ガラテヤの信徒への手紙2章11-14節、イザヤ書56章1-8節「共に食べます宗教改革」

17/10/29朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙2章11-14節、イザヤ書56章1-8節

「共に食べます宗教改革」

昨晩、夕食の最中に「あ、火曜日31日や」と妻が素っ頓狂な声をあげるので、宗教改革記念日だと言うのか、ハロウィンだと言うのかと思っていたら「31アイスの割引の日や」(笑)。随分複雑な日になりました。今年は宗教改革500周年ですので、幾分特別な思いをもって、この日を覚えておりますが、今朝の御言葉はこの宗教改革の一番の急所をズバリ射抜いている御言葉です。

特に14節の「福音の真理にのっとって」という言葉。宗教改革とは、まさに「福音の真理にのっとってまっすぐ歩む」ためには、何をすればよいのかという改革でした。礼拝の在り方、信仰生活の在り方、教会の一切が、聖書の告げる福音の真理から具体的に改革された。それが宗教改革ですので、今朝この御言葉が丁度与えられたのは神様の摂理だと、すごいな神様と改めて思います。

福音の真理というのは、形だけじゃなく、キリストの福音が、言わば生きて働いている様が、実際に見出せると言えばよいでしょうか。私たちの具体的な生活や教会の形の中で、福音が受肉している様を見て取って、キリストに感謝するようになる。例えば何もかも上手くいかないで腐りたくなる時に、けんど私は唯キリストのおかげで100%天国が保証されていると感謝することができる。形だけでなく、そこに本当に僅かな態度であっても、キリストに、ありがとうございますと、頭を垂れる態度を持つことができる。何故か。福音の真理がそこにあるからです。

今朝の御言葉で語られる具体的状況は、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者と一緒に食事をするかしないかという問題です。ピンと来にくい状況かもしれませんが、金曜日の新聞だったか、不法滞在で収容されているイスラム教徒の人たちに出した食事の中に、戒律で食べたらいかんと決まっている豚が入っちょって、ハンストをしたという記事が載っていました。上の人たちは、そんなことがないように指導しているけど、と言っていましたが、もし実際に差別があって、外国人の、しかも不法滞在しているような人間が、人の国に来て云々…といった、勝手な憶測で人を裁いて、自分は裁き主の座に居座って、豚ぐらいでブーブー言うなとやっているなら、根は深い。他の民族を蔑にし、お前らが自分の在り方を捨てろという、戦前戦中のナショナリズムと変わらない態度考えがなければいいがと危惧をします。彼らに日本人のように生きろと強いるのではなくって、むしろ自分たちが馴染んできた日本っぽさへのこだわりを、蔑にしないまでも、けんど隣人を愛することに比べたら、どうでもよいことだと捨てることができないのは、何故でしょうか。

ケファとも呼ばれますユダヤ人教会の代表者ペトロは、異邦人信徒がほとんどのアンティオキア教会に来た時、自分はユダヤ人だしユダヤ人の生活の在り方に馴染んでいる。けれど同じキリストを信じる兄弟姉妹たちと神の家族の生活を共にするうえで、ユダヤ人は異邦人と食卓を共にしないという風習など、どうでもよいものとして捨てていたのです。それは使徒言行録10章でイエス様から既に示されていたことでもありました。もうそんなんに縛られなくてよいと。だから何を食べてもいいし食べいでもいい。それで異邦人と一緒に食事できたし、しておった。毎日、違うご家庭に楽しく招かれておったのかもしれません。

ところが、そんなペトロの福音による自由を受け入れられない人、と言うか、ユダヤ的執着を自分が捨てられないだけでなく、人にまで押し付けたい人々が、言わばペトロを見張りに来た。私たちの状況に譬えるなら、私たちの教会は、日本基督教団の教会なので、礼拝で、日本基督教団信仰告白を告白します。もしそこに別の教団、角が立つといけないので全日本基督教団というプロレス団体(笑)のような教団名にしておきますが、その全日本の議長、ペトロが私たちの礼拝に来て、日本基督教団信仰告白を喜んで一緒に告白しておった。のに、副議長ヤコブさんの下にいる全日本の人たちが礼拝に来始めた途端、あれ、ペトロさん、礼拝の教団信仰告白の時、口を閉じちゅう。どうしたがやろう。それに新しく来た人らあも、恐い顔をして口を閉じちゅう。

