14/6/8聖霊降臨主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章17節、ヨナ書3章 「受けよ、救いの言葉を」

14/6/8聖霊降臨主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章17節、ヨナ書3章

「受けよ、救いの言葉を」

 

先に読みました旧約の御言葉は、老人は夢を見、若者は幻を見る、と預言します。どんな夢、どんな幻でしょうか。聖霊様によって見る夢。聖霊様によって見る幻です。その三位一体の御霊なる神様が見させて下さる夢と幻は、その御霊の剣である聖書の御言葉、神の言葉が描き出す救いの夢であり、幻です。何と幸いな人でしょう。すべて聖書の通りに実現すると信じる人は。その人は、聖霊様によって夢を見る。いやもう既に見ているのです。神様が、わたしは世界をこのように救うと、既に御言葉に語られた。その神様の救いが実現するのは、ああ、あの御言葉に、この御言葉に、教会が、はいと言ってお従いするところで、神様の救いがなるのだと、救いの夢を見ているのです。またそんな夢物語をと人が言おうと、救いの夢を見、救いの幻を語る教会は幸いです。そこに三位一体の神様の、御心が実現するからです。

その一つがこれです。救いの兜をかぶり、御霊の剣を取りなさい。言い換えれば、救い主キリストとの生活を一番にし、その救いが具体的に実現するために与えられた聖書の言葉によって生活しなさい。聖書が、こう生きなさいと言われる通りに、救い主との実生活を営みなさい。

先週申しましたように、救いの兜をかぶるのは、兜が救いの条件だというのではありません。キリストを救い主として信じ受け入れたら救いは保証されています。キリストが100%の保証だからです。キリストを失うことはできない。神様との関係、救い主との関係は、頼りない人間関係とは違うからです。キリストに、あなたが私の救い主です!と信仰告白しキリストと結ばれた人を、キリストが捨てることはありません。ならその関係を、生きよ、その絆を愛の絆とし、心を通わせ合う生きた愛の絆とせよ、救い主との愛の関係を生きよ、というのは、人間関係と同じでしょう。関係は生きてこその関係ですし、愛の関係は尚更です。救いの兜をかぶるというのは、救い主との愛の関係を、ならば救い主の愛に従って生きなさい、そうすればあなたが誘惑に陥らないよう、その愛があなたを守ると。救い主の100%の兜に守られて、安心して、その救いの関係を、生きて、生きて、生き抜きなさいということです。

具体的には、愛の関係を汚す一切の誘惑を避け、捨てる。夫婦関係と同じです。両方大切にすることはできません。愛を大切にするなら捨てる他ない。神様との関係も同じです。そして、汚れを捨てるためには、何が関係を傷つけるかを、え、こういう考え方もいかんかったが?この生き方も神様を傷つけるが?本当や、ごめんなさいと、知っていく必要がある。そして、その汚れ、過ち、罪を捨てるために、捨てるべき態度や生き方、考え方は何か、また神様に喜んで頂くために身に着けるべき生き方、考え方、態度は何かを教えてくれるのが、御霊の剣、神の言葉です。救いの兜による100%の保証のもと、安心できる神様との関係のもとで、その愛を実際に生きていくために、その生き方を具体的に切り開く御霊の剣を、この手にギュッと握るのです。

だから、この二つの武具はセットです。100%の防御だから、安心して剣を振るって、関係をおかしくする罪また悪魔と闘える。

そこで、この剣の使い方を身に着ける必要があります。剣ですから、間違って使うと、人も自分も傷つけます。ないでしょうか。聖書の言葉で人を傷つける。あるいは自分勝手に聖書を読んで反感を持つ。

また、この剣は闘いのための剣ですから、誰と闘うのか、どんな闘いを行うのかもわきまえる必要があります。人をやっつける剣ではありません。私たちに御霊の剣が与えられているのは11節で言われるように、悪魔の策略と闘うためです。人の人生を神様が傷つき悲しまれる人生にしようとする、嘘と闘うための剣です。

その闘いの場は、おもに二つあると考えるとわかりやすいでしょう。一つ目は、自分自身が嘘による攻撃を受けている場です。なあ、人生は自分の好きに生きろよ、自己実現しろよと悪魔の誘惑、世の誘惑、自分の心の内にある罪の誘惑が攻めてくる。それらに真っ向から抗って剣を構える。嘘や!と。私に命が与えられ、人生を営むことができるのは、自己実現のためではない。自分のしたいことより何よりも大切な、一番大切なのは救いだ!と救いの兜をかぶって、迫りくる誘惑に対して剣を取って、敵の攻撃を真っ向からガキーン!と受け止めて防御する。そうやって自分への攻撃に対して剣を取る。これが一つ目の闘いの場です。

もう一つは、攻撃を受けているのは、無論、私たちだけではありません。だから、その人たちも同じく受けている誘惑の矢面に立って、人のためにも剣を構えて、ガキーン!この嘘に騙されたらいかんでぇと攻撃を跳ね返す。人を守るための愛の闘いをする。この二つです。

