ガラテヤの信徒への手紙5章24-26節、ミカ書6章6-8節「新しい歩みは十字架から」

18/8/5主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章24-26節、ミカ書6章6-8節

「新しい歩みは十字架から」

うぬぼれて。もとは空っぽの栄光という言葉です。裸の王様の姿を思い起こしました。何も着てないのに、本当は自分でも、そうじゃないかと知っているはずなのに、空っぽの栄光を着て、周りの人まで空っぽの言葉でお茶を濁して、皆で空っぽに巻き込まれる。そんな大人の空っぽゲームに未だ巻き込まれていない幼子だけが、何しゆうが?空っぽやかって、私たちも本当は見ているはずの姿を言い当ててしまう。あの話、教会でも、起こり得ると言うのです。

ここで御言葉が教えている空っぽの栄光は、いわゆる「霊的な○○」、例えば霊的な人、霊的な祈り、霊的な信仰とかに見えるけれども、それ三位一体の聖霊様に導かれての態度や行動じゃ、ないでね、という外見と言えばよいでしょうか。

霊的に見えるんだけれども、そうじゃないと、何で言えるか。22節で言われている霊の実、聖霊様の結ばれる実が、そこに見えんかったら、空っぽの霊的だからです。どんなに霊的に見えたとしても、すごいねと思われたり、憧れの対象になったり、あるいはねたみの対象や、なんであんながあ…という挑まれる対象となったとしても。そこに22節以下で言われる「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という、その人の内側から生きて働かれる聖霊様が結ばれる実が、もし結ばれてなかったら、見かけは霊的でも、本当に虚しいからです。

王様に倣って、皆が見ているという立ち位置で言うなら、牧師の外見が、わかりよい例になるでしょうか。聖書の知識という霊的な装いを着て、キリスト者らしい柔和な笑顔と言葉遣いを着て、皆さんが、ご覧になっている通りの装い(笑)ですね。誤解を避けるため、念のため申しますが、これらは必要かつ有益で、神様に喜ばれる身につけるべき霊的装いです、が、もし、本来、霊的であるべきこれらが、私たちを導いておられる聖霊様によって内側から、態度から聖別され、聖霊様ご自身のお働きとして用いられて、霊の実が結ばれるのでなかったら、イエス様から、あなた、その内側には別の顔があるねと言われてしまうのです。仮面をかぶった外側の顔と内側の顔。聖書が偽善と呼ぶ在り方ですが、そこでの内側の顔が、御言葉が肉と呼ぶ、神様に逆らって自分の栄光を求める人間の顔です。

この肉と呼ばれる、神様を求めるより自分の栄光を求める人間存在のネジレは、それはもう私たちを混乱させやすい。例えば、霊の実が結ばれることを、もちろん神様は望まれるのですけど、肉はそれを自分の力で頑張ったら自分で結べるし、頑張って結ばなければと、求めさせる。それが24節の肉の欲情あるいは情熱そして肉の欲望です。霊の実を結ぶことにおいてさえ、霊の実を結べる自分の霊的力を信じたい、自分に力を感じたいという、肉の欲情や欲望が私たちには潜む。

霊的という、一種の魅力も、それがを感じさせる点にあります。霊的な力を、自分が手にしたいと、熱くなる。力に対して人は熱くなる。お熱を上げてしまうのです。

熱情を持つこと自体が悪いのではありません。肉から発する熱が人を神様の愛とは反対の方向、自分自分に向かわせるのが悪いのです。

何故なら神様も熱を発するからです。三位一体の御子を人とならせて十字架に向かわせるほどにです。そこまでしてでも人を救いたいという愛の熱をもって神様は私たちを導かれて、その熱に言わば私たちは捕えられて救われるのです。自分じゃないのだ。この神様の愛が、私を十字架の赦しによって救うのだと、信じるように導かれる。

それはもう理屈ではありません。人から見たら、変な熱にうなされたかと思われる。キリストを信じて洗礼を受けるとは、確かにそれだけのことをするのです。神様の熱情に巻き込まれるのですから。

その洗礼から始まった、十字架から始まった私たちの歩みが、でも、空っぽの、自分の力という栄光を欲する肉の熱に巻き込まれて裸の王様になってしまうことがある。常にある。それほどのことだからこそ聖書も強調して言うのです。肉と霊は対立するのだと。でも、だからこそ、聖書が一番強調するのは、その肉との対立において、私たちが、どこに立てばよいか、肉に負けた時、どこに帰ればよいかです。

霊的な歩みが始まった主の十字架に帰って、その栄光に立つのです。

それが24節で告げられるキリストの十字架の福音です。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは…」

洗礼を受けてキリストのもの、キリスト者となっても、つい自分の力で頑張って霊の実を結ぶのだと思ってしまいやすいのです。それは洗礼を受ける前に、律法を守るから救われると、肉に巻き込まれて間違って信じてしまうのと同じで、頑張ったら霊の実を結べると間違って信じてしまいやすい。あるいは自分は頑張ってないから、霊の実を結べない、自分はダメなキリスト者だと、自分の力の無さだけ見てしまいやすい。

だから!でしょう。この新共同訳には日本語で上手く訳しきれなかった言葉が、実は24節の原文にあるのです。しかし!という言葉です。その「しかし」を入れて22節から読みます。

「これに対して…掟はありません。」しかし!「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を(その)欲情や(その)欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」

自分の力で霊の実を結ぶのではない。それは肉の考えることだ。しかし、その肉を、私たちはもう十字架につけてしまったのだから、空っぽの霊的とかじゃなくて、聖霊様の導きに謙って霊の実を結ぼうと。

十字架につけてしまった。これも直訳のニュアンスは、もはや繰返すことができないほど決定的に一度限りに十字架につけてしまった。もうつけてしまったのだ!という意味です。

そんなことを、いつ自分がした?と思うかもしれません。洗礼を受けた時だと聖書学者たちは口を揃えますが、むしろ、いつかより、誰が!でしょう。洗礼を受けるという決意も含めて、人間の決意はあやふやなのです。しかし、その洗礼の決意へと導かれ、キリストを信じるように導かれた三位一体の神様が決意なさったのです。あなたを救うと。

この御言葉で決定的なのは「キリスト・イエスのものとなった人たちは」です。自分で信じるからキリストのものとなれるわけじゃない。変な譬えかもしれませんが、私が今日から吉永家の一員になると求め信じたからって、なれることはない(笑)。同様に、どうして人がキリストのものとなれるかと言ったら、一つしかないのです。キリストが!それを望んで下さり、求めて下さり、そのために必要な一切を、キリストが!十字架で果たして下さったから、だから後はそのキリストの愛と真実を信じて、身を委ねて、キリストのものとなる洗礼を受ければ良い。その救いの恵み、福音を、空っぽの栄光なんかじゃない主の御言葉は、こう告げるのです。24節「キリスト・イエスのものとなった…。」

ここから、キリストのものとなった歩みは始まったし、何度でもここから始め直すのです。この十字架から歩み出す歩みが、霊的な、聖霊様に導かれての歩みだからです。

十字架のもとに、空っぽな自分の力も栄光もかなぐり捨てて、十字架の救い主を仰ぐところに、謙って赦しと憐れみを求める、聖なる求めと聖なる熱情パッションが実を結びます。パッション。もとは受苦という言葉、主の十字架を指し示す言葉です。十字架の主が、さあ、ここから共に歩み出そうと導かれる。その熱を受けて霊の実は結ばれるのです。