聖書はこのペトロの行動を「心にもないこと」また「見せかけの行い」だと指摘します。先の口語訳では「偽善」と訳されました。要するに、人に見せるためにやっている。誰にか。その人からの評価が大変気になるという人が見て、よしと認めてもらったら安心する、その人にです。神様に喜んでもらいたい、という思いからではない。福音から生まれた感謝からではない。福音によって自由にされた愛からではない。不自由な動機、人への恐れによる行動。それが偽善と訳された行動です。

私たちの捧げる礼拝が、また生活が、誰を意識しての礼拝、生活になっているか。天の父と御子イエス様、また私たちを住まいとされている聖霊様の面前で、私たちの襟を正す御言葉です。

何故、人を恐れて行動したのか。何かを失うことを恐れたのか。教会の柱と目される人々の中心人物なのに、その自分のせいで教会内に分裂が生じたりしたら、こらかなわんという、自分の立場を失うことをか。自分の役割を彼はわかってない、と言われることへの恐れか。あるいは仲間からあれこれ思われ、悪い評価を下されて、自分の価値が下がってしまい、人間関係の立場を失うことを恐れたのか。自分の現状の立場を守りたくて嘘をつくということは、私たちもよく知る罪でしょう。

私たちは毎日どこに立っているか。もし人前にしか立ってないなら、死んだ後、私たちの全ての行いを完全な愛と正義の立場からお裁きになる神様の前で、どのように立ち得るというのでしょうか。それが福音が私たちに問う、私たちの真理にのっとっての立場です。あなたはどこに立っているか。神様の前にどうやって立つのかと。そして福音は告げるのです。そのあなたに、神様から、恵みによって立つことのできる立場が与えられている。キリストの福音に立ちなさい、ここにあなたの立場があると、主の十字架と復活が示されている。それが福音です。

キリストの福音に立つ。それは、福音を信じる信仰に立つということでもありますが、もしそれが、福音を、自分が信じていることに立っているなら、そこに真理はありません。私が信じているから真理なのか。信じなくなったら嘘になるのか。そんな自己中心な立ち方が本当に人を救うのか。本当に人を救うのは、もう何もかも信じられない、信じたくもないような時でさえ、それでもここに身を置きなさいと、福音を福音たらしめ真理を真理たらしめるキリストご自身が、私たちの信仰を根拠にして、じゃあ救おうとおっしゃるのではなくて、信じることさえ自分の手柄にしてしまう罪深い私たちを、だからこそキリストが、わたしがそのあなたとして十字架で罪裁かれて死ぬから、そしてあなたとなって復活するから、そのわたしの死と復活に立ちなさい、これはあなたのための死と復活だから、わたしは主、あなたの神だから、あなたはわたしによって救われよとご自身を与えて下さった。人が救われるのは、この福音によるのです。永遠の聖なる神様ご自身の死と復活による執り成しを根拠にして、この死によってあなたは全ての罪を裁かれ死んで、またあなたとしての主の復活によって、あなたは新しい命に立つのだから、あなたが何をした、何をできないではなく、わたしがあなたの死と命の根拠だから、あなたはわたしを土台として立ちなさい!あなたが立って生きられるのは、わたしが復活であり命だからだと、福音の真理そのものであられる主が言われる。そのキリストを主と仰ぎ、そのままお受け入れする、その命に、福音の真理、キリストが生きるのです。

福音は、このキリストを脇に置くようにして、今までの自分あるいは今の自分を肯定することのできる何かでは決してありません。むしろ、今までの自分も、今の自分さえをも捨てることができて、その代わりにキリストの内に新しく用意されていて、私の内に聖霊様によって新しく生まれ育てられ形作られていく、全く新しい自分を生きられるのです。古い自分を捨ててこそ、感謝して受け取って生きられる新しさの根拠。これが福音であり、この土台に、はいと立って生きるところで、福音の真理が具体的に形を取って生きるのです。そこには、何で自分を捨てないかんのか、という不満とは正反対に、丸っきり生きる方向が向きを変えてしまって、不自由な自分を捨てることを感謝することができる自由の喜びがあります。ユダヤ人でありながら異邦人のように生きられる、ペトロが味わっていた福音の自由は、私たちも味わうことのできる自由だからです。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、キリストから、わたしに従いなさいと、キリストに従って生きる導きに、はいと言える全く不思議な恵みの自由を、聖霊様の風に吹かれる気持ちよい自由を、誰もが味わうことができる。この福音の真理に、さあ真っ直ぐ共に歩いていこうとキリストが今日も呼びかけて下さっているのです。