14/7/27朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章18-19節、詩編126篇 「祈る教会は愛を届ける」

14/7/27朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章18-19節、詩編126篇

「祈る教会は愛を届ける」

 

私のためにも祈って下さい。と、この新共同訳は訳しました。明治の文語訳はこれを、我がためにも祈れ、と訳しました。祈れ。それが直訳です。ま、現代の日本語で、私のためにも祈りなさい、と言われると、何か偉そうと思う人がおったらいかんと配慮したんでしょう。それで、祈って下さいと訳したのかもしれませんが、そこに微妙なニュアンスが入り込む恐れがあるかもしれません。何故なら18節では、全ての聖なる者たちのために…祈り続けなさいと、命令形で訳されていたからです。そりゃあ教会が聖なる者たち、つまりキリストに結ばれ、神様に属する聖なる者とされ、神の家族とされた教会員、一人一人のために祈るのは当然だ。神の家族として皆で家族のために祈り合う。それが教会だから当たり前。けれどここでは、この手紙を書いた使徒パウロが、私個人のためにも、教会で祈って頂けると助かりますと、個人的要望をお願いしているのだと、もし間違って理解してしまうと、この頁の下の段全体、神の武具を身に着けなさい!と命じられてきた御言葉全体が、ボヤっとしてしまうのです。

改めて問います。何のために、神の武具を身に着けるのでしょうか。単に自分らの身を誘惑や試練から守るためか。そうではない。むしろ、自分の身を、キリストの体の一部として、人々の救いのために捧げることが、できるようになるためです。そのためにキリストの体の一部として、倒れてしまうのではなく、立つことができるようになるためです。私はキリストの体に結ばれて救われた、キリストの体の一肢であると、その掛け替えのない自分を守るため、キリストの体の一肢としての私が悪魔の策略に惑わされて倒れないために、キリストの愛による武装をするのです。何とか、教会がその愛から離れて、愛の闘いをあきらめて、救いのことらあ、もう考えん、ってなるように悪魔の策略と誘惑が襲ってくる。その只中で、しかし教会が、パウロのために祈れ、と命じられているのは何故か。パウロが、当時のキリストの体の、言わば口の部分として大胆に、しかし柔和なキリストの口として、キリストの救いを、神様の愛の福音を、皆に語るためです。

では、パウロが口なら、他の教会員たちは、どの部分か。一人一人が色んな部分でありながら、しかし、一心同体なるキリストの体として、福音を告げる口を支えるために、忍耐を尽くして祈る各部分部分です。一人としてキリストにとっては欠くべからざるご自身の体の大切な部分です。何故なら私たちは、キリストご自身の一部だからです。その故に御言葉は、私たちに、神の武具を身に着け、キリストの愛で武装して、キリストの愛に立つことを求めます。武具を身に着けたのは、このためでした。救いのヘルメットをかぶったのは、このためでした。その兜に燦然と輝く十字架の旗印の下、人々の救いのために、仕えるためです。

先週の水曜、木曜と、高知県西部の中芸地区で、夏期恒例の集中伝道を行ってきました。例年ですと、3500枚のトラクト、特伝案内を、猛暑の中、郵便受けに入れ回って家々を歩くのですが、今年は1000部だけ。というのは昨年のクリスマスに、今まで借家で会堂をかまえておった町の隣町、奈半利町の一等地に、以前歯医者やった建物を購入しまして、新しい伝道拠点とした。それで引越しの挨拶も兼ねて、近隣の町のみ、ピンポン、ごめんくださいと顔と顔を合わせて挨拶をして、特伝の案内を手渡しするという伝道、訪問伝道を、今年は行ったからです。