悪魔の誘惑は、とにかく何でもえいから、人を神様から遠のけようとします。神様と具体的に関わらんように、言わば、この部分は大事だけど、この生活の部分は神様と関係ないだろうと、例えば恋愛は自由だろうとか、これぐらいはいいだろうと、御言葉と反対の生活をさせるように、悪魔も言わば導きます。キリスト者はその嘘の導きと闘うために、御霊の剣、神の言葉を取れと言われるのです。その剣によって切り開かれる愛の道、神様が喜ばれる具体的な生活を歩むためです。曖昧な信仰生活というのはありません。裁きが具体的なのと同じです。信仰告白で聖書は信仰と生活との誤りのない基準でありますと告白する通りです。生活はいつでも具体的です。その具体的生活に、具体的に御言葉を当てはめて生きる。それが御言葉による闘いの内実です。

そしてこの闘いは、今申しましたように、神様の愛の闘いでもありますから、この闘いを、自分のためにだけ闘うという霊的な自己実現にしない。人のために生きる。具体的には人の救いのために生きる。それがキリストに結ばれたキリスト者たち、教会の具体的な闘いです。霊的な自己実現って如何にも怪しげですけれど、自己実現に導く霊は聖霊様ではありません。何でも聖霊、聖霊って思わせる誘惑もありますが、それも悪魔の策略です。自分の信仰とか、自分の救いに終始させようとする導きに、しかし三位一体の聖霊様は真っ向から対立されて、違うろう!と、神の言葉によって私たちを導かれます。自分自分で救いなき世に、しかし恵みによって実現される救いは、あなたがたの内に、キリストが実現されていく救いだと、聖書の証するキリストの救いを宣言します。救いとは、キリストに結ばれて与えられた救いが具体的に現れて実現するのだと、私たちの心に絡みついている罪の鎖、態度、考え、生き方という罪の鎖に、御霊の剣、神の言葉が、ガキーン!と振り下ろされて、心と人生を、罪から解放して下さる。それが剣の用いられ方です。

そして自分自分の誘惑から救われていくと、具体的にどういう生活になっていくか。そこにキリストの思いが具体的に実現して、その人生にキリストの生き方が実現していく。あるいはキリストの生き方が成長していく。教会がキリストの体と呼ばれる所以の一つでもあります。私たちの生活、態度、生き方の中に、キリストの愛が立ち現れてくる。人の救いのために生きようという心が育まれるのは、キリストによる救いの必然なのです。聖書に具体的に証されているキリストの愛、その聖さ、また憐れみが、御霊によって、私たちの心と生活の中で具体化される。イメージで言えば、心の中で、聖書の言葉が単なる知識や言葉でなく、神様の言葉として、生きて存在の重みを持った剣として、私たちの歪んだ部分にザクっと当たって、その刃先から聖霊様が、罪の歪みや腐食に対して、そこはお前たちの住処ではない!そこはキリストの王座が据えられている、キリストの聖なるお住まいである!退けサタン!と、罪の生き方、態度、考え方を退けられる。私たち自身の力ではどうしようもない、自分自分の罪の腐れと、神様が闘って下さるのです。

人の心は、そうそう変わるものでもないでしょう。考え方も、生き方も、歳を取ったら尚のこと、今更変わらんと思うかもしれません。でもそれが変えられるとしたら、聖霊様のお働きです。優れた説得によるのではない。あるいは逆に、聖霊様聖霊様言うだけで何か神秘的なことが起こるだろうと、自分は何ちゃあせんのでもない。むしろ、例えば一人座って聖書の御言葉を読むという、実直過ぎるほど地味に神様の御言葉を信じるところで、御霊の剣を抜くのです。また礼拝で語りかけられる説教と愚直に向き合って神様を求めるところで、心と思いがキリストの思いへと、変格されていくのです。

その変格、罪から救われていくキリストの恵みのご支配を、御言葉はまっこと真実やと、喜びながら知っていく時、ああ、この解放の喜びを皆にも持って欲しいと、言わば自然に思うようになる。それもキリストの思いの実現です。無論、まだ自分としては多くの歪みがあり罪があるけれど、全部取り除かれるまで待ちよったら文字通り死ぬまでかかります(笑)。それよりも救いの兜をかぶって、キリストに救われた100%の安心を味わったら、自分に罪があろうと何だろうと、自意識過剰だろうと解放されていようと、救い主を伝えたいと思う。キリストを伝えなければと思う。それがキリスト実現です。キリストの心が、人に救われてほしいと願う神様の愛が、そのように私たちの内に実現しているのを、全く知らんキリスト者はおらんでしょう。誰かの救いのために祈ったことが一度もないということもないと思います。ただその思いを、具体的に、どうしたら良いのかがわからいで、自分自分が先に立って伝道した結果、失敗したりもしますから、御霊の剣があるのです。自分の力で、素手で闘えというのではない。100%の救いをかぶり、御霊の剣を取ってキリストの救いを証せよ。救い主は生きておられると、救い主を一番にする実生活を御言葉によって営むところで、キリストの救いは実現すると、御霊が導いて下さるのです。

この救いが必要でない人はおりません。キリストが救い主として必要でない人はおりません。ならばその救いをもたらすための神の言葉を、必要とせん人もおらんのです。そのために与えられている御霊の剣を、ギュッとこの手に取るのです。手に取って、具体的な愛の闘い、救いの闘いをするところで、キリストの救いがなるのです。