14/6/29朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編119篇1-16節 「知識と生きた言葉の違い」

14/6/29朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編119篇1-16節

「知識と生きた言葉の違い」

 

神様の言葉を、ではどう取るのか。無論、ぞんざいには取りません。言葉の取り扱いは、それを語る方に対する取り扱いと同じだからです。先々週も申しましたように、人の言葉も同じです。言葉の取り扱いは、その人に対する態度と同じですから、軽んじられたら嫌な思いになる。皆さんも同様の体験があると思います。言葉を聴く、聴かん、あるいは理解する、せんというのは、言葉だけ、知識だけの問題ではありません。人の言葉であれ、神様の言葉であれ、すべからく言葉に向き合うということは、それを語る相手の人格に向き合うのと同じです。

人格というのが難しかったら、存在と言っても良い。それも難しいかもしれませんが、こう言えばわかるでしょうか。言葉を軽く聞かれるというのは、存在を軽く見られるということです。軽んじられる。フッと吹かれる煙のような存在…とまでは、軽んじた側は思ってないかもしれませんし、軽んじているとさえ気づいてないのだと思いますけど、人の言葉を、はいはい言うて聞くというのは、じゃあどうなのか。もし自分がされたらどう思うか。あるいは若い世代ではメール文化というのか、言葉が軽い時代にますます拍車がかかっておって、自分が大事だと思う言葉だけセレクトし、選択して、後は、返事する、せんも自由…ということになれば、やはり相手の存在に向き合う姿勢が、崩れている時代に私たち生きているのかもしれません。

でも、そんな時代であればこそ、じゃあどう生きるのか、どう生きていけばよいのかという問いと答えに、カラカラに渇いている人々もおられるに違いないのです。イエス様が、義に飢え渇く人々は幸いであると言われた。その人たちは満たされると約束して下さった。それは神様の答えに飢え渇く人々にも、もちろん与えられている幸いなのです。

先々週、私たちは聖書に答えを求めるのだ、御霊の剣によって、神様の祝福の道が切り開かれていくからだと説き明かしました。それを義の道と呼んでも良いのですけど、その道は、自分が聖書を利用して切り開いていくのではありません。それが義、正しい道ではないというのは、おわかりになると思います。神様の正しさは愛の正しさ、愛の正義ですから、自分で聖書を利用して、というのでは無論ない。むしろ私たちの前に道が切り開かれるのは、ま、そこに神の武具による闘いのイメージがありますから、そこでバッサバッサ切り倒される悪魔の策略があるのですけど、それは神様からの答えによってのみ倒れます。そしてここが急所ですけど、答えと言うなら、答えてくれる相手がおるのです。存在をかけて向きあう相手がおるのです。その相手に対して求めるのです。無論、その相手とは神様ですが、人間相手でもそうでしょう。何かを求めるときには、相手の気持ちを考えます。無表情で、金、いうて親に金を求めるような求め方ではない(笑)。親の思いを考えられたら、神様のお気持ちもわかってくると思います。求められるのは嬉しいものです。求めなさいと主も言われました。そこに愛の関係が実態を持つのです。単に金や知識としての答えという、モノが求められるのが嬉しいのではありません。それを与えてくれると信頼されていることが、自分の存在が求められているという、共に存在している実態が嬉しいのです。

聖書に答えを求めるというのは、謎解き迷路のように、あ、こんなところに人間関係のヒントが、あ、こんなところに結婚についての答えがという風に、妙に謎めいてあちこちに人生の答えが隠されているというのではありません。讃美歌の聖なる聖なるが歌うように、罪ある目には隠れて見えんということはあってもです。ゴミが落ちていて見えゆうのに、え、どこにあった?ということがある。金は別(笑)。関心がないと見えない。神様の関心って何だと思うでしょうか。そこに関心がないと見えていても見えない、読んでおっても心を通り抜けていくということは起こります。聖書が難しいというのは、時代背景とか専門用語とかの理由も多分にありますが、関心のズレという問題も大きいのです。よく勘違いと言いますが、それは関心違い、心の求めが違って、心が別々の所を見て求めておることに起因することが多いように思います。

神様の関心、それを御心と訳すことが多いのですが、直訳すれば神様が喜ばれること、お望みになること、神様の心がそこにあるってのが、御心です。御関心とか御求めとか言い難いですから、それでいいんですけど、御心とはじゃあ何か。神様の関心です。こだわりとさえ言える。御心は別に隠された計画とかじゃありません。今日のお昼は蕎麦が御心やったに、あ~あ、ラーメンらあ食べてとか(笑)そんなんじゃない。御心は、父との愛の関係の中で私たちの体も養われることです。神様とそこで関心が一つになるなら、何を食べてもよい。その御心は隠されてなんかはないのです。食べもののことでわずらわず、神の国を求めよ、父との愛の関係の実態を求めよと、例えばそこでマタイ6章の御霊の剣を取る。御霊の剣の取り方の、一具体例です。

