14/8/10朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章19節、イザヤ書55章 「命に届くメッセージを」

14/8/10朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章19節、イザヤ書55章

「命に届くメッセージを」

 

今、皆さんに祈って頂いて、ここに立っていますことを改めて思い、福音の神秘を説き明かさせて頂きます。大胆に語らせて頂きます。ま、私の説教は大体そうですが(笑)、だって遠慮しよりけになりません。人の永遠がかかっているのです。いつもそのことを思っています。きっとイエス様もそうであったろうと思いながらです。

今日の御言葉を読みますと、適切な言葉を用いてと訳されておりますので、ひょっと、不適切表現でないという意味で取られたら、私の説教スタイルは、土佐弁も使うし、原稿に(笑)と書いていますし、不適切に思う人もおられるがやないかと案じます。が、ここで御言葉が語っているのは、そういうことではありませんで、戦後の口語訳は、こう訳していました。「私が口を開くときに語るべき言葉を賜り」こっちのほうが直訳に近い。あるいは英語の訳で、これは良いと思った訳を参考に直訳しますと、こうです。「私の口が開く時、メッセージが与えられ」。説教の題もメッセージという言葉を用いました。適切な言葉を用いるというのなら、これが適切かと思います。

もとの言葉は、ギリシャ語でロゴス、言葉という意味です。神の言葉としてのイエス様のこともロゴスという表現が用いられます。あるいはイエス様は神様の生きたメッセージであると言うこともできると思います。私たち自身そうです。神様のメッセンジャー、メッセージを伝える人として、私たちの存在自体が、神様の福音の神秘、キリストを証するメッセージである。ただ、メッセージと言うのは、言葉と言っても同じですが、聴き手によって、違って受け取られることもあるので難しい。説教後の献金のお祈りで、今日はこれこれというお話を伺って…、ん?そういう話はしてないけんど…ということがありますと、牧師の集まりで、自己反省として話し合うこともあります。わかりにくい不適切な説教をしてしまうからでしょうか。ひょっとこの手紙を訳した人も、そのコンプレックスがあったのかもしれません。祈って下さいと。

でも私たちの存在そのものがキリストを証するメッセージであるのなら、確かにその問題はあるのです。聴く人に、私たちが接する隣人に、キリストが適切に伝わるような生活をし、また言葉を語れるように、私のためにも祈って下さい。それは説教者だけの問題では無論ない。18節で、すべての聖徒たちのために、すべてのキリスト者、キリストの証人のために御霊によって祈りなさいと、命じられておった所以でしょう。

そもそも、この手紙を書きました使徒パウロは、この時、説教のため祈って下さいと願っておったのではありません。このときパウロは牢獄に捕えられておって、どこにも行けない。じゃあ、鎖に繋がれたパウロが、誰に福音を語れるよう祈れと命じるのか。考えられるのは、ローマ軍の屈強な兵士が交代で、刑事が手錠をかけるようにパウロと自分を鎖で繋いでおった。その兵士に語る。逃げれませんから(笑)。無論だからって横柄に語れば、殴られたかもしれませんし、そもそも心にキリストが届くはずがない。救いの知識だけ教えて、後はあなたの自己責任ね!そんな乱暴な伝道はないでしょう。心に神様の愛が届くように…でも、相手は屈強な兵士です。睨まれたかもしれません。勇気が要るのです。それでも!大胆にキリストの神秘を語ることができるように祈って下さいと命じた。その気持ちは、そしてその伝道の思いはよくわかります。あるいはそのパウロのもとに訪ねてくる人々に、福音を語ることができるようにということか。はたまた裁判の場に出されたときに、悪名高きローマ皇帝ネロの前で、キリストの神秘を語れるように、ということであったかもしれません。でも明らかに、礼拝説教をパウロは考えていたのではなく、それがどんな時であろうと、私の口を神様が開かれる時!その神様の時には、大胆に!福音の神秘を明らかにできるように。それを聴く人が一体誰であろうと、その人にキリストの神秘がズバリ伝わるメッセージが神様から与えられるように、祈りなさいと命じた。自分の知恵や考えで語るのでなく、神様からメッセージが与えられるように!これは説教だけのことでは決してあり得ません。違うでしょうか。私たちが、あ、今が福音を語る時だ!という時には、いつでも福音を語る備えを履物としていなさいと、既に15節で命じられていました。そして、その福音はいつでも、具体的メッセージとして、届く言葉として、人になられて私たちのもとに届けられた神様の言葉として、具体的な、生のメッセージとしての生きたキリストを、聴く人に届けるのです。

