ガラテヤの信徒への手紙2章1-5節、イザヤ書61章1節「強制は泥棒の始まり」

17/10/15朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙2章1-5節、イザヤ書61章1節

「強制は泥棒の始まり」

私たちがキリストによって得ている自由。良い言葉だなと、染み入る言葉だなと私は思います。自由。大好きな言葉です。悪用されることも多い言葉です。誤解されることも多いと思います。今朝の御言葉には、「福音の真理が、あなたがたのもとにいつも留まっているように」とも言われます。同じように言うなら、あなたがたのもとにキリストによる自由の真理がいつも留まっているように。そう言っても良いでしょう。とにかく誤解され、あるいは誤解によって支配されて、キリストが命をかけて与えてくださった自由を、手放してしまって、そのまま両手を、ガチャリと、嘘つきの自由泥棒に手錠を掛けられて、嘘の生き方を強制されてしまう。不自由になってしまう。聖書が、キリストによって得ている自由と言っているのに、不自由感たっぷりと言いますか、あるいは自分は自由にやるんだと言いながら、自分の奴隷になってしまっていることが少なくない。

先週は、別の教会の特別伝道礼拝に招かれて説教奉仕をしてまいりました。その説教の中で、聖書の有名な律法の一つ「隣人を自分のように愛しなさい」という御言葉を引いて、お話しをしましたら、礼拝の後、ある方から問われました。隣人を自分のように愛することは可能ですか?可能か不可能か、どっちですか?とおっしゃるので、もし完全な愛のことをおっしゃっているのなら、人となられた神様、キリスト以外の人間が誰かを完全に愛することはできなくて、自分の捧げる最高の愛にも、罪は混じっていると教えられていますと答えました。すると、では神様は無理なことを命じられるのですか。無理なことを命じるなら神様が間違っているから、だから律法は、絶対に守らなければならないものではないですよね。守る努力をすれば、無理なもんは無理だから、いいんですよね、無理に守ろうとしなくても、ということをおっしゃった。その方の言いたいことは、よくわかりました。平たく言えば、御言葉を守ることは、言わばボランティア奉仕をするようなもので、しなくてはならないものではないから、無理をする必要はないのではないか。そう言ってもらえると、ホッとする、ということでしょう。

私がそこでどんな問答をしたか、全部を分かち合う時間はありませんので、要点だけ申します。律法、神様がお命じになられ私たちに求めておられる全てのことは、私たちがそれを守れるか守れないか、できる、できんの問題で、求めておられるのではない。それが正義だから、当然の正義として求めておいでであって、だから、その正義に反することは悪として裁かれる。人間社会にも、法で定められた正義基準があって、それに反すると裁かれるのと、原則は同じ。そして神様の正義基準は、高い。無視するか、腹が立つか、畏れるほど聖いのですと答えました。

この問題は、今聴いておりますガラテヤの信徒への手紙のテーマでもありますので、またじっくり何度もご一緒に考えてまいります。学校の勉強と違って、一回学んだら、OKわかった、とはいかんのが、生きるという問題、しかも共に生きるという問題でもあるからです。

今日ぜひ共に分かち合いたいのは、愛するという、この問題、しかも自分のように隣人を愛するという問題を、できる、できんの問題では、聖書は考えてない。だから私たちも、できる、できんの問題に、問題をすり替えてしまわないということです。ついやってしまいます。問題のすり替え。政治家が、国難の問題とか、ミサイルの問題、安心・安全の問題にすり替えるように、自分にとって都合の良い問題に、もう大体は答えが先に出てしまっている問題に、問題の焦点をすり替えてしまう。愛する問題を、正義の問題としてではなく、自分がそれを、できるか、できんかの問題にすり替えてしまう。あるいは、すり替えられたことに気付かんくらい、最初からこの問題は、できるできんの問題なのだと、それ以外には考えられない、思考停止問題にさせられてしまう。巧妙な泥棒の手口です。ルパン三世みたいに、あ!よく見たら偽物にすり替えられている!おのれルパン!と銭型警部みたいに腹を立ててよいと思います。だって盗まれたのです。愛の真理、正義の真理が。いつの間にか自分ができるできんの問題に、すり替わってしまっている。

