17/10/22朝礼拝説教@高知東教会
ガラテヤの信徒への手紙2章6-10節、詩編115篇
「自信にグッバイする自由」
何か新しいことが始まった時には、今回の選挙のために生まれた政党なんかもそうでしょうけど、皆の意見、理解がバチっと一致して、同じ共通理解で、一糸乱れぬ足並みを皆で揃えて、というのは、中々難しいものです。どこかで、ん?それは違うんじゃないか。それは私の思いと異なる。私は別の理解を持っているということがあると思います。ま、日本では、自分の意見を持たないことも少なくないので、誰か責任ある人に、頑張ってね、言うて、まかせっきりで、自分では意見を持たないということもあるかもしれません。政治だけの話でなく、おしなべて、社会のこと、他の人々との生活のことにあまり関心を持たない。ただし自分に直接関わりがあると思われることには関心を持つ、というのを、家文化と言うのでしょうか。しかも、その家が核家族化をしてしまった家文化のなれの果ての、個人文化と言うのか。自分の意見やこだわりが全くないわけではない。けど、それを他の人々と分かち合い、対話し、コミュニケーションを取るというのは、日本人は苦手だなと思います。ま、米国の大統領も対話せんので(笑)、側近が苦労されておりますが、日本でも政治家からして対話が苦手で、それで官僚も苦労して忖度なんかして、それで、どうやってコミュニティー、対話する共同体、相互のコミュニケーションが行きわたるコミュニティー、共同体形成を国民に求めるのか。ぜひこの国の将来のために共に祈って頂きたいと、選挙のおり特に思わされますが、今朝の御言葉でも、始まって間もない初期の教会が、今までのやり方では対応しきれなくなってきた新しい課題に、一体どう向き合ったかが語られています。
どう向き合ったか。先ず、偉そうにしませんでした。これ大事です。だいたい、ここで間違うんじゃないでしょうか。自分たちが正しいのに決まっちゅう、なんて態度を取らなかった。流石、イエス様の弟子たちです。人の上に立つ者は、全ての人に仕える人になりなさいとイエス様がおっしゃった通りです。偉そうにしない。偉いんですよ、おもだった人々と訳されたのは、柱と目される人々という言葉です。教会を支えている柱のような人々。自分たちがもし曲がってしまったら、教会全体が曲がってしまう。それが柱としての役です。そうだ、自分が曲がったらいけない。一般に、指導者たちは、その知識があると思います。けれど本当に曲ったところはないか。もし、ここはおかしいんじゃないだろうかと指摘されたらどうするか。いや、私が曲がっているはずがない!とやってしまうところで、事実本当に曲ってないかもしれんのに、そこで曲ってしまうのではないか。その頑なな態度で曲ってしまう。偉そうになってしまうのではないでしょうか。以前、うちの子に限って!というフレーズが、教育ママという言葉と共にでしょうか、流行りましたが、私に限って!と、自分が正しいことが前提になって、そんなことを言うあなたが間違っている、と態度が頑なになってしまうところで、人の話が聴けなくなる。相手と対話ができなくなってしまう。それは偉い人のすることではなく、偉そうな心がやってしまうことでしょう。
私、ああこの人、本当に偉いなあと思う時があります。人の話を聴く人に会うと、しかも、ああそれなら知っちゅう、みたいな顔ではなく、本当に知りたいという顔で話を聴いている人に会うと、偉いと思う。
自分には知らないことがあると知っちゅう人なら結構いるでしょう。でも、自分は知らないことがあると心でわきまえている人は、どれだけいるでしょう。それを信仰の言葉で言い直すなら、全てをご存じであられる神様の前にいる、自分をわきまえるということです。頭の、知識の問題ではありません。心の問題です。態度に現れるからです。
当時、教会の柱と目されていたペトロたちが、言わば新参者のパウロの話を聴いた。ペトロたちなんて、イエス様の最初の弟子ですよ。福音とは何かを、イエス様の真横で、真ん前で聴いて、目をつぶれば今でもイエス様の十字架の姿を思いだす、このイエス様が人となられた神様、私たちの罪を背負われた救い主なのだと、誰よりも知っており、その故にイエス様直々に、わたしの羊の世話をしなさい、この愛する者たちをよろしく頼むと、命じられ、直接任じられた、まさに教会の柱と目されるペトロたちが、新参者であるパウロの話を聴くのです。パウロの語る福音を、まるでイエス様の話を聴くように聴いたのです。
どうやって聴いたか。ああ、今、私たちの前で一生懸命に、イエス様から頂いた恵みを証ししている、この元教会の迫害者パウロは、しかし私を十字架の恵みによって捕えて下さった同じ神様に、同じイエス様に同じく愛され赦され捕えられてしまった人なのだ、いや、同じ神様が!同じキリストが!福音をユダヤ人以外に、異邦人に伝えるために、選び捕えてしまわれた、キリストが抱きしめられた人なのだと、神様を主語にして聴いた。
