ガラテヤの信徒への手紙2章15-16節、ハバクク書2章1-4節「裁判長判決は?正義!」

17/11/5朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙2章15-16節、ハバクク書2章1-4節

「裁判長判決は?正義!」

キリストを信じて洗礼を受けて、いや~良かったなあと実感を持って思うことの一つは、人と自分を見比べなくなったことです。私は本当、自意識過剰で苦しかったので、人と比べなくなるというのが、実感として、ホント楽。イエス様ありがとうございますと思うのです。悪い自分も良いと思う自分も自分を自分として受け止める時に、イエス様を根拠として受け止められる。あるいはイエス様に受け止められた私として、それを天の父が、そうだ、わたしも、御子に受け止められたあなたを、あなたとして受け止めていると、完全な愛と正義を持って宣言して下さっている、その私が私なんだと。随分神学的だと思われるかもしれませんが、これが実感なのですから、随分嬉しい神学、嬉しい福音です。

今朝の御言葉で「私たちは…異邦人のような罪人ではありません」という言葉を、使徒パウロがガラテヤ地方の教会の信徒たちに書き送っていますが、まあ言われておったんでしょうね。ガラテヤ地方まで行ったユダヤ人たちから、あなたたち異邦人は、神様の律法も知らないままで救われたと思っているけど、そんな律法も知らないほど罪深いままでは救われない、異邦人は私たちユダヤ人のように律法を知って守らないと救われないんだと、ガラテヤの諸教会を惑わしておった。パウロはそれを逆手に取って、ああ、確かに私もユダヤ人だし律法を与えられた神の民として、異邦人のような罪の中には確かにないが、が!だからと言って、それで救われるのではない!と。むしろ強調するために言っている言葉ですので、別に差別しているのではありません。もし更に言うなら律法を知っているのに守ってないほうが罪として重いでしょう。なのに自分に劣ると思う人を見て、異邦人は…と自己正当化する。

どうでしょう。似たようなこと、やってないでしょうか。私はあの人のような罪人ではないという自己正当化。歯医者に朝行くと、拷問のように流している、何でしょう、ゴシップ情報番組と言うのでしょうか、綺麗なアナウンサーらしき人たちやキチンとした人たちが、眉間にしわを寄せて、この事件を起こした犯人は、犯人は…と、ゴシップ欲を満たすためなのか、それを知って何になる?と思われる、犯人は、犯人は…いうのを延々とやっています。やっている人たちも仕事でやらされているなら可哀そうにと思いますが、でもそうやって犯人は犯人は…とか、不倫疑惑報道のある~氏は~氏は…って、こんなことずっと続けている内に、いつの間にか自己正当化のアリ地獄にドップリ浸かって、自分はあんな罪人ではありませんと、安心できる場所を確保しているなら危険です。自己正当化の安心は、神様の正義に根拠を持たない、人と比べた自分の正しさに腰かけただけの、見かけ上の安心だからです。

ガラテヤの信徒たちも、そんな見かけ上の安心を求めて、じゃああのユダヤ人たちのように自分もなればいいのだと、見かけ上の律法の実行に走っていた。そこでパウロは、必要なのはそんな嘘の安心じゃない。必要なのは、そこからの回心だ。人間が自分を頼りに作りだした安心の救いじゃなく、神様の裁きと救いの真実を知って、これじゃいかんと我に帰る回心が必要だと、その回心を「知って」という言葉で言い表すのです。16節。「けれども…」

皆さんも、このようにキリストを信じましたでしょうか。キリストを信じるのは、私も信じる前には、俺には信じられないと思っていましたが、御言葉は、信じるには、このことを知ってないといけない!と言うのです。聖書の律法あるいは自分なりの律法の実行を、自分はしているから、という律法の実行ではなくて!ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って!知って、信じた。

この知るは、一回限りにおいて言わばガツンと知るような知るです。今までの自分は知らんかった、間違っておった、これじゃいけないと、ガツンとやられるように、自分のこととして知る。私は、自分の行いによってでは救われない。私にはキリストが必要だと、知って、信じた。

この16節、ハッキリ言ってしつこい(笑)。同じ内容を三度も繰り返します。律法の実行ではない。実行ではない。実行によっては義とされんのだと。もうえい、わかったと感じるほどですが、でも本当にわかっているか。自分が正しいと信じていることの実行によってでは、神様から義とされんのだと、人生が変わるくらいガツンと知っているだろうか。どうか知ってほしい。それがこの御言葉のメッセージの前半です。

後半は何か。キリストへの信仰によって、神様から、そうだ、御子を信じたそのあなたが正しいと受け入れられて義とされる。それが神様の本当の救いだと、知ってキリストを信じることです。

ではキリストを信じるとは何か。キリストに自分を委ねることです。委ねる。自分の人生のハンドル、救いのハンドルを、お願いします、とキリストに委ねて、人生の主、私の救いの主となって頂く。譬えるなら私は高所恐怖症で、先日、台風で会堂の屋根瓦が剥げたのを写真に取るため、その倉庫の上に上ったら30秒が限界(笑)。逆に妻は高い所好きで会堂の屋根にまで大工と登って十字架の塔の下に触ったと大はしゃぎ。そんな妻ですので、前に二人で瀬戸大橋を渡った時、私は妻にハンドルを委ねました。プライドとか自分でとか、いやいや、自分を信じて事故に巻き込むより、妻を信じて運転を委ねました。キリストを信じるのも同じです。キリストのくびきを負って歩むイメージとも重なります。

ただし、信仰によって「義とされる」という言葉の元のイメージは、裁判所、法廷で判決がくだされる場面で、裁判長が、私は裁判長として被告に罪を認めない、この人は法が要求する正義を満たしている、義だと宣言する時に用いられる、法廷用語です。そこでキリストにハンドルを委ねるとはどういうことか。要するに自分は正しいと自己正当化をして自己弁護することを、もうやめてしまって、キリストに弁護を委ねるということです。裁判所での被告の姿を、よくスケッチで描いて新聞に載せていますが、キリストに委ねた法廷のスケッチには、被告席に立つ私に寄り添って立たれるキリストの姿が、力強く濃く太い線で、しかし柔らかく優しく描かれていて、キリストは裁判長である父なる神様に、こう弁護されるのです。被告幸生は~幸生というとこを、ご自分の名前で聴いて下さい~幸生は、律法の実行によって判決するなら有罪。実刑を受けるのが正義です。しかしその実刑を、わたしが幸生として十字架で受けました。そして幸生として死んで陰府に降り、幸生の受ける正義の裁きの要求は、わたしの死によって満たされました。ならば、父よ、そのわたしが彼のために死んだ、彼の救い主、彼の神であると信じて、自分の裁きの一切を、わたしに委ねた幸生を、わたしは幸生の主として弁護します。幸生の罪は既に裁かれました。正義は完全に満たされました。よって幸生が永遠の実刑から自由となることを裁判長に求めます。そして天の父は、聖なる永遠の法廷で、厳かに宣言されるのです。被告野口幸生は、その正義を彼の主として満たしたイエス・キリストへの信仰によって義とされると。

そこに神様の正義、イエス・キリストによる義があるのです。罪は見逃されないからです。必ず正義はあるからです。でも、ならばこそ、その正義を、神様が!十字架で満たされて、さあ、あなたはこの救いの正義を自らの義として受け取りなさい。それが信じるということだ、それがわたしへの信仰だと、キリストが、私たちの主として言われるのです。そのキリストを、私の主、私の神様と告白し、自分のハンドルを委ねる人生を、神様は、それが正しいと、父として笑顔で宣言されるのです。