14/6/1復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編51篇12-14節 「人生で一番大切なこと」

14/6/1復活節第七主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章17節、詩編51篇12-14節

「人生で一番大切なこと」

 

もう20年前になりますが、大学の最終学年になって具体的に就職を考えておった頃、牧師から話があるというので牧師室を訪ねました。進路選択、また将来について話をしたその冒頭で、牧師がこう言いました。幸生、人生で人は色んな道を選ぶけど、その中で一番大切なことは神様の救い、イエス・キリストの恵みによる救いを選ぶことだ。幸生はそれを選んだ。それを一番大切にしなさい。いつもそれを一番に大切にして道を選んだら、その他の道も守られると言われました。その通りだと思いました。今はもっとそう思っています。どんな思いで牧師がそのことを伝えてくれたか、その気持ちもわかる気がします。人生で、救い以上に大切なことはないのです。

優先順位の問題だとも言えるでしょう。何を一番にしているか。難しい言葉では主導原理と言ったりもします。おもに導く、主導する、他の一切を導く道筋のような考えのパターン、生き方のパターンが皆さんの内にあると思います。何を結局選んで生きているか。それがどんな生き方を形成し、今の自分になっているか。人生を導く何かがある。もっと積極的に言えば、これを一番にしちょったら後は自ずと導かれるという、人生で一番大切にすべきもの。

例えば1600年程前の教会にアウグスティヌスという神学者がおって、こう言っています。愛しなさい、そして思うことをしなさい。愛という根っこから生じてくる思いは、いつでも善い。その通りだと思います。もし善くない思いが生じるのなら、それは根っこが愛でなく、愛のつもりだったのかもしれません。だから悪い思いを導いてしまった。

では私たちは人生の根っこに、何を実際に置いているのか。私たちの人生の地面の下に隠されて見えない部分。けれどもそこから人生の実がなる大切な首根っこ。私たちの人生の首根っこを守るのは何か。それが救いの兜です。ちょっとややこしかったかもしれませんが、要するに、人生を導く一番大切な、急所を守る救いの兜を、意識的に身に着けることで、人生を守るのです。アウグスティヌス風に御言葉を言い直せば、救いを一番にしなさい、そして思うことをしなさい。救いの根っこから生じる思いは、神様と同じゴールを見ていますから、自ずと御心に沿う思いが生じます。だからまず、何をするにせよ、救いを一番にする。

大事なのは、救いを兜、ヘルメットとして身に着けること。すね当てじゃない。肩当てでもない。急所を守るヘルメット。ヘルメットがどれだけ大切か。オートバイ乗りが唯一着用を義務付けられている防御用具がヘルメットです。もしこの急所をやられたら、人生全体を失う急所中の急所を、だから救いのヘルメットによって守れと言われる。

イエス様の言葉を思い出します。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。(マルコ8:36f)もし全世界つまり欲しいもの全てを手に入れて、あるいは満足して死にさえしても、死後の裁きで、滅びの宣告、死後の命の損失を神様から告げられるなら、どうして私は救いを手に入れなかったのか、手に入れたもの全部なくってもいいから救われたいと悔やむほど、すべて損失になるとおっしゃった。それほどまでに私たちは、救われなければならないとおっしゃって、その私たちを救うために犠牲となってくださったイエス様が、これが一番大切だ、救いを一番にしなさいと言われるのです。

改めて聖書の教える救いのおさらいをします。救いとは何かから解放されるという意味です。では何から解放され救われるのか。おもに二つあります。今言いましたように、私たちが犯してきた罪ゆえの裁きから救われなければならない。そしてその裁きを引き起こす罪が、現在既に引き起こしている汚れ、悪、汚染から、救い出されなければならない。この二つです。それらを簡単に、赦しと清めと言い直し区別することもできます。区別はできますが、赦しも清めも、私たちを救おうとされる三位一体の神様の愛であり熱情です。なら別にそこまで大切にせんでもと思う時には、ヘルメットのひもは緩んでいます。もしそう思うなら、改めて、私には赦しと清めが必要です!とヘルメットをかぶり直すことが、とても大切です。それを聖書は、悔い改めと呼ぶのです。

ただし、悔い改めないで、ヘルメットをかぶってないと、救いを失うから救いの兜をかぶれと言っているのではありません。それは間違ってはなりません。ヘルメットをかぶるのは、そうやって救いを人間の力によるものだと嘘をつく悪魔の策略と闘うために必要な武具だからです。救われるための条件ではない。それは再確認させて頂きます。裁きからの救いも、汚れからの救いも、キリストを救い主として受け入れたら100%保証済みです。キリストが100%の保証だからです。実際には将来、裁きの座また復活の時に体験する、赦しの宣言と罪からの解放ですが、保証は既に100%です。100%の救い主、イエス・キリストの故にです。

そのキリストを信頼しているから、そのキリストによって救われたのだから、救いのヘルメットを安心してかぶって、救いらあ後回しでえいわえという思いと闘えます。悪魔の誘惑、世の誘惑、そして自分の内にある罪の思いと闘えるのです。そのためのヘルメットであるからです。私には救いが必要ですと。そのために主が私の救い主となって下さったから、そら全世界を手に入れたいなんて思わなくても、でも欲しいものを手に入れることが、救いより大切なんて人生にならんように、私には救い主がいて下さる。だから救い主の御名によって、憐れんで下さい、助けて下さい、そして私の故に人が救われなくなるのでなく、私を憐れみ、聖め用いて、愛する者たちをお救い下さいと、救いの兜をかぶって祈れるのです。祈るでしょう。伝道することさえできるのです。何をするにせよ考えるにせよ、愛する者の救いのためにそれをするし、お金を遣うし、時間を捧げるのは、どうしてか。救いがどうしても必要だからです。だから神様が、わたしが十字架で死に、全ての裁きを引き受けてしまうと100%の救いを差し出された。その神様のお気持ちが迫るからです。その名を愛と呼ばれる十字架の神様への信頼の絆を通して、その愛が迫ってくるから、何をしても誰を見ても、そこに神様が救いを差し出され、救いを求めておられると知るから、救いを一番にするのです。

それはまた御霊の剣、御言葉から伝わってくる思いでもありますが、詳しくは次週説き明かします。この神様の救いの熱情を、そのまま放っておかないのです。むしろ神様のお気持ちに応えて、私も救いを一番にしますと、神様の前に告白する。それが神様を救いの神様と信じる信仰告白でもありますし、愛の告白と言っても良いのです。神様が私たちの救いを求められ、その神様の愛を私もまた求めています、神様を大切にしたいのですと告白する。愛とは大切にすることだからです。

ザビエルたちがキリストの救いを日本に伝えた時、愛を神様の御大切と訳しました。まさしくキリシタンたちはこの愛を大切にし、殉教の時も、パライソ(パラダイス、天国)、パライソと言って天の父を仰いだと言われます。何を大切にしているか。具体的に現れた一例です。

救いのヘルメットを日々身に着ける。それは言うなれば戦国武将の兜のように、自分が何を大切にしているかの、宣言であるとも言えます。十字架を掲げた兜です。この十字架で私は赦され、神様の子供とされて救われましたと、赦された生活をする兜です。裁きと汚れからの救いを下さった神様を大切にして歩む。救いを一番に歩むところで、十字架の救い主は生きておられると、救い主の生きた証がなされるのです。