18/1/28主日朝礼拝説教@高知東教会
ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節、創世記15章1-6節
「二人の出発点に戻ろう」
どっちですか。あなたはキリストによって救われますという福音を聴いて信じた、つまりキリストを信じたからですか。それとも自分を信じて、自分が救われるためにやるべきことを、自分がやったからですか。どっちですか。
聴く人が、そら、そう言われたら明らかに、こっちよ、と答えるしかない質問をもって、キリストの使徒パウロはガラテヤの教会の信徒たちに問うています。知っちゅうろうと。キリストを信じたきやろと。
この質問は、キリストを信じて信仰生活が始まった全ての人に対する神様からの質問でもあります。また、キリストを信じてはないんだけれども、でも神様はおるって信じているし、神は愛だというのも、そうながやろうなと思う、けんど私は信仰があるかないか言われたらわからんところがある、だから洗礼も受けてないし、どうして受けないかんかも実はピンとこないと思われる、そうした多くの方々にも、無関係な質問ではないでしょう。
神様は問われるのです。では、あなたはどっちか。キリストをあなたに与えたわたしを、キリストの名によって、天にまします我らの父よと呼びかけられる信頼関係を、あなたはわたしと持っているか。その関係を持っているなら、それはどこから始まったか。あなたに与えた、あなたの罪を担うキリストを信じたところからか。それともキリストではなくて自分を信じて、やるべきことをやったから、おお、そうだそうだ、キリストなんかいらんわねゃ、自分を信じろ、自分をと、そのあなたをわたしが認めたからか。わかるろう、そんなところにあるのは、わたしとの信頼関係じゃなくて、自分を信じるお一人様の宗教だと。
もしそこで私たちが自分の真心に嘘をついてでも、そうよ、自分を信じちゅうきよ、と嘯くのでなかったら、うん、確かに、神様に向かって父よと呼びかけて歩む信仰生活が始まったのは、十字架で私の罪を負って下さったキリストを信じたきやと、改めて、じゃあこの信仰生活と呼ばれる生活は、どんな生活なのかがわかる。あれこれを自分はやりゆうきという、自分に縛られた生活じゃない。自分が信じちゅうき、自分が自分がと、自分の信仰深さを信頼して、安心したり、人を裁いたりするのでもない。信仰生活というのは、そんな自分に縛られた自分を信じるお一人様の宗教ではないからです。むしろ、そういう自分から自由になって、共に生きる相手のことを意識して、つまり私と共に歩んで下さる神様を神様として意識して、その神様を信頼するところで平安を授かる歩みのことを、信仰生活と呼ぶのです。
それを今朝の御言葉では、2節で「あなたがたが“霊”を受けたのは」と呼びますし、また5節で「あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は」という言い方で表現します。誰から霊を、つまり三位一体の聖霊様を受けたのか。その三位一体の神様からです。また誰が、その後も教会に聖霊様を注ぎ続けられて、わ、これ神様やという奇跡を、神様でしかできないことを行われるのか。神様です。自分ではない。それを教会は体験して知っちゅうろうと言うのです。
ただ、神様と人間という言い方に替えて、霊と肉という言い方で言うておりますので、ちょっとわかりにくい。でも、とどのつまりが、神様から共に歩み始めて下さって、その後もずっと神様が!共に歩み続けて下さらんがやったら、どうやって、共に歩めるぜ?自分の歩みばっかり意識して一人で歩んだち、共に歩むことにはならんじゃいか。そもそも神様が神様から!私たちのところに来て下さって、共に歩み始めて下さったじゃないか。神様がそれを求めて下さったがじゃないか。その神様との歩みに、信頼関係の歩みに戻りなさいと言うのです。
私がこの御言葉を読んで思い浮かんだのは、毎年、馬路村で行われております、馬路おしどりマラソンです。おしどり、という名の通りに、ま、夫婦じゃのうてもえいようですが、二人でエントリーして、二人で用意ドン!とスタートして、二人で走って、二人でゴールする。これが決まり。そうじゃないと失格。これを、イエス様と一緒に、用意ドン!とスタートして、二人で走っていくのを、ああ、これがイエス様を信頼して、共に歩んで行く信仰生活やとイメージしました。皆さんも想像してみてください。イエス様とあなたが、二人で用意ドン!とスタートして、二人で走っていくんですけど、相手、イエス様ですよ。福音書を読んでおったら、もうしょっちゅうイエス様、一緒に歩んでいる弟子たちが、あれ?と理解できん行動を取られる。ま、肉を取られた霊、人となられた神様ですから、無論、神様ならこうするという行動を取られる。けれどもそれが、自分中心で自分を正しいと信じてしまう肉なる人間はわからいで、ええ?って思う。そんなイエス様と、おしどりマラソンを走っておったら、例えば道端で、どうも相手に置いて行かれて、泣いている人がおって、イエス様そこで立ち止まって慰めておられる。やっとまた走り始めたと思ったら、また別の弱っている人がいて、また立ち止まられて、ってのが続いている内に、何だか周りから浮いた存在になっていて、でもイエス様は全然気にされてない。むしろそれを気にしている私を気にかけて、他の人々がどうであろうと、あなたはわたしについて来なさいとおっしゃる。うん、そうやと、またイエス様と共に走り、共に立ち止まり、隣りで祈ったり、共に助けたりするのだけど、それができん時だってある。イライラして、それはその人が悪いがやいかと、イエス様のお気持ちがわからいで、いや、わかりたくなくて、もうえいき、一人で行く!と、自分のペースで自分の好きに走るがが人生やろうと、コースを外れんかったらえいがやろうと頑張って走ってゴールやと思ったら、マラソンの主催者が言うのです。あなた、イエス様と一緒にスタートしませんでしたか?一緒にスタートをして始めたのに、自分で仕上げようとするのですか?
