ガラテヤの信徒への手紙3章6-9節、創世記12章1-3節「正義と幸せは信頼関係に」

18/2/4主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙3章6-9節、創世記12章1-3節

「正義と幸せは信頼関係に」

祝福されています。いま既に祝福されている。されるであろう、ではない。じゃあ、どんな祝福でしょうか?聖書の言う祝福は、神様が他の誰かの神じゃなく、あなたの神様として、しかもあなたの父として共に生きて下さっている幸いを、おもに言います。先週も言いましたが、父というのは子に対する関係の言葉です。我が子だけがお父さんて呼ぶ。神様が、その関係にもう生きて下さっている幸いが、生活の隅々にまで実を結びますようにと礼拝では祝福の祈り、祝祷もするのです。

なんだ、お金が増えるとかじゃないのか(笑)という祝福を求める人もおるでしょう。あるいは求めさせられてしまっているのでしょうか。今朝の御言葉でも「わきまえなさい」と言われます。わきまえてない。もっと単純に言うなら、知らない。自分に関わりのある大切な事として知らないと、軽く考えてしまって、周りに流されてしまうことがある。先の戦争前のように、教育基本法を変えるとか、憲法を変えるとかって動きがいよいよ加速してきましたが、これも、自分のことだとわきまえてなかったら、流されてしまう。先週あるミッションスクールを訪ねた際、今年から「特別の教科 道徳」という教科書を文科省が有無を言わさず配布して、町内会とかにも配って、これが国民道徳だと、あちこちからプレッシャーをかけられるようにしたと聴きました。こうした動きは以前からあって「うちの学校は聖書で道徳を教えているので、道徳の書籍を無料配布されても使わなくて税金の無駄になるので」と教育課の課長に電話したところ「お願いしているのに、断るのですか」と激高されたそうです。上から押し付け、自分で考えて判断する自由を認めず、つまり相手の人格を認めないで、これが国民の正義、国民の幸せですとやる。本人の承諾無視の不妊手術も同じ態度からの出発でしょう。でも自分の正義から出発しないで、相手の人格を尊重して共に生きる正義の道もあるのです。が、それをわえきまえてないと、これが正義だ、違うのは排除しろと、先の戦争のようになる。なってからでは遅いのです。

聖書は言うのです。「だから、わきまえなさい。信仰によって生きる人こそ、アブラハムの子だと」。「アブラハムの子」言われても、それこそアブラハムを知らないと、 ?となるのですが、丁度!来週の礼拝で高知分区の諸教会が説教者を互いに交換し合って礼拝を共にする交換講壇を行う、その時に!瀬戸キリスト伝道所の堀眞知子牧師が説教しますのが、6節で引用された「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」という御言葉です。相談してないのに、では、ここでと言われた。神様の導きって本当にすごいなと思います。改めてアブラハムとは誰か知ってほしいと願いますが、今日の御言葉からは9節の内容が要するに「アブラハムの子」ということで言いたいことだと言えます。「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」

何度も言いますが、聖書の言う信仰は相手との関係によって成り立つ信仰です。信頼関係の信頼です。神様が共に生きて下さっていて、この関係にあなたと生きられて本当に良かった!という、永遠に失うことも朽ちることもない宝、幸い、祝福を、この信仰、信頼関係の内に、もう持っているのだと言うのです。アブラハムの子だ、と言うより、むしろ神様の子とされていると言い換えた方がわかりよいとも思います。

ただし、この手紙が書かれた当時のガラテヤの教会では、自分たちが「アブラハムの子」であるかどうかが、自分が救われるかどうかを判断するキーワードとなっていた、と言うか、ある人々が、これが救いだ!と、無理にキーワードにさせていたみたいなのです。

アブラハムはユダヤ人の先祖です。アブラハムの祝福とは、彼自身がどうのではなくて、彼の子孫として神様が人として生まれ、全ての人の救い主として罪を償う。そのキリストがアブラハムから生まれるというのがユダヤ人以外の異邦人にも及ぶ世界の祝福なのです。が!いやいやユダヤ人だから救われるんだと、ユダヤ人であることを誇る、どこの国にもいる民族主義者が、俺は洗礼も受けたけど、けんど異邦人が救われるには、神様がユダヤ人の父祖アブラハムに命じられた契約の徴、割礼を受けて「アブラハムの子」にならな救われんき、さあ割礼を受けろ、じゃないと神に認められるか!と、教会員を惑わしておったのです。

そこでキリストの使徒パウロは、じゃあ聖書には何と書いちゅうか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」と書いちゅうじゃないか。だから割礼を受ける人がアブラハムの子として神様の祝福を受けるんじゃなくて、信仰によって生きる人が、神様から、そうだ、それがわたしが最初から求めて、言い続けてきた祝福だったと、神様を信頼する、しかも神様のおっしゃる通りの救いの神様として信じる信頼関係によって救われる祝福が、アブラハムも頂いていた祝福だったじゃないかと、改めて、わきまえさせるのです。

信頼によって結ばれ、祝福される関係。行いによってではない。何かすることによってではない。そうでしょう。子供が何かするから、親と子の関係に入れるのか。せんかったら、お前らあもう子じゃないと捨てられるのか。できんなったら、生んだ覚えはないと言われるのか。そうなのか?それは罪に支配され自分のことしか考えない、神様との関係が破綻して神様が分からない、神様も愛もわきまえることができなくて、だから幸せも知らないで、自分は自分はと、相手の人格を無視してでも自分は正しい、自分はこれでいいと自分の本当の幸せすらわきまえない罪に命を奪われた人間のすることではあっても、そんな関係を無視する祝福や救いは、神様のものではないでしょう。

「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」。相手を信じることを正義とする神様。その神様を信じる信頼関係によって人を祝福し救われる神様は、割礼を受けな救われんとは言われんし、あれこれをせな救われんとも言われない。人の罪を赦すとは、赦しえないような罪を赦してでも、それでも共に生きたいと、罪を裁く正義を全部キリストの十字架で執行して、人となられた神の子を身代わりに死なせてでも、共に生きよう、それがあなたにとっての、そしてわたしの求める祝福であり救いだと言われるような救いは、私たちのあれこれの行いなんかで買えるような安いものではないでしょう。神様から与えられている命はそんな安い命ではない。その命を買い戻すため、贖うために、神様は人となられて、その永遠の聖なる命を全部支払い切られたのです。それが私たちの命の価値です。それを安く見積もってはいけません。人の命も自分の命も。

「信仰によって生きる人々」というのは、その神様を信頼し、本当にこの命はそれほどまで愛され受け止められ救われる命なのだと、神様の言葉を信頼し、命の価値を信じ、これが真理だと、世の中の、人と比べるような安い価値や安見積もりを、もう信頼しないで、そんなんに惑わされることからは、もう自由になろうと、生活の全てを、このキリストの救いから、新しくわきまえ直せるように、神様が、じゃあ、その信頼から出発しようと、共に歩んで下さる人のことです。自分から出発しない。安定しているように思えても、自分は死んでも正しいというような重くて動かん墓石のような土台から出発しない。その墓はキリストが壊して下さったのです。そんな土台は人を生かさんと、お一人様の信仰も独り善がりの正しさも、一切の罪を引き受けて、わたしは主、あなたの神、あなたと共に生きる神だと、神様を信じて共に生きる道を与えて下さった。その信頼の命を生きるのです。そこに救いがあるからです。