14/2/23朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章5-9節、申命記10章17-22節 「キリスト者の職業倫理」

14/2/23朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章5-9節、申命記10章17-22節

「キリスト者の職業倫理」

 

説教題に、キリスト者の職業倫理と、少し大風呂敷を拡げたろうかと案じるところもありますが、倫理全般がガタガタになっている今の日本で、このテーマを御言葉から聴くことには大きな意味があると思っています。職業いうても色々ありますが、そのどれにも当てはまる倫理問題としては、例えば相手を騙さない、相手の人格を軽く扱わないなどが、すぐにあげられるでしょう。職業倫理いうても、現場で問題が生じたときに、これは問題だと感じるのは、ごく普通の利用者だったり、保護者だったり、あるいは共に働いている仲間として、え、これはまずいろうと、すぐわかる。わかるけど、上司だから言えなかったり、仲間だからかばって問題を隠ぺいしたり、問題が正しく取り扱われずに、なされるべき正しい善いことが握りつぶされてしまいやすい。そら、なんぼでもあると思います。問題だらけなんじゃないでしょうか。でも、それが、ついに白昼に正体をさらけ出し、ばれる。隠しておった当事者がそこで運悪くばれたとか思っておったら、ますます倫理問題として叩かれますが、近年は、だって皆やっているじゃないかと堂々と開き直る人も出て来て、ガタガタです。言うまでもなく政治を職業とする人も含めておりますが、力こそ正義という悪しき軍隊倫理に、この国はまたもや流され気づいたら戦前に取り戻されてしまうのかと危惧いたします。どうして隠したり、開き直ったりして、人を騙して、人格を軽んじて、自己正当化してしまうのか。もう、おわかりかと思いますけど、これが職業に関して問題化するときに、職業倫理というだけで、本来の問題は、人間と社会の問題です。つまり人間と人間関係の問題。あるいは聖書の言葉で言うと、人間とこの世の問題です。神様を抜きにした人間と人間関係の問題とも言えます。その問題に対して、あるいはその問題のただ中で、キリスト者は、どう立つのか。自分は関係ないとはまさか言えません。ここで問題とされるのは、人格を持つ相手との人間関係であり、それに対する自分の姿勢です。また自分の正直さや誠実さに対する自分自身の倫理感覚。こうした一人の人間としての問題が、職業という場面で悪い華を咲かせたとき、職業倫理として扱われる。

ならそこで、キリスト者はどこに立つのか。いや、今日の御言葉が語りますのは「あなたがたも知っているとおり」という説得です。どこに立っているかは、知っているはずだと言うのです。二回も繰り返されます。まず8節で「あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。」続いて主人たちに対して「あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」二つ合わせて言い換えれば、こうです。天では、全ての倫理問題が常にさらけ出されており、主はその一つ一つに対して正しく公平な裁きをなさることを、あなたがたは知っているはずだ。あなたがたが誰かに対して行うこと、また思うことは、その人に対して思い行っているだけの、この世のことだけではないことを、あなたがたは知っているはずだ。それは天におられるあなたがたの主の前で、あなたがたが思うのであり、また行っていることを、あなたがたは知っている。だから、恐れ戦き、真心を込めて、主に対してなすように、相手に仕えなさい。

先週申しました言葉で言うと、コラム・デオ。ラテン語で神様の御前でという意味ですが、コラム・デオが全ての倫理問題の倫理基準です。人を騙したり隠ぺいしたり、自分をも騙して自己正当化する愚かさを、捨てられるようになるのは、コラム・デオ、神様の御前に立つ時です。今、立たなくても、やがて立つようになります。全てさらけ出されて、どこにも隠れようがない、天の神様の前で審判がなされることを、今、知っている者として、今、恐れ戦いて、真心から人に向き合うときに、天の倫理基準が満たされます。そして御心の天になる如く、地でも御心がなされます。それが教会生活、コラム・デオの生活です。

ところで、恐れ戦いて、という言葉は、誤解を招きやすいかもしれんので、改めて説明しますと、聖なる神様に向き合うときの態度、神様の御前にひれ伏して畏れ敬うコラム・デオの態度を、恐れ戦いてと言います。ので、人間に対してではありません。人間でも怖い人にはビクビクしたり、胃が痛くなったりしますが、その怖い人も神様に裁かれます。私?(笑)。おそらくその人が怖い人だと思われてビクビクされる原因であろう、人を脅すような強権的態度の故に、その人は神様から相応しい裁きと報いを受けるでしょう。脅すのはやめなさい、と今日の御言葉が命じる所以です。脅す人は報いを受けます。人の上に立つ立場の者たちに対し、強調して語られる御言葉です。脅すのはやめなさい。むしろ、誰かを脅してでも、自分の思い通りにさせたいとき、そこで神様の前に立ち、恐れ戦いて、その人に向き合います。9節で、「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい」と命じられているのはそのことです。5節で、奴隷たちに言われていたことを、そのまま、あなたがたにも命じると、同じようにしなさいと言われます。同じように恐れ戦いて、真心から、下の立場の人々に向き合うことで、そこで天の主の前に立つ。そこには上の立場も下の立場も、何の違いもありません。同じ主が天におられ、同じ基準で裁きをなさる、その前に全員が立ちます。今、改めて知っているとおり、どんな立場の者であっても、善いことを行えば、誰でも主から報いを受けて、悪もまたその報いを受けます。

