14/8/31朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章21-22節、ヨシュア記22章10-14節 「愛のホウ・レン・ソウ」

14/8/31朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章21-22節、ヨシュア記22章10-14節

「愛のホウ・レン・ソウ」

 

変な説教題だと思われたかもしれません。これは報告・連絡・相談を短くまとめた、職場で用いる専門用語でして、バブルがはじけた80年代後半に巷を席巻したビジネス用語なんだそうです。背景を簡潔に言うと当時の職場で上司や部下のコミュニケーションがうまくいかないという問題が浮上した。私の一回り上の世代で新人類と呼ばれた先輩方が社会に登場した時代です。そうそう、と懐かしく思われる方々もおられるでしょうか。職場はチームで仕事しているのだから、報告・連絡・相談をするようにという言わば当然の話かもしれません。が、それ以来ずっと日本の職場の常識となっているのですから、当時の新人類の先輩方も、その後発見された新新人類とか新新新…とかに、ずっと手を焼きゆうということでしょうか(笑)。どうしたら意思の疎通ができるかと。

教会でも同じ問題は起こり得ます。ただそれは近年だけの問題ではなく、先に読みました旧約聖書のヨシュアの時代でもそうなのですから、コミュニケーションの問題は人間が生まれてこのかた、信仰者の間でもずっと起こり続けた。ヨシュア記の詳しい説き明かしをする暇はありませんが、要するに、何で律法で禁じられている別の祭壇をつくったか、連絡も相談もせんかった。残りのイスラエルの人々が、それをどう思うかを考えないで、自分たちのことだけ考えてやった。その結果、あわや流血の事態になりかねんかったという問題です。

いずれの問題も、突き詰めて考えると、隣人を自分のように愛さない問題から生じる問題のように思われます。人の気持ちがわからない。あるいは、わかろうとしない。心を通じ合わせるのがおっくうな、言わばコミュニケーション極道の自分の心に、手を焼いてない人が、果たして一人でもおるんでしょうか。でも心を通じ合わせたいと、本当は誰もが願っていると思います。愛を求めない人などおらんのです。

その愛のコミュニケーションのあるなしが、教会の文字通り生命線であると知っておった使徒パウロは、この御言葉において、私が今どんな状態か、何をしているか、知って欲しいと、彼の右腕であったティキコを遣わします。当時、監禁されていたパウロにとって、しかし彼が取り得る最善のコミュニケーションの努力をします。まことにパウロらしい牧会者としてのハートが伝わってくる御言葉です。単に正しい教えとか生き方だけを知っておればよいとは言わんのです。信仰があればよいとも言いません。それは次の23節で、信仰を伴う愛が、父である神様と主イエス・キリストから、兄弟姉妹たちにあるようにと、祝福を祈る通りです。愛があるように。それはまた来週説き明かしますが、この世に、キリストの体として立てられた教会に、愛の通わない部分があったら、具体的なコミュニケーションが断たれていたら、それではキリストの愛がコミュニケートされんから、世にキリストが伝わらないから、教会に愛があるようにと祈る。聖書には正しい教えの部分と多少の個人的話が載っているというのではありません。キリストを証しする福音の正しさが、教会で具体的に現れたら、こうなるというのがこの御言葉です。愛のコミュニケーションにベストを尽くす。どうしたら愛が伝わるか、私はあなたを大切に思っているという愛がコミュニケートされるか、最善を尽くす努力をする。これを正しい教えに留めないことが、教会形成、また教会成長の急所です。自ら最善を尽くす。そして愛を祈る。そうして隣人に仕えることで、教会は成長していきます。教会にお仕えしたいけど、どうしたら良いかと悩まれる方は、どうぞ兄弟姉妹とのコミュニケーションを大切にしてください。信仰を伴う愛が、そこに与えられるように祈りつつ、自分がどういう様子でいるか、また何をしているか、知って頂けるようなコミュニケーションをお取り下さい。それを証しと呼んでもよいでしょう。何かすごいことがなくてもよいのです。そうやって兄弟姉妹でコミュニケーションをとること自体が、キリストの愛の証しだからです。

また、この愛のコミュニケーションは、個人と個人の間だけでなく、個人の個に教会と書いて個教会と言いますが、一個の個教会、例えば、高知東教会の個教会の内部だけでコミュニケーションが取れておったら良いという問題でもありません。前の頁で、すべての聖なる者たちのため祈りなさいと、全てのキリスト者、キリストの教会全体のために祈りなさいと命じられておったように、キリストの愛のコミュニケーションは、個教会だけでなく全体教会、個でなく全体のために祈られ求められている愛の具体的証でもあります。高知東教会固有の課題問題だけに、じゃあ互いにきちんと報連相やってってなると、キリストの体として、いびつな部分に変形します。主の御体を、そうせんように、との御言葉が、ずっと語られてきたのが、この手紙です。およそ二年半エフェソの信徒への手紙から御言葉を聴き続けたのは、健やかなキリストの体として教会を建て上げていくためでもありました。教会がキリストの体であるとは、どういうことか。私たちは、ではどんな教会生活をし、教会に仕えればよいのか。無論まだ学び得ることは幾らでもあるでしょうが、必要なのは、その実践です。信仰を伴う愛のコミュニケーションを兄弟姉妹個人個人で、また個教会同士で、全体教会で重ね合い、祈り合い、ともにキリストの愛を証し、伝え、コミュニケートしていく。