更に具体的に踏み込んでいくと、神様の関心、御心が一番わかるのはキリストを知るときです。無論、知識としてのキリストではなく、存在を持っておられるキリスト、しかも人としての存在をさえ受けられた、永遠の三位一体の御子なる神様としてのキリストを、え、じゃあ何で、そんな面倒な存在を持ったが?と自分事として求める。そのとき、御子を私にくださった父の関心がわかりますし、私の存在もわかるのです。御子が人の存在を得られた理由は、私の救いのためなのだと。私と一つになるためだ。私の責任代表者として罪の裁きを十字架で引き受けて、身代わりに私が赦され救われ、神様の子供として生まれ変わるという新しい存在を得るためだと。そのようにキリストを知る。私の救い主として知るところで、私の存在もわかる。知識としてではない。知識は人を神様に向き合わせるきっかけにはなりますが、人をして神様に向き合わせ、しかも、神様、あなたは私の神様です、私はあなたの子供ですと、神様と結び合わせることができるのは、信仰、信頼という絆だけです。もっと正確に言えば、その信頼の絆は、私たちの関心とか思いという、それこそ煙のように不安定で吹けば飛ぶようなものでなく、その本体は三位一体の御霊なる神様、聖霊様のご存在です。その聖霊様が私たちと私たちの救い主キリストを家族の関係の帯で一つにギュッと結んで離さないから、どんなことがあってもあなたを離さないと、神様として離さないから、私たちは確実に救われるのです。キリストの100%の赦しと聖めが、100%保証されるのは、この聖霊様の結びによります。

そして、その結びが、単なる知識ではなく、信頼の関係、愛の関係という実態を持っていることがわかるのが、御霊の剣、聖書の御言葉を、私の神様の言葉として取るときなのです。キリストが、わたしはあなたと共に在る、あなたの存在と共に在る神だと、私たちと一つに結ばれてくださっている。その結びそのものであられる聖霊様が、私たちの心を照らして神様の関心を見させて下さるのです。ああ、私の神様は、ここに関心を持っておられる。裁きでなく救いを望んでおられる。罪でなく愛の道を望んでおられる。そのために具体的には、これをしなさい、これはいかんと言っておられる。それを私への愛から言っておられると、生きておられる神様の言葉として、心に聴かせて下さる。そこで今まで知識としては知っておった言葉が、これは神様の関心であり、こだわりであり、これが私たちへの愛なのだと、神様の言葉として向き合える。神様に、はい、と向き合わせて下さるのが、聖霊様の、御霊の剣による救いのお働きであるのです。

少し説明に過ぎたかもしれませんが、じゃあ、聖書に、また聖書の説き明かしである説教に、どう向き合えばよいのか。どう御霊の剣を取ればよいのか。神様に向き合ってです。しかも私たちの救いを一番の関心としておられ、そのために御子を死なせて罪赦すだけでは終わらずに、三位一体の神様が総動員で私たちの救いのために働いておられる。その救いの神様に向き合って、その全存在を、私たちの救いにかけておられる神様に向き合って、神様の言葉に向き合うのであれば、私たちも自らの存在をかけて、向きあう他はありません。そこで聴こえてくる言葉、見えてくる言葉は、軽い言葉になることはないでしょう。仮に何を言いゆうかわからなくてもです。存在をかけて聴く。ご自分の存在をかけて語られる神様の言葉に、襟を正して、存在をかけて向き合う。

そこで言わば、剣がスッと指し示す方向が新しく見える。神様に向き合う方向から、今度は、人々の救いの方向に、スッと剣が私たちの顔を上げさせて、あなたを遣わす、行きなさい、キリストの救いの使者としてと、そこで隣人のもとへとも遣わされます。もはや多くは語れませんが、それが次の18節以下、祈りと伝道へと展開する所以です。詳しくはそこで説き明かしますが、御霊の剣を取るキリストの救いの兵士として誰かのもとに遣わされる時も、やはり存在をかけて御言葉を取る。語ると言ってもよいでしょう。やはり、ぞんざいな態度では語り得ません。これは神の言葉だと強権的に、言い換えれば、虎の威を借る狐みたいなずるい態度で、これは神の言葉だと剣を振りかざすことはできません。そのときには、それは狐の剣になっている。御霊の剣は、言わば、中世の王様が兵士の肩に剣をそっと於いて、王の騎士にするように、まずそのように自ら剣を受けると言えば良いでしょうか。そこには王が王として敬われる権威があり、その権威に対して、王様、私の首をはねることさえ、あなたにはお出来になりますが、私はあなたを信頼し、あなたに忠誠を誓いますと、頭を垂れて剣を受ける。御言葉を読み、聴き、また特に語るとき、その態度があるかないかで、剣は御霊の剣にもなれば狐の剣にもなり得ます。

そして私たち一人一人は、存在をかけた言葉の使い方を習得していくとも言えるのです。あんた、あの時…何と言うかイエス様みたいやったでって言ってもらえたら、どんなに嬉しいことでしょう。聖書に自分の存在をかけて向き合う生活が、存在をかけて人に向き合う毎日を造ります。そこに遣わされているのです。そして一人ではないのです。神様の存在が共に在るから、その救いの言葉に生き抜くことができるのです。