ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節、イザヤ書53章「十字架の救いに震えた」

18/1/14主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節、イザヤ書53章

「十字架の救いに震えた」

衝撃的な言葉だと思われたかもしれません。「ああ、物わかりの悪い」と、二度も同じ言葉を繰返してガラテヤ教会の信徒を何とか説得しようと試みる使徒パウロの鬼気迫る言葉も、わ、聖書ってこんな言葉遣いをするのかと衝撃を受けたかもしれません。また先に読みました旧約聖書イザヤ書の言葉。神様がクリスマスの夜に、人として生まれて十字架に向かわれる何百年も前に預言された、神様から与えられる救い主とは、こういう救い主だ、救いとはこの救い主の犠牲の死による罪の赦しだとキリストの十字架を克明に、ハッキリと描き出した福音の言葉。これを昨夜、説教準備のために改めて読んで、改めて心が震えました。神様は「多くの痛みを負い、病を知っておられる。」「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと。」この季節になると体調や精神に不調をきたしやすい。苦しくなる。重くなる。電話でその痛みを負います。わかってもらいにくい痛みも多くある。わかりにくいからもあるでしょう。そんなに痛い苦しい言うなと、家族や看護にあたる方からも言われたりする。聞いている側も辛くなるからです。自分が全部悪いのかと思い、誰も担ってくれないという痛みが増える。心や体の病だけでなく、罪の病から来る痛み、罪の被害故の苦しみも、もちろん多くある。罪故の痛みに、何故ですかと叫ぶ。どうしようもなくなる。その病を神様が知っておられる。病を担い、罪を負って下さっている神様がおられる。それが私たちの神様、十字架で私たちの全てを担われる神様だと、この預言を通して神様は、その救いの何たるかを既に告知しておられたのです。

今朝の御言葉ガラテヤ書3章1節で「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言われます。それは2節と5節で「福音を聴いて信じたからですか」と、これも繰返し言われますように、ガラテヤ教会の信徒たちは、使徒パウロが語った福音説教を、キリストの十字架の福音を聴いたのです。そして信じた。キリストが十字架に付けられた姿でハッキリと示されたからです。この方が、私の罪も痛みも病も苦しみも、私の全てを担われた神様なのだと福音を聴いて信じた。それは、先のイザヤ書53章を読んで説き明かした説教であったかもしれないと私は思います。教会でおそらく毎年一回は礼拝で読まれる御言葉です。イースター前の受難節だけでなく、何度も何度でも読みたくなる御言葉です。目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿でハッキリ示される御言葉だと思うからです。

ところが、そのキリストを信じる、ということが、わからなくなる。一度、わかっておったんですよ。ああ、この方が神様だと、福音説教を聴いて信じて、洗礼を受けたのです。「霊を受けた」と言われているのは具体的には、そうやって信じて洗礼を受けて、新しくキリストのものとしての歩み、生活が始まったことを言います。詳しくは次週説き明かしますが、そうやってキリストを、私の救い主です、と信じて、十字架の恵みのもとで歩み始めたのに、わからなくなってしまった。キリストの恵み、何で十字架で神様が死なないかんかったのか、何の意味があって神様が私の身代わりに死なれたのか。わからんなった歩みをしている。あるいは十字架のキリストの招きがわからん歩みを、別に、えいろう、間違ってはないろうと、しようとしているガラテヤ教会の人々に、一体どうしてしまったのか?誰があなたがたを惑わしたのか、直訳すると、あなたがたは誰かに魔法をかけられでもしたのではないかと、キリストの使徒は悲痛な思いで問いかけるのです。

