14/3/2朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章10-11節、イザヤ書35章3-4節 「力を捨てて強くなる」

14/3/2朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章10-11節、イザヤ書35章3-4節

「力を捨てて強くなる」

 

最後にと、エフェソの信徒への手紙が、いよいよ大詰めを迎えます。調べてみますと2012年6月から、途中クリスマスも挟みながらですが、2年近く、ここから御言葉を聴き続けました。しかも「教会を建てる」というテーマで聴き続けて、いよいよ大詰め。後2カ月ぐらいで終わるでしょうか(笑)。これまで特に手紙の後半部分は、かなり具体的で生々しい、キリスト者としての歩みが語られてきました。つまりキリストの体の一肢として、教会を建て上げる教会員として、どう具体的に歩むのが主の御心であるか。家庭での歩みから、上下の人間関係に至るまで、これが御心ですと語られてきまして、最後にと言わば念押しされます。どういう念押しかというと、教会を建てるこの歩みは、けんど、自力ではできんきね、神様の力じゃないとできんきねと、念を押す。

今までは、おもに教会の設計図や、大工仕事の段取り、チームとしての心構え、態度などが語られたのに対して、よし、じゃあ実際に教会を建てるにあたって、最後に言うぜよと、言わば大工である私たちに向かって、現場監督が言うのです。みんな、倒れんように!しっかり立ってないと教会を建てることもできんき、しっかり立ちなさい。その為にはヘルメットや安全靴は必ず着用のこと。何でか。実は教会建築を邪魔する敵がおって、火の矢が飛んできたりするきに、安全防具と、もちろん工具を、しっかり身に着けて各自仕事にあたりなさい、さあ行こうと。これはものすごく実践的です。教会をキリストの体として建てるには、知識や人間関係スキルだけでなく、主の力によって立ってなかったら、主の御体を建てるどころか、倒されてしまうと言うのです。

教会を建て上げんようにする悪魔の策略には、例えば、今まで聴いてきました、教会を教会として建てるには、こうだという御言葉を、知識としては聞いたけど、でもそれが私にはできんがよ、と思わせる策略も含まれます。だからこそ、えいかえ、それが悪魔の策略、作戦で、人間の力では確かにできんけど、それは当たり前ながやき。できると思うのが間違いで、それは思いあがりであり策略で、主の前に襟を正してないだけじゃきに、それはかまん。悔い改めて、主の前に襟を正し直して、改めて主の偉大な力のもと、御言葉に立ちなさい。恵みに立ちなさい。そしたらできると、今日の御言葉は励ますのです。

主の御言葉の、しかもプライドとか愛着とかお金とかが関わってくる生々しい生活の部分で、御言葉に従うことができる・できんの問題は、おそらく全てのキリスト者が体験する問題です。そこで結構多い、牧師でも結構陥ってしまって耳にする解決策は、皆できんのが当然で、でもその罪は赦されているから、できなくてよいのだ、赦しを信じればそれでよいのだと、そこで終わってしまう解決策です。う~ん、半分正しいという感じですが、それも典型的な策略でしょう。赦しがあるのは無論ですし、声を張り上げてアーメン!と言いますが、十字架だけの福音は半分の福音です。復活の福音が、その後に続かないけません。復活を語らなくても救いを語り得ると考えるのは典型的です。残念ですが多くの教会がこの故に立つことができんなって倒れる現実があればこそ、最後に敢えて、念押しをしなければならなかったのかもしれません。教会は立つ。でも何によって立つか。自分の力では立てん。それはわかっちゅう。でもあきらめない。立つ努力をやめない。でも自力じゃない。ならどうやって立つか。だから10節、主に依り頼み、その偉大な力によって強くされよ。しかも悪魔が自分の力を信じろ、自分だ自分だと、そして自分ができんかったら、ほら自分は情けないと、やっぱり自分蟻地獄、そんな悪魔の策略に対抗し、抗い、その手には乗らん!と対抗して立つことができるように神の武具を身に着けなさい。これを身に着けたら、ありのままの裸の自分なんかではもうありえないし、ありのままらあでおらんでよくなるのです。しかもキリストの体の一肢として、そもそもキリストに結ばれちゅうのですから、倒れて茎が折れ曲がり行き渡らんなっていたキリストの愛が、立つと行き渡って、その愛のお姿に徐々に造り変えられて、キリストの証人として用いられていく。それが悪魔の策略に対して言うなら、神様の伝道戦略または方策です。聖書の教え、教理の言葉では、聖書の聖に変化の化で聖化と呼ばれる救いのプロセスですが、それが即ち人々を救う、伝道のプロセスでもあるのです。これについては、また第三主日に説き明かします。

