ガラテヤの信徒への手紙5章1節、民数記14章1-4節「十字架で与えた自由!」

18/5/13復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章1節、民数記14章1-4節

「十字架で与えた自由!」

「この自由を得させるために」。この自由。どの自由でしょう。何とも誤解されやすい言葉です。自由って。例えば罪を犯す自由ってあるのでしょうか。だから「この自由を」と言っているのだとも思います。

この自由。先週の言い方で言えば「ねばならない!という支配からの自由」とも言えるでしょう。例えば宿題をせねばならないとか。献金をせねばならないとか。もう気持ちが重くなる態度と言うんでしょうか。でも問題は、何故、それをせねばならないのか?です。何故を考えない「ねばならない」は人を、いやいややる奴隷にしてしまいます。色んな「ねばならない」がありますが、是非、何故か?を考えて頂きたい。

先週に続いて今朝の御言葉が問題にするのは、律法を、言い換えれば聖書で神様が、これをしなさいと教えていることを何故せねばならないのか?です。そうせねば、救われないから、でしょうか。律法を守って正しくあらねば天国に行けないから?その人は、二つの誤解の奴隷になっています。一つは、それが神様でしょ?という誤解。そして、自分はその正しいことを守りゆうはずだという誤解です。だって自分は正しいんだから!という誤解とも言えますが、その誤解に対して、いや、正しくないですよと正すのが律法なのです。隣人を自分のように愛していますか?と律法は問うのです。

では何故、隣人を自分のように愛さねばならないのか。何故だと思いますか。それが正しいことだからでしょうか。その通りですけど、何故それが正しいのでしょう?神は愛だからです。何故、愛することが律法なのか。それが神様にとっての当たり前の正義だからです。

その愛に対して、私たちはあまりにも不自由です。皆さん、この愛に生きていますか。それともこの愛の正義を破って、この正義に対して、この正義の神様に対して、罪を犯していないでしょうか。

このことを今の日本の恋愛を巡る状況で考えてみましょう。恋バナ、好きな人多いですから(笑)。お耳に合えばいいですけど。

今の日本には恋愛の自由がある。戦国時代にはなかった。武将の子供は政略結婚をさせられて、相手を選ぶ自由がなかった。あるいは一昔前でも親が許嫁を決めて、自分で選べんかった。それに比べると今は恋愛の自由があるのですけど、じゃあ皆さん、私には恋愛の自由がありますでしょうか(結婚指輪を見せながら)。もし、あると私が考えて、行動に移ったらどうなるか。妻以外に。今の日本で、罪に問われ、具体的には姦通罪の罪に定められるでしょうか。答え。定められません。法的には無罪です。何故なら戦後、姦通罪は廃止されたからです。戦前はありました。が、夫ある夫人に対してのみで、夫は姦通しても姦通罪にならない。え~酷いと思うでしょう。で、戦後、新しい憲法のもと、男女平等が法律で定められたので、じゃあ夫が姦通を犯しても姦通罪で裁かれねばならないという意見を若い人々は持った。が、何と若くない世代は、いや、それなら廃止にしようという声が多かったので、廃止。おそらく妻以外の女性と恋愛をするのは、まあ男やったら当たり前やろうという意識だったのでしょう。今のセクハラ問題と一緒で、そういう方々は、わからんのだと思います。本当に。それが当たり前だったから。

そこで問題です。これは今の日本の法律では、姦淫で罪に定められることはないという、法律あるいは日本の正義、当たり前の問題ですが、じゃあ神様の愛の正義の当たり前である律法ではどうか。私がもし姦通をしたら。死刑です。え、でも恋愛の自由は?と言うなら、罪を犯す自由はないと言われるでしょう。人は罪を犯す自由を物理的には持っています。が、法的自由は持っていません。法で裁かれます。そこが自由の誤解の根底にあります。神様の正義の法、律法は、それは死に価すると有罪を告げるからです。

いや~でもイエス様は優しいから、そんなことを言わんろうと、もし思うなら、えらい誤解で、イエス様はこう言われた。人が欲望を持って結婚相手以外の人を見るなら、それはその人の意志において既に姦通を犯したのだと。更にはイエス様がおっしゃるには、もし人に、あいつ役に立たんとか、使えんとかって言うなら、その人は地獄に投げ込まれると言われた。え?!というのが、その名を愛と呼ばれる聖なる神様の、愛の正義と清さの当たり前なのです。私たちは、あまりにも、その清い愛に対して、不自由で、汚れていて、神様の当たり前がわからんのです。それはあの、譬えに出すのは失礼ですけど、セクハラがわからないで、言い訳と開き直りばかりしている方々の態度と顔の表情を思い出して、私は神様の前に、イエス様の前に、同じ顔をしているのかと思うなら、心でおわかりになるのではないかと思うのです。

それが律法の働きです。聖書は私たちの真実の顔を映す鏡だと言われる所以でもあります。そのために神様が与えて下さった聖なる律法の、この働きからは、私たちは自由ではありません。