そんなメッセージは、神様から与えられる他ありません。たった一言かもしれない。あるいは続いて二言、三言と思ったより神様の証をすることができるかもしれない。その口数が少なかろうと多かろうと、そこで生きたキリストを証するメッセージは、神様から与えられる他ない。無論、口が勝手に開いて自動的に憑依されてというのではありません。考えて、あるいは考えながら語るのです。でもそれが福音の神秘を示す聖霊様によるメッセージであるかどうかは、これはもう与えられる他ない。だから、祈るしかない。祈れと御言葉が命じる所以です。説教でもそうです。毎回、与えられたと信じて語るのみです。イエス様が、求めなさい、そうすれば与えられると約束して下さった。求めるあなたがたに聖霊様を下さらないはずが、どうしてあろうかと念を押してさえくださいました。だから、その聖霊様によって祈るのでしょう。礼拝で神の言葉を聴かせて下さい。あなたからのメッセージを説教者の口が開かれる時に与えて下さいと。毎回です。神学生のためには祈ったけど、もうこの牧師はえいろう(笑)…あり得ません。使徒が!必要としておった祈りを、誰が一体、もういらんと言えるでしょうか。神学生であろうと牧師であろうと、信徒であろうと、私たちのこの口が神様によって開かれて、福音の神秘を大胆に語り輝かすには、皆さんの祈りが必要です。そして祈るなら、そこにはメッセージが与えられます。

その与えられるメッセージには、ただグッと来るとかでなく、確かにそこに神秘の急所もあるのですけど、どうしてその神秘がグッと来るかというと、神様から与えられるメッセージには言わばキリストの香りが詰まっているからです。キリストのエッセンス。ああ、その通りです、これがキリストの救いです、これが私たちの救い主キリストです、この方が神様です、と思えるから、聖霊様によってグッと来るのでしょう。心にキリストの恵みがわかると言っても良いと思います。

福音の神秘を大胆に、聖霊様によって示すことができるとき、聴く人の心を、同じ聖霊様が動かされます。そこはもう聖霊様の独壇場です。そこで聴く一人一人に示される事は、具体的には色々あります。不安な心に、キリストが共にいて下さる事実が押し寄せて、平安になったり。あるいは、ごめんなさいと罪を神様に悔い改める働きだったり。お捧げしますと、召された召しに献身する思いが新たにされたり。神様の愛の力にただただ感謝だったり。他にも一人一人色々ですが、そこに福音の神秘が示されるというのは、キリストが!そこでご自身の香りを放っておられるから以外ではありません。十字架で私たちの罪を担い切られたイエス様の、安心しなさいという香りが、人となられて救い主となられて、私たちのために死んで下さった神様の恵みが、福音の神秘として心に届く。心に触れる。心を包む。あるいは心を開放する。そのイメージもまた色々ですが、それが単に聖霊様抜きでの感情的な感動ではなく、聖霊様に動かされて起こる出来事であるなら、そこにはキリストがおられるのです。それを、キリストの出来事として頭で理解するかせんかはありますけれど、聖霊様によって動かされるなら、そこにはキリストが届いている。キリストがおられる。そのキリストが、福音の神秘です。そのキリストが、聴く人に示されますようにと祈るのです。

神様が、ということだけではない。それは言わば福音の前提で、神秘というのは、その神様を、ああ、神様ねえ、おると私も思いますよと、ひょっと思われているかもしれない方が、その神様は、私のために!他でもない私の死後の裁きを全部身にお引受けになられて死なれた、恵みの神様であると、そしてその大いなる愛の前に私をいま招いておられるのはキリストであると、キリストが私の救い主として示され、届いて、キリストを否定できない。この方を私は神様として礼拝しますとなるのが福音の神秘の力です。神様はおると信じながら、でも自分でやっていける、救いも自分の力でと、キリストを拒否する所には、人間あるいは宗教の常識はあるのですけど、福音の神秘、キリストの犠牲による恵みの救いは、心から遠い。遠いのが人間なのです。自分の力でやりたいのです。それで挫折して、苦しんで尚、それでも自分を否定したくない。その私たちをこそ神様は、あなたを否定したくない!わたしはあなたを受け入れるために、御子をあなたの身代わりに十字架で裁き死なせて、我が子を否定して、あなた!をその身代わりの裁き故に受け入れると、三位一体の永遠の御子を、私たちの代表責任者、主として人として生まれさせ、十字架で死なせて下さった。そして私たちの主として復活させられて、ならばあなたも復活すると、私たちの主イエス・キリストの故に救って下さる。この救い主の恵みが、福音の神秘です。

先に、神様から与えられるメッセージがグッと来るところに、確かに神秘の急所があると言いました。グッとという表現が適切か、響くかはありますが、言い換えれば、自分事になる。私の事だ、と思うから引き込まれる。いや、それがキリストの香りを放つメッセージであるなら、キリストの前に引き出される。そこで私を支えていて下さっている方の輪郭や全体像はハッキリしてなくっても、でもそこで心でわかっていることがある。頭はひょっと否定したくても、心でわかっていることは、いま私を支えて下さっているのはイエス様だと、私はイエス様の恵みと赦し、大きな憐れみに包まれ、支えられ、立つことができるのだと、心でわかる。神様は私を愛しておられるとキリストの故にわかるのです。

その福音を、パウロは、私の福音と呼ぶこともあります。私の、と言えるほど、福音が自分事となる。そしてこの福音の神秘、キリストは、また、あなたの事でもあるのですと、教会は祈って皆に伝えるのです。