当然、と言うと、うんと悔しいのですけど、あんたらあ、エホバ?って言われましたし、実は家々を訪ねた伝道者たちも思っているのです。たぶん間違えられるろうねゃ(笑)と。それでも二人一組で訪問した。というのは、その計画を立てた牧師が言うのです。断られたら、しかも連続で厳しく断られたら、思ったよりショックで、次のドアを叩くのにひるんでしまう。その時に、後ろで祈ってくれている友がおるとおらんとでは違いますと。実際、私も、一軒目を訪ねて、よくわかりました。追い返される剣幕で怒鳴られて、肝が縮みました。が、一人じゃなかった。今思うと、神様!と祈られたのでしょう。腰はひけてるんですが、顔は一生懸命にその方を見て、耳を傾けました。そしたら、急にその方の表情が変わって、まあ、けんどあんたらあも折角もって来てくれたがやき、それ何?と、案内を受け取って下さいました。訪れた方々の皆がそうだったわけではありません。午前中二時間で、受け取って頂けたのは一組で大体30部。全体で延べ二日間、軽く千軒以上訪れて約380部。後の案内は結局ポスティングする他ありませんでしたが、終わった後、西村牧師が、満面の笑顔で言いました。380人以上の方々と顔と顔を合わせて、ひょっとしたら生まれて初めて見る生きたキリスト者と出会って頂けて、声を聴いて頂けて、手ずから案内を受け取って頂けました。380人以上もの方々に!それを聴いて私は思いました。ああ、もっと皆に、この中芸伝道のため祈って下さいとお願いすれば良かったと。

先週は教会婦人会連合の教会訪問や、青年大会の献金のお願い、教会幼稚園後援会の献金のお願いと、色々あったのも事実ですけど、それでももっと頼めば良かった。祈りの説教を語りながら、ここでパウロが求めたように、私のためにも祈って下さいと、どうして言えんかったのだろうか。祈りなさいと語りつつ、教会で祈ってもらわなくても、何とかなると思っていたのじゃないか。案外、そういうところに出るのです。祈ってもらっても結果に出にくい。なら献金のお願いしたほうが結果に出ると(笑)。前に教団の伝道委員の先生が、伝道委員会と言いながら、その内容はお金のことばっかりやっていると嘆いておられました。無論、パウロも献金を集めましたし、天に宝を積むことなしに伝道が進むこともないでしょう。献金は献身の徴であればこそです。献身なしには伝道にならない。けれど献金が伝道の代わりをするわけではありません。その献金によって具体的に支えられながら、伝道の最前線で、一人の人にキリストを手ずから伝える献身者が、しかしもし、祈りによって支えられてなかったら、伝道の一番重要な部分は自力でやるのか。献金が祈りの代役をするわけにはいかない。人に救いが手渡されるためには、祈りが求められるのです。

ですから改めて、皆さんにお願いをいたします。もはや私のために、という機会は逸してしまいましたが、本日午後二時、その案内を配った特別伝道礼拝が中芸教会で行われます。その伝道礼拝に、案内を手にした方々がいらっしゃるように、聖霊様によってお祈り下さい。人の心を動かすのは、しかも永遠の救いに向かって、見えない神様に向かって、救いを求めるように動かされるのは、三位一体の聖霊様のお力によってのみです。神様の愛の求めに背中を押されて、人はまことの神様を求めるからです。そして、そのように心を動かされるのが、聖霊様であればこそ、御言葉は私たちにこう命じるのです。御霊によって祈りなさい。教会の働き、伝道の働きが、どんなに尊い献身に支えられておっても、それが人間の業でなく、神様の救いの御業となって、人が神様を求め、イエス様を救い主として受け入れるには、聖霊様がそこでご介入下さる以外にはないからです。そのことをパウロは知っておったので、後ろで祈ってくれゆう人がおるとおらんとで、人が神様の救いの奥義に巻き込まれ、聖霊様のお力の只中で、救われるか救われんかが違ってくると、神様のご介入がなかったら、伝道が伝道にならんから、あなたがたは、教会のため、キリストの体に結ばれた全ての聖徒たちのため、そして、私のために祈りなさい。何故なら教会は、神様の救いの神秘の只中で、人が救われるために祈り、その祈りによって、聖霊様によって伝道するのが教会だから、あなたはその教会に属する欠くことのできない聖徒の一人、聖なる祈り手として祈りなさいと、一人一人に命じるのです。

今日は私たちの教会でも、同じく午後二時から、南国教会、安芸教会との教会学校キャンプが行われます。約50名!初めて参加する親御さんや、普段は教会に来てない子供たちも参加します。このキャンプが伝道キャンプになるように、キリストのご臨在を運ぶキリスト者によって、子供も親も、キリストの神秘的体に触れることができるように、お祈り下さい。十市では二時半から聖書を読む会を行います。まだ求道の方は誰も来ていません。聖霊様によってお祈り下さい。私が話をします。私のためにも祈って下さい。伝道する教会は皆さんを祈り手として必要としています。キリストの体の欠かせない部分として必要としています。そして福音の神秘が現実化して、キリストの救いがなるのです。