では、キリストは一体、どんな自由を私たちに与えて下さったのか。その自由に、あなたはしっかりと立ちなさい。その自由から逃げるようにして、まるで先に読んだ旧約のイスラエルの民が、エジプトに帰ろうと、律法とモーセを捨てて、別の指導者を、自分たちの自由になる別の何かを立てて、エジプトに帰ろう、奴隷やったけど、今よりはましやと再び奴隷のくびきを自ら負おうとするようなことは、決してあってはならないと言われる、それほどの自由をキリストが与えて下さったと言われる「この自由」とは、神様は、一体どんな自由を、キリストによって与えられたのか。

律法が宣告する、有罪判決からの自由、そして有罪の判決を受けた者に必ず与えられる、実際の報い、刑罰からの自由です。あるいはそれをひっくるめて、裁きからの自由と言うこともあります。

有罪判決からの自由と言っても、律法が私たちの罪を指摘して、それ罪で、と言わんなるわけではありません。言います。それが律法の働きだからです。でもそこで律法が指摘する私たちの有罪を、私たちの前にキリストが立って下さって、それを奪って下さって、その有罪はわたしが引き受けたからと、くるっと私の目を見て下さって、だからあなたは赦されたし、だからその罪を悔い改めなさい、それはわたしたちの選ぶ道じゃない、わたしがあなたの道だ、わたしについて来なさいと言って下さる。そこに有罪判決からの自由があるのです。律法で指摘された罪の裁きからの自由がある。その罪の刑罰を、キリストが既に引き受けて下さって、身代わりに罰を受けて死んで下さったからです。

でも、そこでキリストを無視したら、どうなるか。律法が指摘する罪をも無視するでしょうか。するかもしれません。それが自分の、あるいは自分が生きている世界の道の当たり前だったら。律法ち、何で?と。それか、いやいや自分は律法は無視せんと、確かに完全に守りやせんかもしれんけど、守りゆう所もあるき、帳消しになるきとか、守りきれんでも、守る気持ちが大切ながやきとかを、実際の律法の指摘は無視して思うでしょうか。でもそこで、律法が本当に指差しているのは、あなたには、あなたの罪の償いを十字架で負われた神様が必要だと、キリストを指差しているのに。そこで尚、キリスト以外の何かや、自分に希望を置いて、信じて、キリスト抜きで、その道を行こうとするなら、それはエジプトの国に帰ろうと言うのと同じだと言うのです。

だから、今朝の福音の御言葉は告げます。キリストは私たちを自由の身にしてくださったのだから、しっかりしなさい。キリストがあなたと共におられるでしょう。あなたはキリストのものだろう。だから二度と奴隷のくびきにつながれてはならないと。

何故なら、何度でも言いますが、キリストがもう来てくださったからです。あの十字架で、私たちの罪と裁きを全部身代わりに負い切ってくださって、言い換えれば、そこから私たちを降ろして、私たちに対する神様の正義の執行から、私たちを自由にして下さったのです。

このイメージは、実は30年前の映画「最後の誘惑」の大変にスキャンダラスな場面を少し拝借したものでして、その映画では、十字架の上のイエス様のもとに天使が来て、あなたはもういいよ、皆には見えてないから、そこからあなたを降ろそうと降ろしてしまって、イエス様は何とマグダラのマリアと結婚して暮らすという、大変スキャンダラスな展開なのですが、実はそれは十字架の上でイエス様が見ていた夢で、ハッと十字架の上で気がついて、危ない、十字架で死ななくてもいいという、最後に誘惑に負けるとこだったという映画です。ただ、見るのはお勧めしません(笑)。と言われると見たくなるのが、罪の本質ですが(笑)、イエス様が受けた誘惑と苦しみの生々しさは神学的で共感するのです。が、脚本や編集の持ってき方がいやらしいので、お勧めはしません。

でも、十字架から降ろされるイメージは、私には大変印象的で、私はそこで、映画の意図とは全く違って、あの十字架で本当に起こった事実は、私が私の罪故の十字架で、神様が私に執行される正義の刑罰を受けて死なねばならないのに、そこにキリストが来て下さった。そして私の十字架に架かって下さって、さあ、だからあなたはここから降りて永遠の裁きから自由になっていいと、私を降ろして下さったのです。私が罪を犯したから、私が裁かれねばならないのに、その私のもとにキリストが来て下さって、私を十字架から降ろして下さって、私の罪故の十字架に、代わりにキリストが釘打たれて下さって、それで私は、私の罪故の裁きと死と滅びから、自由にされたのです。キリストがその代わりに、十字架の上で全く不自由に釘打たれ死んで下さって、私の罪故に裁かれて下さって、私の死を死んで下さったからです。

それで私は今ここで皆さんに証言しています。キリストが私に下さった、この自由は、皆さんにもキリストから与えられている自由ですと。皆さんも、あの私たちの死である十字架から、キリストによって降ろしてもらって、今、自由を頂いて、一緒にキリストを礼拝しているのではないですかと。そのキリストが言われるのです。わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神であると。