14/9/7朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章23-24節、エレミヤ書31章31-34節 「この愛は死なない」

14/9/7朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章23-24節、エレミヤ書31章31-34節

「この愛は死なない」

 

いよいよ2年3カ月聴き続けてまいりましたエフェソの信徒への手紙の説き明かしが終わります。その最後は祝福の挨拶、祝祷です。ですので、この説き明かしも挨拶になるのが相応しいでしょうか。としたら、どういう挨拶になるか。考えました。もしかすると、これが皆さんとの最後になるかもしれません。いつもその可能性はあるのです。その覚悟もあったほうが、心を込めた言葉を語り、心を込めて共に生きることもできるでしょう。ではそこで心を込めるとは、何を込めるのか。自分をでしょう。自分として、これだけはこの人に願いたい、この人に持って欲しい、この人に託したいという自分の命、心を、込める。

おそらく込めない挨拶を、社交辞令、外交辞令と呼ぶのです。もとはどういう挨拶をするのが相応しいかわからない人に、例えば、お変わりございませんかとか、素敵なお召しですねとか教えるための挨拶例文が社交辞令だったのが、いつの間にか心を込めない口先だけの挨拶という意味になったのでしょう。何で心を込めないか。楽だから、自分を相手に関わらせなくて済むからだと思います。ちょっと挨拶して、関わりを最小にする後ろめたさを感じることはないでしょうか。その時に、でも本当はどういう関わりを持てばよいのか。時間の制限があって尚、相手の幸せを願って短い時間でも心を尽くすにはどうすればよいか。そこで神様の前に心から祈れる言葉を探したらどうでしょう。私は仕事連絡で電子メールを使う時、仕事ですから用件のみ取り急ぎ失礼しますと書く社交辞令をしばらく使っていました。が少し前にやめました。本気でこの人にこの事を願うという祈りを一文記して、その場で祈ることにしました。牧師相手が多いので、よくこう記します。収穫の主の祝福を祈ります。イエス様が、収穫は多いが働き人が少ないから、働き人を送って下さるよう、収穫の主に願いなさいとおっしゃった。その願いを切実に思うので、いつも本気で記し祈ります。社交辞令ではない祈りを祈ります。癒しについても。祈りは本気です。本気というのは、そこに自分がいるのです。口だけじゃない自分を、苦労してでも関わらせるのです。あるいはだから、祈るのは大変なのです。

私が皆さんにそうした本気の挨拶をここでするとしたら何になるか。色々思い浮かびましたが、今日の御言葉に導かれて思いました。これがなるなら死んでもよいと思える挨拶はこれです。平和と、信仰を伴う愛が父なる神様と主イエス・キリストから皆さんにありますように。恵みが、変わらぬ愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する全ての人と共にあるように。確かにこれに尽きると思います。

平和と恵みがあるようにという挨拶は、実は手紙の冒頭2節での祝福と同じです。神様との平和があるように。罪を責められる関係が十字架で廃棄され、父との完全な平和、和らぎ、安心の関係が、恵みによってここに現実化し、また隣人とも互いに平和であるようにと願う。それは今ここに救いが体験されて生きられるようにとの祝福の願いです。

その平和と恵みの祝祷に、愛が加わるのです。しかも、信仰を伴う愛がです。平和も恵みも、社交辞令になりやすいからでしょうか。中身を伴わない口先の平和にならんよう、愛を。またそれが自分自分の愛にならんよう、それがキリストの愛になるよう信仰を本気で願う挨拶です。教会の現実が見えてきます。その教会を支える神様の恵みに、パウロが自分の全存在をかけて、本気で関わっておったのが見えるようです。

