13/12/22クリスマス主日礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書2章1-7節、イザヤ書53章 「王らしくない生まれ方」

13/12/22クリスマス主日礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書2章1-7節、イザヤ書53章

「王らしくない生まれ方」

 

クリスマスのイメージというと、私は今読みました御言葉、飼い葉桶に寝ているイエス様を中心とした風景が、一番安心できるクリスマスのイメージです。飼い葉桶のイエス様の横では母マリアとヨセフが身を寄せ合っているのでしょうか。あるいは見知らぬ地での初めての出産で心身共に疲れたマリアは横になっているのか。はたして身を横たえる場所があったのか。よく馬小屋と言われますが、御言葉に馬小屋とは描いていません。生まれたばかりの子を飼い葉桶に寝かせるなんて何でそんな仕打ちをという説明に、宿には場所がなかったからと言うのですから、牛小屋だったかロバ小屋だったか、いずれにせよ家畜のおる場所です。干草があれば少しは楽だったかもしれませんが、あったんでしょうか。色々なかったに違いないのです。これは絶対に必要と思えるものさえ、なかったのだろうと思います。ただ一つの必要を除いてです。イエス様が大きくなってから、こうおっしゃったことがあります。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。同じルカによる福音書の10章が伝える救い主の御言葉です。必要なことは、ただ一つだけ。これがあったら、干草はなくても平安になれるのです。隣りか離れの宿屋ではお客さんたちが飲んだり食べたりワイワイしておって、こっちはそれどころじゃないのにと惨めに思うことがあって尚、この一つの必要が満ちておったら、そこで慰めを受けるのです。惨めな状況は変わらなくても、我が身に与えられたたった一つの状況の故に、心に静かな平安の火がそっと灯っている。私はそういうクリスマスを思うのです。色々思い通りではないのだけれど必要が満たされたクリスマス。それが飼い葉桶に救い主がいる風景です。そこにはこうしたキャンドルもなければ、玄関のツリーもないけれど、でもここにイエス様がおられて、人となられた神様がもう共におられて、私たちの救い主が来てくださった!と、この必要を満たしに来られたイエス様を中心に置く時、ヨセフも、マリアも、良かった、本当に良かったって安心できたと思うのです。

日本ではクリスマスってどんなイメージで思われているのでしょう。華やいだお祝いのイメージも間違いではないと思います。イエス様が私の救い主として来て下さった!という喜びは、大いに喜んだら良いと思いますし、讃美歌でも「もろびとこぞりて」とか、こりゃあもう盛大にお祝いしましょうという歌も少なくありません。逆に先に歌った107番を、暗…これがクリスマス?って思う方もおられるでしょう。どちらもクリスマスに相応しいのですけど、それは両方とも飼い葉桶のイエス様に相応しいからです。飼い葉桶のイエス様を見ておったらよいのです。飼い葉桶のイエス様を見て、どういう心になるかは、その人の性格にもよるでしょうし、その人が今置かれている状況にもよるかと思います。色んな状況の人々を思いながら賛美されると良いと思います。この人にも、あの人のためにもイエス様が来て下さった。飼い葉桶のイエス様の横に、そうやって皆が身を置けます。あるいは、まだ宿屋にいるお客さんたちもおられる。そのお客さんたちのためにもイエス様が飼い葉桶に来て下さっているんだけれども、皆は知らない。でも確かにイエス様が来て下さって、飼い葉桶を中心にしたクリスマスの風景には、そのお客さんたちの姿も描き得る。イエス様はこの人のためにも来て下さった。このクリスマスのイメージが、聖書の告げるクリスマスです。

じゃあ救い主は何のために来て下さったのか、誰のために来て下さったのかを改めて心に留めるために、今日はイエス様が来られる何百年も前に預言されたイザヤ書53章の預言を共に聴きました。クリスマスは、ここに向かって実現したという預言です。飼い葉桶に生まれた救い主が十字架につけられて死なれた。それは、私たちの咎、つまり罪の責任を負うためであったと告げる預言です。そこで改めて飼い葉桶を中心とした風景を描いたらよいのです。宿屋のお客さんたち、更にもっと遠くにまで風景が広がっていって、あらゆる時代を貫いて、世界の人々がそこに描かれ、そこに私たちもまた登場していて、その中心に、飼い葉桶のイエス様が生まれて下さって、その小さな両手には、私たちの罪がもう握りしめられていた。私たちを救う平和の王としての両手に、です。

