14/7/6朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙6章18節、イザヤ書11章1-10節
「自分の都合でない祈り」
根気よく。大切やなあとつくづく思います。私が土佐人にありがちな熱しやすく冷めやすい気質だからでしょうか。自分のこだわりに関しては、ええ加減しつこいのに、もうやめや言われたちやめれんのに、根気よく誰かのために祈るということの、何と困難なことかと思います。
だから、でしょう。その弱さをよく知っておられる三位一体の神様が今日の御言葉でおっしゃるのです。霊に助けられて祈りなさい。御霊によって祈りなさい。三位一体の神様のご支配に身を委ねて、その御力に押し出されるようにして祈りなさい。そう言い換えてもよいでしょう。そう語る御言葉自体が、前の17節で言う御霊の剣ですから、イメージで言えば、聖霊様が、ご自身の剣によって私たちの心にスッと神様の御心に従う道を切り開いて下さって、その道を示されつつ、こうおっしゃるのです。わたしの力の中で祈りなさいと。祈りに促されるのも聖霊様であれば、その祈りを一緒に祈って下さるのも聖霊様である。この連続性が急所です。聖霊様繋がりと言ったら軽く聴こえるかもしれませんが、ここにキリスト者の生活の急所、クリスチャンライフのライフライン、生命線があるとも言えます。聖霊様による御言葉と祈りのライン。
御言葉と祈り。どちらも欠かせない生命線ですが、よく言われるのは、御言葉が日毎の糧であるならば、祈りは息をするのと同じだ。パンがなくてもしばらくは持つが、息をせざったら死んでしまうと。言い換えれば、神様に向き合ってなかったら、神様と会話することがなくなってしまったら、会話のない関係がどうなるか、敢えて聴くまでもないと思います。家族ではあり続けますが、悲しい。会話は大切です。言葉は愛のライフラインです。先週、言葉を軽んじるのは相手の存在を軽んじるのと同じだと申しましたが、自分という存在を神様に委ね、神様の御前、コラム・デオに立つ存在が、どこに現れるかというと、祈る時、自分の存在をかけた言葉を天の父に捧げる時です。祈りが神様の家族としての私たちの存在を確かにし、その関係を実体化するからです。
ただ、これは祈りの言わば原理的な説明です。そうか、これが祈りかと知って頂けたら幸いですが、それで、じゃあ実際に祈るかというと、やはり知識は知識でして、行くべき道を示しはしますが、祈りへと動かす力を持っているのは、知識ではない。私たちの存在に語りかけ、存在を駆り立てる生きた存在の重さが、私たちを祈りへと動かします。相手の存在の重さを感じる時と言ってもよいでしょうか。それを、相手のことが自分事になる時と言うのでしょう。具体的に当てはめて頂きたいのですが、人から、この事を祈って下さいと頼まれても、自分事にならんと祈りからこぼれてしまうのではないでしょうか。大事な事だとは思ってもです。大きな事と書いて大事と読みますが、それよりも自分の事、自分事が大きくなるのが人間なのでしょう。自分事は祈るのです。特に苦しい時、よく祈ります。自分事の最たる事ですから、車運転しながらでも、歩きながらでも、トイレでも祈る。根気よく祈る。
その自分を造り変えられるのが、聖霊様のお働きです。大事だと思ってはいても自分事になってなかった祈りの課題が、自分事になるのは、課題が変わったのではないのです。自分が聖霊様によって変えられたのです。御霊によって祈るとは、そういうことです。御霊の剣である神の言葉がなす働きも、私たちをキリストの形へと造り変えて行くお働きです。御言葉と祈り。どちらも聖霊様が私たちになさる救いの御業です。
改めて言いますが、救われるとは、罪の裁きから救われて天国に行けるだけではありません。裁きの原因であり神様を悲しませる存在の根本たる罪から救われることも、三位一体の神様の救いの願い、御心です。敢えて極端に言いますが、赦され天国行けるだけなら、キリストの御業だけで十分なのです。聖霊様は私たちとキリストを結ぶ原理的存在としてのみ存在しておればよいのであって、別に生きて働く必要はないし、そのように生きてない存在としての聖霊様をイメージすることも少なくないのではないかと危惧します。だが、三位一体の永遠の御霊は生きておられます!生きて私たちを罪から救い出して生かすため、キリストの形へと日々新しく造り変え、私たちの古い存在が新しい神様の子供たる存在として、全く新しい神の形が再創造されるために、生きて日々苦労しておられます。前の4章30節によれば私たちの軽い言葉、軽い存在に悲しみさえなさりながら、しかし根気よく忍耐され、私たちと一緒に、私たちのために、御霊なる主は、生きて執り成しておられます。
その救いに救われ生きることの具体的現れの一つが、祈りです。自分自身が罪から救われて行く中で、他の人が罪から救われていくための、執り成しの御業が起こるのです。教会を通して愛する者たちを救われるキリストの御業が起こるのです。教会がキリストの体として造り変えられ、建て上げられていくという救いの御業と切り離して、祈りの御業、伝道の御業、執り成しの御業を考えることはできません。
私が聖霊様によって造り変えられて、あのことも、またこのことも、自分事として祈れるようになる。それは御霊によって祈りなさいと命じられるように、自動的に起こるのではありません。愛の関係に自動的というのはありません。私が自分の存在をかけて、聖霊様、私を造り変えて下さい、自分自分の事でなく、父の御心を祈れるように、貧しい私の祈りを導いて下さいと、イエス様がおっしゃったように、自分を捨て、自分の十字架を負って祈るのです。自分の存在をかけて、しかし、その存在を父の御手に委ねて、コラム・デオ、神様の御前で祈る。
その祈りは、主が十字架に架かられる前に祈られた、あのゲツセマネに導かれる祈りとも言えるでしょう。全て祈りはゲツセマネに導くとも言えるのではないかと思います。キリストの名によって祈るのです。自分を失って執り成すのです。そこに聖霊様による祈りがあります。
祈りながら、祈りの貧しさを感じることもあります。言葉が出ない時もあります。でも貧しい者が幸いなのです。なら聖霊様から与えられた御言葉、御霊の剣によって示された御心が一つでもあれば、その御心を御霊の力にギュッと押し出されるようにして祈ればよい。一言に私たちの存在をかければよい。その一言を父は絶対に軽んじられません。言葉の貧しさ、私という存在の貧しさ、愛の貧しさを思いながらも、だから主よ、お願いしますと祈ればよい。貧しいから祈るのです。豊かな人は自分の力でやるのです。そして御業から離れてしまう。そんな弱さがあればこそ、聖霊様は御言葉によって、ただ御心を祈るよう導かれます。
そこにゲツセマネの祈りもあります。私の願いではなく、御心をなし給えと、主が祈られたように、そこでは私の力は関係ありません。私はもう父に委ねたのです。その代わり、そこには父が憐れみを注ぐため、キリストを、そしてその御体である教会を遣わされた、父の愛する人々がおられます。その人々のためにキリストが御心を求められたように、私たちも、その人々の事を自分事として、憐れみを求め、救いを願い、助けを父に求めるのです。そこで祈り求める私たちの祈りが、キリストの願い求めとなるように、聖霊様によって祈るのです。
その願いは、キリストの求めですから聴かれます。どう聴かれるかは委ねますけど、ゲツセマネの祈りですから委ねるのですけど、キリストをくださった父の御名をあがめる祈りですから、聴かれないはずはないのです。信じきれない自分をも捨てて、キリストの願いですと、御名によって祈る。キリストと私たちを結ばれた、御霊によって祈るのです。