ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節、ヨエル書3章1-5節「自分の信仰からの自由」

18/5/20聖霊降臨主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節、ヨエル書3章1-5節

「自分の信仰からの自由」

キリストを信じる幸いの一つに、自分のこだわりから自由になる、という幸いがあります。例えば牧師は礼服を着ないかんとか、いやガウンをとかから自由です。因みに大阪教会ではモーニングを着ていました。この辺にトースト、サラダ、コーヒー(笑)。これどっちのモーニングもわからんと意味がわからんのですけど。前に聞かれました。説教で笑いとっていいんですか(笑)。そういうこだわりから自由なのです。

先の御言葉に出てきた割礼もそう。でも、割礼がないといかん!と、こだわる人がおった。何でこだわるか。そうせな、救われんき、割礼は言わば救いの徴やき、と思っておったようです。

これ、案外、私たちも似たようなことしゆうかもしれません。

これが救いの徴だと思って、そこにこだわって、それをしてない人に対して、まるで新興宗教の勧誘のような熱心さをもって迫ったり、あるいは、同じこだわりを持ってない人を裁いたり。よくありがちなのは、礼拝厳守。と言って即座に言い加えますが、礼拝を守らなくてもいいというのでは決してありません。十戒で、安息日を心に留め、これを聖別せよと命じられている通りです。聖なる礼拝に対して特別な思いを持って、これを聖別する。以前、うちは毎月の結婚記念日を祝いますという話を聞いたことがあります。毎月?つまり、例えばそれが20日だったら毎月の20日に夫婦で祝うというのです。すごいなと思いましたが、私たちを愛される神様の情熱はもっと上を行く。毎週!聖なる特別な日として礼拝の日、言わば神様とのデートの日を聖別しなさいとおっしゃる。私たちの造り主であり救い主である神様の、何と情熱的なことか!神は愛なり!と、そら言われるはずです。

でもそれを守るのは、神様の愛のしるしであり、その愛によって救われた者たちの感謝と献身の徴であって、守ることが救われている徴ではない。結婚してないのに毎週デートしていれば、それが結婚している証拠になる訳でないのと同じですし、毎週デートしていなければ結婚してない証拠ではないのと同じです。ただ、デートもせんし、会話もない、ってなると、結婚はしていても虚しいのは当然でしょう。神様との関係も、虚しくなることは確かにある。礼拝の会話は、救われるためにではなく、救われた関係と喜びを満たすために必要なのです。

少し言わずもがなを言い過ぎましたが、では神様のこだわり、神様が私たちに求められる救いのこだわりって何か。それが欠けているなら、どんなにデートを重ねても、毎日デートをしゆうき大丈夫と思っても、いや数の問題でもなければ、言わば救われるための正しいことはこれ!っていう正しい手順や儀式の問題でもない。割礼や、大胆に言えば洗礼の問題でさえない。むしろその形式や儀式を本物にする、どういたち、ここが満たされてなかったら、どんな儀式や方法や行いも一切が無意味になる、この必要!をあなたは持っているか?と問われる、唯一無比の必要がある。その唯一つの必要が、つい他の何かにこだわっては恵みと喜びを失ってしまう私たちの、救い主であるキリストです。

キリストです。信仰でもない。キリストにこだわらないで、誰あるいは何を信じるのでしょうか。大胆に言えば、自分が信じているかどうかにこだわるのは、自分の信仰、あるいは信じている自分へのこだわりであって、その相手であられるキリストへのこだわりは、後回しになっている。まるで結婚した相手への関心よりも、自分は正しく愛しているかとか、相手は私を正しく愛しているかにこだわるようなもんです。相手より、行いにこだわる。それでは相手との信頼の関係はおかしくなる。相手は、わたしを信じて!ってなってしまうでしょう。

私たちの救い主になられたキリストは、あの十字架の大きな愛と確かな罪の償いと完全な赦しをもって、わたしを信じなさい、とおっしゃる私たちの結婚相手です。御言葉の6節でも「キリストに結ばれていれば」と言われている通りです。更に言えば4節の3行目で「キリストとは縁もゆかりもない者とされ」と訳された言葉も、キリストとの結婚を解消することになるという意味です。それだけのこだわりを持って、神様はキリストを与えて下さったのです。

そしてキリストと私たちが確かに結ばれるように、単に気分で、今日はキリストを信じちゅう気がするとかじゃなく、確かに永遠に結ばれて神の子とされて救われるために、神様は、キリストと私たちを、永遠に一つに結ばれる、聖霊様を与えて下さったのです。

それが今日、私たちが聖霊降臨日を祝う理由です。

5節に、その聖霊様の恵みが、言わば私たちを自由にする風が吹いてくるようにして紹介されています。5節「…。」

「霊により」。三位一体の御子を人として生まれさせた聖霊様によってです。私たちの代わりに十字架で死なれた御子を死から復活させられた三位一体の聖霊様によってです。この聖霊様が私たちとイエス様を一つに結ばれて、私たちも神の子として新しく生まれさせて下さる。そして新しい天と地が訪れる復活の日には、御言葉が「義とされた者の希望」と呼ぶ、キリストの贖いによって完全に罪が滅ぼされ、神様の愛の義が満ち満ちる義なる御国に、永遠の喜びと自由を持って生きる希望に向かって、私たちを復活させられる。三位一体の聖霊様によって!です。

その三位一体の神様が実現なさる永遠の言わば救いのドラマの中に、私たちの信仰がピョコっピョコっと顔を出して、私も何かしたでしょ、私もその救いがなされるために必要な努力を提供したでしょ、私がいなかったら、この救いは成り立たなかったでしょ、と顔は出さない。もしそうやって顔を出す信仰がおったら、まあ、隣りで感動と感謝に満ちて拍手している信仰の仲間から、し~。それより一緒に神様を賛美しましょう!って、神様への賛美に導かれる。それが信仰です。

私たちが、この信仰によって何をするかと言ったら、この救いのもとに、一緒に行こうと、愛する者たちを招くのです。この救いを見てと。救い主に会いに来てと。その私たちのもとに、聖霊様も来て下さって、一緒に言って下さるのです。そうで、あなたの救いのために、この全てをわたしたちは用意しちゅうきと。あなたの救い主も。救い主と一つに結ばれて、キリストを信じて生きる信頼関係、信仰の絆も。全て、恵みとして受けなさい。全て、あなたのものだからと、聖霊様が一緒に救いを証して下さる。それが聖霊降臨日に起こった出来事です。今日も同じ聖霊様が、私たちを恵みの中に巻きこんでおられます。そして私たちをキリストを信じる者、救いを待ち望む者として、一緒にキリストのもとに導かれるのです。それが聖霊様の大いなる、そして不思議で喜びに満ちた、自由になる救いの御業なのです。