12月に入って聴いてきた別のイザヤの預言に、イエス様は平和の君、平和の王と呼ばれるという御言葉がありました。平和をもたらしに来られたその平和の王が、なのにその世から無視されるようにして生まれてこられた。また死ぬときも、まさしく世から排除される目的で十字架につけられ、預言で言えば、軽蔑され見捨てられ無視されて、命を取られる。それにはしかし、神様の目的がありました。それを預言はこう告げます。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」神様は人を羊に譬えられます。羊はそれぞれの方角に行く。自分の思い通りの道にということです。羊飼いが必要な所以ですが、それでも自分の思い通りに道を行きたくて、で、皆そう思っているもんだから互いに思いが衝突するときが当然ある。マリアとヨセフもあったでしょう。イエス様に対してもあったのです。マリアがイエス様に、どうしてそんなことをしたのかと叱った場面もあります。思いがぶつかったらどうするか。人は、自分の思いを通したくて相手に勝とうとしてしまう。平和が壊れ、人間関係を失う。神様との関係もです。私たちはどうでしょうか。その人間のために王が生まれたというのがクリスマスです。王によって導かれ、羊たちが平和の道を歩めるようになるためにです。

ところがこの王が、羊たちにとって自分たちの思い通りにならないというので殺されてしまう。しかも無抵抗で。じゃあ、この王は、自分の思いはないのか。あるのです。強い思いがあるのです。その思いとぶつかるから、今も人に拒絶されるのが十字架の王だとも言えるでしょう。

ならどんな思いをもって、この王は来られたのか。生まれる時からして思い通りにならない王が、です。この王が生まれる時、丁度ローマ国王の命令によって一斉に住民登録がなされます。徴兵可能な男性を数え税金で軍費を予算化し、戦争で領土を拡大する。王が自分の思いを通すため行う国家戦略です。今も世界中でやっている王の業です。王になれば思い通りに出来る。あるいは国王にならなくとも、人は自分の人生の王になりたいということもあるでしょう。指図されたくないと言えばわかりよいでしょうか。やられたら倍返しというのも、私を支配するのはお前じゃないということでしょう。そうやって、この世は王である羊たちで溢れます。羊だけに、めいめい自分の思い通りの道を行こうとするところで、人とぶつかり、負けたくなくて、勝とうとして、神様の愛も栄光も失って、罪の力勝負に負け支配された羊たちに平和の王が生まれた。その王は、わたしはあなたに勝とうとしない、負けることもない、その勝負自体を無効にする、その罪そのものをこの手で握りつぶすと、飼い葉桶に生まれてきてくださったのです。神様は私たちのやり方でなさらんのです。力勝負でなさらんのです。なさらんのに、私たちが本当に望んでいる道は、むしろここにあるでしょうと、神様は私たちの永遠の必要が満たされた風景の中へと、飼い葉桶の王のもとへと、私たちを描き込み入れてしまわれるのです。

その新しい道、私たちの人生に突入してきた神様の平和の道は、この飼い葉桶の王のもとから始まります。今朝皆さんも、色々と思い通りにならない悲しみを抱きながら、ここにおられるかもしれません。でも、これがクリスマスのメッセージです。本当に必要なことは満たされたのです。私たちが救われるために、私たちの罪の責任を全部引き受けて、裁かれ死なれて、私たちの身代わりになられた永遠の御子なる神様が、私たちの王となられて、もう来られたからです。

王がそうやって来て下さった恵みの場所に、実際に我が身を置いて、飼い葉桶のキリストのもとに自分を描き込むのが、この礼拝だと言っても良いのです。キリストのすぐ側にまで行くのです。マリアとヨセフの仲間になって、お客さんではなくなるのです。ここは宿屋ではないことも確かでしょう。でもそこでは生きられないと思うのも、あるいは礼拝はここで行うにせよ、生活は宿屋に戻ってという考えも、わからないではありません。教会が厩(うまや)なら、私はいぶせき厩の二階に住みゆうのかもしれませんが、見える場所が場所ではありません。また何よりも大切なのは、キリストは、もう来られたのです。そのキリストのもとから毎日を歩み直して生きられるようにと、毎日、王と一緒に歩める道を、たずさえて来られた王なのです。そこに平和の道があります。どうぞ、この王のもとに来て下さい。クリスマスは過ぎてもキリストは私たちといつも共におられます。私たちの王のもとには、いつでも私たちのための、救いの場所があるのです。