ただその報いが、すぐになされることもありますが、なされないまま天の裁き、世の終わりにまで持ちこされる場合も、いや、むしろそっちの方が多くある。その場合、どちらの立場にあろうとも、自分も図に乗って無分別に、この世のことだけで考えて行いがちです。が、幸いにも自分としてはコラム・デオの態度で主の前に立ち、恐れ戦いて真心から相手に向き合っておるのだけれど、相手はそうでない場合もあります。更には、こちらが主の前で相手の人格を尊び、謙遜に身を低くして向き合っているが故にか、相手が図に乗って、自分を押し通そうとするときも起こり得ます。じゃあそのときに脅してはならないとは、相手の言い成りになれと言うことか。そうではありません。謙遜は尽くしますが、そこで主の前に立ち、相手に仕えるというのは、そこで相手もまた主の前に悔い改めることを求めて最善を尽くすということでしょう。無論、悔い改めを強制することはできません。自分事として考えればすぐわかります。頑なになっちゅうときは、人の言うことなど聴きたくないですから、その場で決着をつけいで良いなら、時間を置くのも愛による知恵でしょう。イラレな人は大変ですが(笑)、そこでこそ!コラム・デオが問われますし、イエス様がどんなに私たちのことを忍耐し、こらえて下さっておるかが、心の苦しみと共にわかってくると思います。まっこと愛は忍耐強いと聖書が語る主の御前に、恐れ戦く他はありません。またコラム・デオの知恵は忍耐と同時に、今日の御言葉自体がそうであるように、罪の裁きを教えることも含みます。無論、すぐに裁きを持ち出すのは、忍耐がない証拠ですから、そこでこそ、自分が主の前に恐れ戦いているかが、戒めを語る条件になります。そのことはおろそかにされてはなりませんけど、恐れ戦くコラム・デオの態度は、相手が今陥ろうとしている恐ろしい裁きをこそ、恐れ戦いて知っているので、それが動機にもなるのです。報いがあることを知っているから、悪は裁かれることを思い起こさせる努力を真心から行う。それもまた御言葉に基づく愛の知恵です。

天におられる主に心を向けさせる。それが容易でないことは皆さんも重々承知でしょう。心を天に向けるのが容易であるなら、教会は伝道でこんなに苦労せんのでしょうけど、そこに教会の苦労のしどころが明確になりもするのです。私たちは人を自分の思い通りにしようなどと努力しません。また自分自身、自分の思いの奴隷にならなくてよいのです。この世での自分のこだわりなんて、どうでもよいことを知っています。知っているのに、自分のこだわりに、まるで奴隷のように、支配されてしまうことも、また知っています。そして、このことを知っています。この世のこだわりや、自分のこだわりの奴隷状態から、人が解放されるのは、十字架にご自分をこの世ごと打ちつけ、裁き滅ぼしてしまわれたキリストの恵みしかないことを、です。キリストが、だから、わたしに従いなさいと、人を召されるキリストの召しに、はいと悔い改めて従う以外には、人は自分のこだわりの奴隷であることを、教会が自分事として知っておればこそ、私たちは自分たちの立ち所を、キリストの御前に定めるのです。そして天におられ、私たちのため絶えず執り成し続けておられる、偉大な大祭司にして主であるキリストの御前に立ち、礼拝のときだけでなく、礼拝から遣わされた先の人々の前でも、恐れ戦き真心を込めて、人間関係に生きる、これを私たちの苦労とするのです。

人間関係それ自体、苦労が多く悩みが尽きません。何でこの人はこんなこだわりの奴隷になっているのかと思うところで、その人を唯一その奴隷状態から救い出すことのお出来になるキリストの御前で、襟を正して恐れ戦き、御前でその人に仕えるのです。それが私たちの苦労のしどころであると心を定めてしまうのです。人間関係の前に、キリストとの関係。主との関係。これを第一とするところ、神の国とその義を第一に求め、飢え渇くところに、主は報いを与えて下さいます。伝道の実りもそのところでこそ、実りを結ぶのだと信じてよい。人間関係を意識するところでは、どうもその人に報いを求めてしまいます。私はこんなにも仕えているのにと。その苦労する人間関係において、しかし、その関係の苦労の中で天を仰ぎ、その人の主であり、私の主である、キリストに恐れ戦いて向き合うところで、主から報いを求めるのです。主は、わたしが報いると言われます。妙な言い方かもしれませんが、その人間関係に、こだわらなくてもよいのです。その関係に私たちを召された、主に一番にこだわって、主に恐れ戦き真心を込めて、キリストの僕として、その人に仕えるところで、苦労の報いが与えられます。キリストが報いて下さいます。その日を信じる誠実な僕として生きればよいのです。