その具体的なコミュニケーションとして、今回は日本基督教団として約半世紀ぶりの青年大会、教会中高生・青年大会2014の報告をすることも具体的実践として相応しいでしょう。371名の全体参加で、目標人数よりは少なかったですけど、蓋を開けて見たら、中高青年、男女という区切りで部屋を割ったら、もうこれ以上宿泊する部屋がない丁度の人数でした。実行委員会は立てた目標が傲慢だったと悔い改めました。が、改めて、この大会が神様の御業であったと、御名を褒めました。神様が丁度与えて下さるというのは、モーセに率いられ、奴隷の家エジプトを出たイスラエルの民が、神様から与えられ続けたマナを思わせました。荒野の40年の間も与えられ続けたマナを、神様が今回与えて下さった。教団も荒野の40年を経て、いよいよ新しいヨシュアの世代が到来することを今回強く思わされました。大会参加者だけでなく、この時代の若者たちを、神様が起こしてくださいます。イエス様の恵みを受け、洗礼を受け、更には牧師として召された若者たちを、神様が起こされる時代の到来を、私たちはこれから目の当たりにするでしょう。その新しい世代に、私たちは教会の何たるかを、コミュニケーションする務めを託されています。私たちがその生きた道標です。失敗も含めて、弱さも見てもらって、それでもキリストの恵みが私たちを立たせて下さって、恵みを示す道標として、私たちは、あなたがたのために立っているのですと、新しい世代のためにお仕えさせて頂ける。この召しを、キリストの愛の証人として今、この時代に、キリストの恵みをコミュニケーションする召命を私たちが受けていることを、改めて主の御前に立って、襟を正して、共に覚えたい。愛する隣人たちに、教会も個人主義でかまんがやと決して思われないように、十字架を負われたキリストに頼り信頼して、よろしくお願いいたしますと、主に依り頼み歩んでいきたい。

先に報連相という言葉を用いたのは、教会は個人を大切にするけど、それは個人主義とは異なって、愛のコミュニケーションを生命線とするということを言いたかったのです。が、ひょっと勘違いされるおそれもあるのです。個人主義が左の対極なら、右の対極は全体主義、あるいはファシズムです。今の日本はその両極で降り幅がカチカチ狭まる振り子状態にあるように思えますが、報連相システムをファシズムだと考える人も少なくないようですので、敢えて付け加えます。もし、そこに愛がないなら、そうなるでしょう。隣人を思うコミュニケーションでなく、面倒臭い業務になったり、あるいは教会での例えば月間予定や、週報の週間予定、諸報告で連絡・報告される教会の働きが、自分とは関係ないことになるのなら、またそのことに対して牧師と長老が、それを個々人の自己責任にして済ますなら、教会に導入された報連相はファシズムと本質的に変わりません。コリントの信徒への手紙一13章で、愛がなければ無意味だと言うのは、その通りだからです。むしろ、その前で語られる教会の姿は、体の一部が苦しめば全体が苦しむキリストの体、教会の愛の姿です。何故、報告するのか。祈ってもらうためでしょう。一緒に喜び、泣くためでしょう。連絡するのはチームだからです。祈っている兄弟姉妹がいるからです。信頼があるから相談できますし、また自分を信用できんから、傲慢にならんよう相談するのです。先の青年大会でも私にプログラム変更を相談してくれたスタッフがいました。なのに私はそれを一緒に本部で運営をしていた別のスタッフに相談せぬまま、それでいいんじゃないのと自らの浅はかさを省みず勝手にゴーを出して、後で、うんと迷惑をかけることになりました。何で私は相談せんかったろうか。傲慢だったからだと気付かされました。色々惨めな思いをしましたが、改めて主から教えられました。ほら、幸生、だからあなたのために祈ってくれている人がこんなにもいる。あなたには兄弟姉妹が必要だと。不安と失敗に囲まれて走り回った青年大会の三日間が終わり、ああ終わったと思ったとき、その私を圧倒的に囲んでいたのが教会の祈りであったことを、東京品川駅のスタバでコーヒー飲みながら思って、涙が出てきました。だから私は大丈夫だと。私は傲慢で惨めな罪人だけど、恵みによって変わることができると。キリストのお姿に似た者に聖霊様によって造り変えられて、こんな私も愛の人になれるのだと、コーヒー飲めんなるぐらい思わされて、主を讃えました。そして、この恵みは、報告せないかんなと。

コミュニケーションは業務ではありません。敢えて言うなら愛の義務です。義なる務めと書いて義務ですし、そもそも義とは愛の正義です。その名を愛と呼ばれる方の子供たち、神の家族に与えられている十戒の根底にある愛の正義です。その愛を証しして共に生きる家族。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことのできる家族を、神様がお望みです。その呼びかけに、あなたと私が、共に招かれて歩むのです。