いまイースターに向けて、洗礼準備会を行っておりますが、その最初の会では必ず、このイエス様と一緒に歩み始めるのが信仰生活ですと、そのイエス様が、私には必要です、イエス様を私自身の救い主として、私の人生にお迎えして、イエス様と共に歩む祈りを、祈りましょうと。いつもそこから洗礼準備会を始めます。私が牧師になってから、ずっと同じです。それは今日の説教の言葉で言い換えたら、イエス様と一緒に用意ドン!で始まったのが、この信仰生活だから、その信仰を自分一人で始めることも、もうやめると、自分一人で決めることもできんのが、信頼関係としての信仰、相手がおる関係によってのみ成り立つ信仰だということを、最初の最初で、心に刻んで欲しいからです。
この関係!今朝の御言葉が「霊によって始めた」と言う内容を、別の角度から教える御言葉が4章6節にあります。左の頁をぺラッとめくって左側の4章6節に「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子(イエス様)の霊を、私たちの心に送って下さった事実から分かります。」アッバとは、イエス様が父なる神様を呼ぶ時に実際に呼んでいた言葉で、子供が、お父さんとかパパと呼びかける言葉です。これが、聖書の信仰とは信頼関係、先ず関係ありきで、その関係を持つ相手を信頼するのが信じるということだというのが、よくわかると思います。父は子供がいないと父になれない。関係ありきの言葉です。それに対して神という言葉は、人間とかパンダと同じで、言わば種類です。関係なんて関係ない。上野のシャンシャンは、私との関係次第でパンダではなくなったりしません。パンダはパンダ。人は人。神様は神様。
私たちはその神様と、関係を持っているか。しかも父と子の信頼関係を。一方的に、こっちは父として信頼しているけど、あっちがどうかは知らんという根拠なき、またはストーカーの妄想のようなのは、信頼関係ではありません。相手もまた、そうだ、ここには父と子の関係があるとニッコリ笑って認められるのが、父子の信頼関係です。
皆さん、先にも主の祈りで祈りましたが、神様は本当に私の父なんだと信頼して、だって御子イエス様を私の罪の身代わりに十字架で裁いて罪を赦して下ったのだから、そのイエス様が、だからあなたは祈る時、天にまします我らの父よと、そう父に呼びかけて祈りなさい、だって、あなたの父になるために、わたしをお遣わし下さったのだからと教えて下さったのだからと、天にまします我らの父よ、アッバ父よとキリストの名によって父よと呼びかける祈りを祈るなら、その祈りは、自分からは出ていません。何故なら、父よと、信頼して呼びかけるその祈りは、父との関係からにじみ出るからです。それは例えば私の子供が私に向かってお父さんと呼ぶ時、そのお父さんは、いいですか、交換不可能で、私だけです。よく学校あるあるで、女性の先生に向かって、お母さん(笑)と呼びかけることが中学生でもありますが、呼びかけた瞬間に知っています。本当はお母さんじゃないと。ならば祈る時、相手のことは知らんけど、記号のように、神様とか父よとかと呼ぶのでなくて、相手を知っていて、私の子供が、私がお父さんと呼ばれる時の私の気持ちや喜びは知らなくても、知らないことは沢山あっても、それでも私が誰だかは知っていて、私のお父さんだ、他におらんと知っているように、私たちが天にまします我らの父よ、あなたは私の罪を赦すために御子を十字架で犠牲にしてくださった、私たちに救い主イエス様をくださった天の父ですと、そのことを自分の事として知って信じて祈るなら、その祈り自体が証明するのです。その祈りは、父が御子を信じる者に注がれた聖霊様から出ているんだと。
前にも言ったかもしれません。私が、まだ洗礼を受ける前でしたが、イエス様を信じてすぐの夜、満天の星を見上げたら、星の瞬きの背後に天の父が、我が子よ、わたしは本当に嬉しいと笑っているように思えて、父よ、私も嬉しいですと、ただただ父の存在に、この父が私を愛して下さっているという、父の子となった喜びに、ありがとうございますと、父と話をするようにして祈ったことを忘れられません。
この神様を信頼して歩む信仰生活を、神様が共に歩んで下さるのです。神様から始まったからです。その神様を信頼して人は救われるのです。