問題の根は深いのです。私たち、すぐ、できるできんの問題で考えてしまうのは、できるできんコンプレックスに縛られているとも言えると思います。コンプレックスというのは、わかりやすく言うと、訳の分からん執着やこだわり、問題の本質が複雑に隠されてしまっていて、いっつもそこで止まってしまって先に進めない執着のことを考えたら良いと思います。何故か、できるできんで考えてしまう。このコンプレックスからの自由。自分コンプレックスからの自由とも言えるでしょう。自分にこだわってしまう。今朝の御言葉から申しますと、特に偽兄弟たちと呼ばれる、キリストを結局はオプションにしてしまっている人々の問題を、こう命名することができるでしょう。自分を誇るコンプレックス。どうしても自分を誇りたい。で、自分ができること、できていること、やってしまっていて、ほら、私はこうしているんだから、何であんたもやらないのか、これがやるべきことじゃないかと、要するに自分を根拠に自分を誇る。偽兄弟たちが誇っていたのは、自分たちは割礼を受けている。律法が命じていることだ。何でやらないのだ。俺たちはやった。できるのに、何故しない。それでは救われないと。自分のやったこと、できていると思っていることを、救いの根拠にさえしてしまうという、罪の根源としての自分という誇り、プライドの典型です。では、それがどういう形で、できるできんの執着になってしまうのか。できるできんを、自分で審判したいからでしょう。神様ではなく、無意識に、神の座を自分が奪うようにして、自分で自分を評価、審判し、合格、不合格と裁いてしまう。神様にでなく、十字架で裁きを受けて下さったキリストに裁いて頂くのではなく、自分が裁きたい。自分を誇りたいプライドのなせる業です。

それがこの手紙で大問題となっていたことでありまして、エルサレム教会、言わば当時の教会の大本山でも、このことで危なっかしいところがあったのでしょう。教会の歴史でも起こってきたことですが、本山がおかしなことを言うと全体が影響を受けますから、エルサレムではなくアンティオキア教会におったパウロに啓示を与え、このことをハッキリさせてきなさいと、パウロをエルサレムに遣わされたようです。もともとエルサレムからアンティオキアに遣わされたバルナバも、またユダヤ人ではなくて、異邦人だけどキリストを信じ、伝道者でもあったテトスも一緒です。ユダヤ人キリスト者がほとんどのエルサレム教会の人々にキリストの福音の何たるかを、百聞は一見に如かずで納得してもらうには、そら仲間の異邦人に伝道して、どうやって彼らがキリストを信じて救われて、という生きた証しを、ユダヤ人ではない、言わば彼らの仲間ではなかった異邦人伝道者本人から聴くのが一番です。おお、俺らあの救いと一緒やと。キリストが生きて働いておられると。どう聴いても、これは生きておられるキリストの御業だ、キリストが彼らの内に生きておられると、特におもだった人々は、すぐわかったのでしょう。

ところが、キリストのなさった十字架の御業でなく、自分がしている割礼の業とか、自分を誇りたいコンプレックスに捕えられている人々はキリストのお働きがわからんのです。だから割礼をテトスが受けてないことをゴチャゴチャ言って、受けさせないかん!と言ったようなのですけど、エルサレム教会の判断、少なくともおもだった人々の判断では、受けんでかまんと、強制されなかった。

これ、昔の話だけでも、割礼だけの話でもないでしょう。自分らあはこうながやき、おんしらあもこうあるべきやと、キリストの御業を唯一の根拠にせず、自分を根拠に、これが正しいことだ、同じようにしろ。

何故?どうして?根拠は?それがいつも問われなければなりません。彼らのは、自分と同じようにさせたいだけ。いや本当は相手のことには関心がなくて、自分と同じようにさせることで自分を誇り、自己正当化のための道具として利用していることさえないでしょうか。自分は救いの条件を満たしていると、自分で判断し、自分で自分を裁き、神の名で自分を保証する単なる宗教をやっているだけなら、偽兄弟です。

何故なら、私たちの救いに必要な条件は、全てキリストが満たされたからです。そのために、神様は人となられて、私たちが罪を赦されて、キリストに背負われキリストと一つに結ばれて救われるために、正義の要求を十字架で完全に満たして下さったからです。

だから私たちに求められているのは、その満たしを感謝して、これをキリストが満たして下さったこと、キリストが私の救い主であることを信頼して受け入れることです。

全能の聖なる神様が私たちの救いのために、私たちに求めておられるのは、信じることができるできんの問題ではありません。何故か信仰をできるできんの問題にすり替えることが多いのですけど、できていると思う者は誇ってしまうことを避けられません。できている、できてないと考え始めるところで、自分の奴隷になってしまい、キリストが恵みとして与えて下さっている自由から、目が離れてしまいます。そして自分の奴隷という足かせ、首輪に、自ら足や首を突っ込んで、ろくでもない誇りやプライドにもてあそばれてしまうことになってしまう。

そんな私たちを、キリストは十字架で引き受けてくださったのです。私たちの身代わりに、私たちとして、神様に逆らう者として裁きを全部引き受けられて、裁きの要求、正義の要求を満たして下さった。そして本当に私たちの身元引受人となって下さって、こうおっしゃって下さるのです。あなたはわたしのものだと。キリスト者という名は、キリストのものとならせていただいた自由の喜びを言うのです。

ですから私たちは、もはや自分自身のものではないので、自分を誇る罪からも自由なのです。何故なら…そう、根拠が大事です。何故なら、キリストのものだから、もはや自分自身のものではないので、もう自分なんか誇らなくてよい。十字架の素晴らしい救い主をのみ誇ればよい。