ガラテヤの信徒への手紙4章21-31節、創世記21章9-13節「信じて嬉しい約束」

18/5/6復活節第六主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙4章21-31節、創世記21章9-13節

「信じて嬉しい約束」

いま二つの聖書の御言葉を、旧約聖書と、新約聖書から読みました。旧約と新約という言い方をします。よく旧い翻訳と新しい翻訳だと誤解されることがありますが、旧新約の約は、契約の約でして、旧い契約と新しい契約という意味です。

それが今朝の御言葉24節の下の段では「二つの契約」と言われています。今朝の御言葉は少し長くややこしい割には、言っている内容は一つのことでして、その内容は最後の31節で「要するに」と、まとめられている通りです。

言い換えるとこうです。要するに、あなたは、まだ旧い契約、旧約の時代にいるんですか?あたかもキリストが、まだお生まれになってないかのように。十字架でキリストが死んで下さった?何それ?と言うように。まさか、そうではないだろう。だってキリストは、私たちの救い主として、新しい契約を、その契約通りに実行するために来て下さったのだから。そして契約通りに、私たちの罪を全部十字架で背負って償いを成し遂げて下さったんだから。だったら、あなたは、その新しい契約、新約が保証する通り、キリストによって救われて新しく生きる他はないだろう。言い方を変えれば、あなたを罪に定めて裁く律法の支配から、あなたはもう自由にされて生きるんだ!律法の奴隷のように生きるな。これが今朝の御言葉のメッセージです。

皆さんは、どうでしょう。律法の奴隷にように…言い換えれば、これこれの決まりを守らな救われんきと、これをせねばならない、あれを守らねばならない、だってこれらの「ねばならない」を守ることで、天国に入れてもらえるがやろう?と、もし考えておったら、それを聖書は、律法の奴隷と呼ぶ。奴隷の生き方だと。詳しくはまた次週に説き明かしますが、うんとわかりやすく言えば、この「ねばならない」を、さっき申しましたように、あたかもキリストが救い主として来られてないかのように自分の力で、自分が全部責任をもって、自分で「ねばならない」をやらねばならないと、キリスト抜きで生きることを考えてはないか

それとも、新しい契約のもとで、キリストと共に生きる新約の恵みのもとで、確かに神様の正義に従って生きねばならない、正義を行って、隣人を愛して、神は愛ですと、その愛の正義に生きねばならないのですけど、じゃあ生きていますか?神様の愛の正義に生き得ていますか?と問われて、誰が、もちろん、だってそうせねばならないからねと鼻高々に答え得るでしょうか?そう、勘違いしている人が、そう言うのです。自分のことも、聖書の言っていることも、正義についても、愛についても、全部自分中心に勘違いしていると、自分は「ねばならない」をやっているから大丈夫と、悲惨な勘違いをしてしまう。

私は10代の頃、うんとそうだったのを思い出します。男はこうあらねばならない!と頭をリーゼントにして、ぶかぶかの学生服着て、バンドやってたんですけど、男は硬派であらねばならないと、つっぱらかってたので、バンドやってたのにモテなくて(笑)、で、クラスの女子にこう言われた。野口君勘違いしてない?えらいショックだったのですが(笑)、どう自分を変えたら良いか、わかりませんでした。

そんな私を変えて下さったのは、キリストです。20歳の時に出会ったので、10代は勘違いしたまま終わりましたが(笑)、新約バンザイですよ。新しくなるって、何と素晴らしいことか。

今朝の御言葉で言えば、それが「自由な身」にされるってことです。勘違いからの自由!と言っても、いいんじゃないかと思います。だって恥ずかしいですよ。勘違いしたままって。意地になって、それでも貫くってことも、人間はやってしまいますが、でも、どっかで恥ずかしさを隠し持ちながらも、その意地から抜けだせないんじゃないでしょうか。勘違いから自由になりたいのに、今度は意地の奴隷になっているというか。何なのか、この人間の愚かさって、って思われないでしょうか。

無論、私の話に戻ると、キリストに出会って、神様の救いを知って、私は神様の救いが必要ですと、キリストを信じて洗礼を受けて、本当に変えられていったのですけど、やはり自分中心での勘違いというのは、ある。このガラテヤの信徒たちもそうですが、キリストを信じて洗礼を受けたのに、そのキリストが私の生き方の中心におられる私の主です、とキリストに向き合って生きてないと、自分が自分の生き方の主となって自分が中心になっているところでは、すぐに勘違いの態度、生き方、考え方になってしまって、あれ?おっかしいなってことになる。

そこで、なんです。自分が中心じゃなくて、神様の愛の正義に従って生きなさいよと、律法を神様が与えてくださった理由は、そこにある。自分のフィーリングで、これが正義よ、なんてやらないように、律法で神様の正義を教え、裁かれるべき悪を教えられた。でないと、自分で、これが正しい!と、人は勝手に勘違いするからです。ないでしょうか。そういう正義や正しさの、自分中心による勘違い。

そして更に、です。ここが急所ですが、じゃあ何が神様の正義かを、律法で教えられ知っておったら、それで正義を守れるのか。自分は正義を完全に守っていますと一体誰が答え得るのか。勘違いしている人のみです。隣人を自分のように愛するという正義を、わかっていても、守れない。愛しきれないじゃないですか。愛を守るよりも、自分を守る自己防衛、言い逃れ、だんまり、人を避ける等、色々やって、正義を守るより自分を守ろうとしてしまう私たち、どうしても罪を犯してしまうのです。その罪を神様が責任を取って償い、赦して、あなたを救うからと、その償いが神様から与えられることを信じるようにと、神様は、やがて来られるキリストを指し示す犠牲を捧げる礼拝が神様を神様とする礼拝の中心だと、律法をお定めになられた。それが旧約に、何で律法が含まれているかの理由です。正義についても、正義を守れない罪人の救いについても、自分中心に、勘違いしないようにです。

だから24節では、その律法を含む旧約のことを「シナイ山に由来する契約」と呼んで、勘違いシナイ(笑)というのは冗談ですが、シナイの契約と言えば、律法が与えられたというのが急所です。

そして律法の急所と言えば、一つ前の頁をめくった346頁上の段左端19節「では律法とはいったい何か。律法は約束を与えられたあの子孫、キリストが来られる時まで、違反を明らかにするために付け加えられたもの」です。何故か。語呂合わせで言えば、私はキリストによる償いを必要とシナイ、という勘違いをこそ、シナイためにです。私たちは償いを必要とするからです。しかも罪なき者による償いをです。

ですので、シナイでの契約は、これも勘違いし易いかもしれませんが別に悪い契約じゃないのです。旧約は決して悪い契約ではないのです。ただ足らんのです。決定的に足らんのです。水を張り忘れた飛び込みのプールのように。互いへの愛の誓いを未だ交わす前の結婚式のように。いくら律法が与えられても、その律法自体が約束をする、正義と救いの契約を成就される方、キリストがついに来られて償いを満たされたのでなければ、そらまるで新郎を抜きにして愛を誓うような、何もない空間に指輪をはめるような、全く虚しい絵空事でしかない。

でも、その私たちの救いも、また私たちの人生もが、決して虚しくならないようにと、もうキリストは来られたのです。十字架で正義と約束を満たされて、だから、わたしを信じなさいと、救い主として約束しておられる。その約束を信じるところに、救われた自由は溢れるのです。