兄弟姉妹にパウロが本気で愛を願った。愛があるように。それは私の人生の具体的な場面が映し出されるような、具体的願いでもあります。皆それぞれにあると思います。私に浮かぶ場面は、結婚する時、自分は愛のない人間だから、主がそれを忘れんように、愛という名の人を与えられたのだと、私は本気で思いました。今も、あ、いかん、俺には愛があると勘違いしちょった、自己満足しちょったと頭を殴られる時があります。妻が手をくだすのじゃないですが(笑)、すぐ忘れるのです。何故平和が壊れているか。愛がないからだ。何故愛がないか。自分でできると、自分でやってみせると、自分を信じているからだと。キリストの愛を信じて頭を垂れて満足する心の貧しい者でなくなっているからだと。しかもそこで自分がそうでないことに嫌になって、ふて腐れたり、人を責めたりして、愛のない自分に閉じこもってしまいそうになる。

だから、この挨拶を、いや挨拶の形をとった神様の祝福の宣言をするのです。平和と恵みがあなたにある。あるから、それがなるようにと。自分では愛せない愛のない者が、それでも愛に生きられるよう、神様が永遠の愛を携え降られ、あなたはこの愛によって生きればよいと、釘で穿たれた赦しの御腕に私たちを抱きかかえ、赦しに入れてくださった。そして、この赦しの中にいつも立ちなさい、ここから離れたら倒れてしまうから、十字架の赦しに常に立ちなさいと、キリストを信じる信仰を伴う愛によって、赦しの愛に立てる救いへと、抱え召し入れて下さったのです。そしてそのことを、恵みと言うのだと、恵みが、あなたには常にあるのだと、神様は、わたしはあなたと共に在る神だと、祝福の宣言をくださった。それがこの祝福の挨拶、祝祷です。

だからこの愛は死にません。24節で変わらぬ愛と訳された愛、それは死なない愛、不死の愛と訳したほうが良い言葉でして、あるいは死んだように見える時だってあるのです。もしこれが、人間の愛のみであるなら死ぬでしょう。死ぬばかりか、すぐに変わるのが人間の愛だから宝石のCMでダイヤモンドは永遠の輝きとかって、炭素の塊で燃えてなくなる儚い物質を永遠と呼んだりもするのでしょう。想い出の中だけの永遠でしょうか。キリストもそういう偉い愛の人だと思われているのは、愛を本気で信じてないからでしょう。人間の愛なら、そうでしょう。けれど唯一死なない愛がある。その愛の不滅を信じられるから、私たちの愛が死にそうな時にも、死んでしまったと思っても尚、あきらめないで信じることのできる、すがりつくことのできる愛がある。愛なき人間を抱きかかえ全ての罪を償って死なれ、三日目に私たちを背負って立ち上がられた主イエス・キリストの死なない愛があるのです。そしてこの愛を主は、これはあなたがわたしと共に、恵みに立ち上がって愛する愛だと。愛は一方通行にはならんきと。わたしはあなたを永遠に愛し、あなたをわたしに結びつけ、あなたを捕え、だからあなたも、わたしを愛し、わたしの愛する者たちのために、自分を捨てて愛して生きる。わたしたちが共に愛する、そうだろうと、罪なき永遠の神の御子が、我らの罪を赦し給えと一つになって祈られたのです。人を自己責任にして見殺さない神様の愛で、主が私たちをご自身に結びつけられたから、だからこの愛は死にません。そしてこの愛を信じる教会の愛は、死んでいるようで、見よ、生きるのです。キリストを愛する愛が自分由来であるなら死にます。自分を信じているからです。しかし、キリストを信じる信仰を伴う愛、キリストの名を呼び、その愛にすがり、私も御心に生きたいのですと、神様を求めて信じる愛は、虚しい燃えカスにはなりません。主がこの愛の創始者であり、必ずゴールへと至らせて下さるからです。

ですから教会はあきらめません。世の中の事ならあきらめますけど、この愛だけはあきらめません。愛が死んだように見えて尚、いや、このままでは死にきれんと、キリストよ、憐れみ、愛をください!と、その名を愛と呼ばれる方の愛を信じて祈るのです。御前に捧げる私を聖め、家族隣人をお救い下さいと主の愛をこそ祈るのです。そして、この愛がなるなら死んでも良いねと、教会は今日も平和の挨拶を交わすのです。