改めて、では、主に依り頼み、その偉大な力によって強くなるとは、具体的にはどういうことでしょうか。これが具体的にわからんと、結局自分にはできません、依り頼むことができてないから立てんがですと、やはり自分に注意が向く自分蟻地獄パターンに陥りやすい。

偉大な力。これは1章19節に出てきた表現で、そこでも神の力としか訳し得ませんでしたが、直訳は神様の力強い威力とか、全能の力とか、文語訳は「その大能の勢いによって」と訳しました。1章19節を改めて見て欲しいのですが、19節以下「…」。これが自力でない神様の力です。誤解されやすいかもしれませんが、キリストも父なる神様に復活させて頂かなかったら死んだままだったほど無力な人となられ、そこまで私たちと同じ、完全な身代わりにして代表となられたキリストを、父がその大能の勢いによって死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせられた、この力!キリストを復活させられた大能の力によって強くなりなさい!この復活の力は全く自力ではありません。直訳も「強くされなさい」で受身です。全く自力ではない。主に依り頼んでと訳されたのも、直訳は、主にあって、あるいは主によって。それだけです。依り頼んでと言うと、依り頼む力は自力だと誤解するかもしれません。依り頼むと訳すのなら、「主に依存して」と訳したらどうでしょう。自分の思いや欲望に依存せず、それは捨てて、御言葉の主に依存する。それが主に依存し、主にあって強くされるための唯一の立ち位置です。

続いて力がいります。自分を捨てるには自分の力じゃ無理です。自分を守り、自分を選ぼうとしますから、自分の力は。そこで主に襟を正して、あるいは正したくない、自分を捨てられん、でも主を捨てることは当然できなくて主の御前、コラム・デオで苦しむ信仰の闘いを、知らんキリスト者はおらんと思います。そこで改めてロマ書7章の真理を身に着けるのがよいでしょう。自分を捨てるとはどういう真理か。283頁。15節以下「…」。ここでキリストに感謝するのは、この自分をキリストが抱きかかえ十字架に一緒につけて諸共に死んで、こう言って下さるからです。自分で死なせられない罪であり悪である自分を、もはやあなた自身だと思わなくてよい。それは十字架でもう死んだのに、尚あなたを支配しようと突き動かすあなたの内にある罪の法則だから。あなたは、これは主にある私じゃないと。主にある内なる人であるあなたは、その悪に倒されることがないよう、悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着け、しっかり主に立てと言われる。問題は、自分ができるかできんかではない。そもそも自分とは誰かという真理の武具を身に着けて、悪魔の策略に対抗して、もはや私ではない罪の法則を冷徹に退け、主に立つこと。4章ではそれを古い人を脱ぎ捨て新しい人を身に着けることだと言いました。そして新しい人は立つ。その為に教会に与えられた真理を身にまとい、悪魔の矢を嘘やと跳ね返し、主に襟を正して赦しを感謝し、謙遜に立ち続けたら私たちの勝ちです。勝ちは神様が下さいます。証がなされ、人が救われる。そこに復活の主の体なる教会の勝利、神様の救いの勝利があるのです。

イメージとしては、戦場で、矢が飛んでくる、武具がなかったら、鎧がなかったら、逃げるしかない でも鎧があったら、しかも、この鎧があったら絶対に矢が貫通しないし…これは力強い、心強い、このイメージは大事です。皆さんはキリスト者の生活をどうイメージされているでしょうか。神様が望まれるイメージは、あるいは、このイメージを持って、聖書の真理に従えば、あなたは、あなたを倒そうと策略がひしめき合う戦場の只中で、しかし立つことができる、だから、会の武具を身につけなさい、しかも鎧うべし、完全に身を覆う鎧です。