私が米国におりました時、私の友人が通っておった神学校の教授が、たしか同じ学校の職員と姦淫の関係にあることがわかったという事件がありました。私も友人を訪ねた時に紹介され、笑顔が素敵で知的な方だという印象がありましたのでショックでしたが、事件後に、この方が、自分は間違ってない、既に夫婦関係には愛がなくなっており、でもその相手との間には真実の愛があったから、嘘をつくよりも正しい道を私は選ぶ、と弁解をしたと耳にした時には、もっとショックを受けました。え?どうして?どうしてわからんが?どうしてしまったが?と。聖書の教える神様の正義が分からんという人ではないのです。私の友人は教授の授業で教わった本を読んで、幸生、この本を読め、俺は神様が聖なること、聖であられるということがわかって改めて震えるようにして神様を知ったと感動しておったのを今でも覚えています。聖書がハッキリと教え示す神様の聖なる正義。聖なる神様は、その御自身の正義を決して妥協することのない聖なる方であり、正義を踏みにじる悪に対する正義の執行を、聖なる神様として、今でなければ死後、総決算としての最後の審判において必ず執行なさる。人は自分の蒔いたものを必ず刈り取ることになる。神様は侮られることのない、正義は正義だと妥協なく執行される力をお持ちの方である。しかし!その正義の執行を、全ての罪に対する妥協なき裁きを、義であり聖であられる神様は、ご自分の御子を人として私たちの代表責任者、主として生まれさせ、その御子に私たちの全ての罪を負わせて、十字架で、聖なる神様の妥協なき正義の執行、聖なる裁きを成し遂げられたのです。そこに神様の聖なる義が現わされたと聖書は告げる。この十字架でこそ、私たちは、私たちの罪を赦して救われる、聖なる正義と愛の神様に出会い、このキリストを、私の主と信じ受け入れて救われるのです。

その十字架に付けられたキリストの、聖なる招きを、信じて、また、自分だけでなく、人々もまた、このキリストの恵みを信じることができるように伝え教えておった教授が、自分は正しい、と言い張る。聖書を知らない、信じてない人なら言うのもわかるけど、一体どうなってしまったのか。キリストの十字架を知って信じて歩んでいたのに、わからんなって、自分は正しいと信じて罪の中を歩むこと。もう魔法にでもかけられたがやないか。何でこんなにもわからんなって。自分は正しい!と信じてそこから離れられない悪魔の魔法にかけられているのではないかと、その背後にある魔法、悪魔的な法の働きをどこからか感じてゾッとすることないでしょうか。あるいは、いや、これは他人事ではないぞ、自分は正しいと、口では言わなくても、わけのわからん、自分は正しいという執着に取りつかれて、ふと自分を見ている人の顔を見たら、この人どうしたらえいがやろう、という顔をしておって、ハッとすること、あるかもしれません。

ガラテヤ教会の信徒たちが、そういう魔法にかけられたような、理解できない、わけのわからない行動に出ようとしておったとき、キリストの使徒パウロは一体どこから、どこに訴えて、どこに希望の光を見て、説得を始めたか。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿でハッキリと示されたではないか。」その十字架でキリストは、あなたの罪の病を負って死んで下さったという救いの知らせ、福音を、あなたは聴いて信じたじゃないか。聴いたろう。この信じて良い救いを!あなた自身があなたを裏切る時も、そのあなたを裏切ることのないキリストがあなたを担いきって罪を赦して救われる十字架の主の福音を、あなたは聴いた。そこからもう一回始め直そう。そこがいつでも出発点だから。この聖なる神様の赦しの恵みから始めるしか、自分から始めようとする自分中心の肉の魔法を終わらせることはできんから。そしてキリストはその魔法を十字架で奪って自らに着せられて、呪われる者となられて、十字架で、だからこの魔法はもう終わりだ。もう無効だ。そうだろう。だからあなたは自分から出発するんじゃなくて、見よ、この肉のあなたの終わり、そして赦しの恵みを信じて生きる霊のあなたの出発点である十字架から新しく歩み始めようと、ここが常に私たちの出発点だからとキリストが招いておられる、十字架の恵みから始め直すのです。

最後に改めて、先に読みましたイザヤ書53章に示された、主イエス・キリストが十字架につけられた姿を共に聴いて、説教の終わりとしたいと願います。旧約聖書1149頁です。

本当は色々と用意していました。でもこの御言葉以上に「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿でハッキリと示された」言葉は、私の内にはないと思いました。私も共に改めて聴きます。読みながら聴きます。これが聖書で神様が告げられるキリストの福音説教です。

イザヤ書53章