はいないと思います。でも終わりの日、イエス様がおっしゃる。わたしの荷は軽かったか。他の誰でもない、十字架を負われ、その人生の全ての苦しみも痛みも喜びも一切を一緒に負って下さった主イエス様が、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い、そうだったかと問われる。十字架で負われた私たち全てに。

その日、このバックパックを、イエス様が一緒に負って下さっていたことが、本当の意味でわかる。ずっと主はわたしを見捨てず、わたしを見放してはおられなかったことが、その日わかる。どんなに見捨てられたように思った時があっても、それでも見捨てられることなく、神我らと共にますインマヌエル、羊のために命を与える良き羊飼いとして共におられたこと。重荷を負い続けて下さったこと。十字架で私たちの罪を負われて、私たちの身代わりになって天の父から見放された、私たちの救い主は、一度たりとも私たちから離れたことはなかったと、その日、私たちは、イエス様の前で知って、そして改めて、その背中に負われて御声を聴くのです。あなたはわたしのものだと。

そのイエス様に、重荷を負ってもらいながら、めいめいが自分の荷を担う。イエス様のくびきを負って、イエス様から与えられた、私のためにデザインされた、私のための愛の荷を、栄光に輝くその日に向けて、共に担っていくのです。