だから、神様を主語にして話を聴く時には、単に、聴いたということが起こるだけだけでなく、信じることが起こる。神様が主語となっているからです。神様が主語となって、神様がことを行っておられるという話を聴くなら、信じて聴くか、信じないで聴くかです。信じて聴くのでも、信じないで聴くのでもないなら、それは神様の話ではなく、神様についての、言わば第三者的な、自分には直接関わりがない話を、へ~って聞くのではないでしょうか。でも、関わりないでしょうか。神様の話です。私たちの命と死に関わる話です。愛と赦しに関わる話です。どう聴くのでしょう。信じて聴くか、信じないで聴くかしかないでしょう。
あるいはそれを、こう言い換えても良いでしょう。神様の話を、神様の前で厳かに聴く時に、信じて聴くということが起こると。偉そうにならなくて済む。自分は何を知っているとか、何をしてきたという経験や知識を、まるで恥かしい過去でも隠すかのように、知ったかぶりをしていた知識を恥じるように、自分をどっか置いてしまって、聴くのです。それは恥ずかしい私たちの全てをご存じで、その上で全てを赦されて、しかも全てを新しくすることが唯一お出来になる神様の前で、その福音を聴くから、本当に全ては新しくなるから、だから信じて聴くことができる。何を神様は新しくされるのか。私たちをです。古いままでいたいでしょうか。過去の自分を肯定することで、新しい自分になり損ねてしまうってこと、幾らでもあります。そんなん捨てなさいと、イエス様は私たちを神様の前での新しさに招いて下さったのです。何度も何度でも脱皮するようにして、私たちは神様の前に出るのです。御言葉によって世界を創られた神様が、私たちを新しく造り変えることを御心としておられる、そのためにキリストをくださった父の御心に、私たちは自分を明け渡し、古い恥ずかしい自分は捨てれば良い。何故か。その福音が、信じるに値するからです。そして本当に自由にされるからです。
私は、随分窮屈で狭っ苦しい人間だったと、それはキリストを信じてからも、色々な面でそうだったと、振り返って思います。ま、身近で見ている家族からすると、今でも窮屈で息が詰まる時があると言われそうですが、否定しません。そしてもっとキリストに自由にしてもらいたいと心から願います。それだけに、証しとしての話を最後にいたします。私は米国に留学中にキリストに出会い、信じて洗礼を受けたのですが、他の教会をあまり知りませんでしたので、その教会の礼拝が、またその教会で教えている信仰の知識が、“正しい”のだと思っていました。ところが大学のキリスト者の集いに参加すると、色んな教会があって、礼拝の形も、教理と言われる聖書の教えの言わば解釈も、色々あると知り、また互いに議論する学生たちの話を聴いて、ああ、自分が正しいと思って信じていることの中には、信仰という名のもとに隠された自己満足や自分が信じているのだから正しいのだと思いたい自信や無知があるのだと学んでいきました。そしてそれらは態度に現れるということも体験を通して学ばされました。
ある時、大学の校舎と校舎を結ぶ広い公園の道の脇で、二人のおじさんが路傍説教をしておりました。私は桜になって祈ってましたら、説教が終わって話しかけてきました。で、私はクリスチャンで、ロードオブライフ教会の信徒だと言うと、あそこは礼拝で牧師がロックをやっている。うちに来なさいと案内をもらいました。興味もあったし、行きもしないで批判するのは卑怯だろうと夕拝に訪ねましたら、確かにロックの賛美ではない。カントリーでした(笑)。ガチの。幸いカントリーも好きだったので楽しんで礼拝を捧げましたが、気になるところ、と言うのか態度と言うのか、それが最後まで残っているその教会の記憶です。
問題は、しかし、そういう体験をさせて頂いた私が、日本基督教団の牧師として主に仕えるよう主から示された時、あの教団はダメだ(笑)と、教団の牧師とも信徒とも何の対話もしないで、ダメだと決めつけ、だってウニャウニャ…とダメな理由を並べて、ま、多分その内の多くは今でも該当すると思いますが(笑)、問題は、どういう態度で、批判しているか。じゃあ同じ課題がお前には無いのかと主から問われたら、あるけど、あの人たちよりはましですという態度で、偉そうになってしまうのかです。そういう時には、また知ったかぶりになって、だってあの人は、あの教会は、あの考えは…云々と。それに対して十字架のキリストから、あなたはその人の、その教会の一体何を知っているというのか、その人のため、またその教会のために命を捨てた、わたしの思いの何を知っていると言うのかと、本気で怒られるような恥ずかしい自分本位の知識を、偉そうな顔で掲げているのだと思います。そして、その偉そうな顔を真正面から見つめられて、キリストがおっしゃるのは、あなたの知ったかぶりが全く見当違いに届かないほどの罪と悪を、わたしはあの人に、あの教会に見ている。そしてその罪をわたしは背負った。わたしが背負い、助け、救い出す。その福音の知識をこそ、あなたは本当に知りなさい、知ってこの福音のために日々新しくされて生きていきなさいと、主は私たち全ての者に、全てのご自身の教会に言われるのです。
それがペトロに託され、パウロに委ねられ、そして私たち一人一人の前に日々新しく与えられているキリストの救いの福音であるのです。