12/11/11朝幼児祝福礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章18-19節、詩編90篇16-17節 「人は愛により成長する」

12/11/11朝幼児祝福礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章18-19節、詩編90篇16-17節

「人は愛により成長する」

 

今共に幼子たちを祝福しました。誰かを祝福するのは、嬉しいものです。祝福は特に宗教に限定されたことではありませんで、おめでとうと言うことであり、共に喜ぶということです。ただ、そうした喜びが共にありますようにと願うとき、やはり神様に祈ります。人の力でどうしようもないことについては、神様に祈るほかありません。健やかに生きるのが簡単でないことは、大人にならなくてもわかることだと思います。子供であっても、生きづらさを抱えているものです。どうしてこんなことになるのかと、ときには誰かをつかまえて問い詰めたいことだってあるでしょう。そういう時、じゃあ大人はどうするか。逃げないことだと思います。今忙しいと言わないで、あるいは本当に忙しいときは、時間を決めて、そのときに答えることを約束する。そして一緒に問題に向き合うところには、愛の祝福があるでしょう。

ときには答えられない問題もあります。あるいは今朝の御言葉にあるように、知識を超える質問をされるかもしれません。最近ある牧師が、信徒の問いに答えられなくて自信をなくしたと言っているのを聞いて、そういうときは、答えられなくても、誠実に接したら良いのではないかと言うたのですが、後で、じゃあ私は誠実に答えてきただろうかと反省しました。自分は誠実だったと誰が決めれるのでしょうか。自分の誠実さを人は自分では決められません。でも誠実でなかったら、人を祝福することはできない。このジレンマに対する答えも、容易に答えうるものではないでしょう。そこでこそ、人知を超えて、すべてをご存じの神様の前に、私たちの心の奥底までご存じである主の、愛の前に進み出るほかありません。そして私たちには、この神様がおられると知るのです。私には私のために十字架に架かられて、罪を赦して下さった主がおられる。その愛を改めて知るところで、神様の祝福を求めて祈れるのです。主よ、人への祝福に生きる者に私を造り変えて下さいと祈れる。それがまた、私たちの愛する人々にとって、どんなに祝福に満ちたことかとも思うのです。

答えられない問いはあります。苦しみの意味を知りたいという問いがそれです。そしてその問いにどう答えるかで、愛が問われるとも言えるのです。どうして、こんな苦しみを負わなければならないのかとの問いを、問うたことのない人はおらんのではないかと思います。そして、その問いに安易に答えてしまうとき、心を傷つけてしまいます。自分には愛が欠けているということが、そのとき逆に問われもします。旧約聖書に登場する、ヨブという人の友人たちがそうでした。想像を絶する苦しみを受けたヨブを、慰めに来たはずの友人たちが、簡単に答えを出してしまって、しかもヨブを責めるような答えを出してしまって、ますますヨブを苦しめるのです。私は子供に、そういう答え方をしてないかと、改めて問われました。最近出版された本の書評に、まさしくその問題が論じられているのを読んで、人間の知識について考えさせられました。書評を書いた人は、東日本大震災を体験した牧師です。彼は、私たちはこの震災を体験した後で、どうヨブの問題に答えられるのかと問うて、こう語るのです。「私たちにとっての慰めは茫然自失のまま灰の中に坐し続けたヨブの沈黙と、堰を切ったように吐き出される彼の叫びと訴えであって、苦難の意味を説明することでもハッピーエンドを語ることでもない」と。ハッピーエンドと言うのは、ヨブ記の最後が言わばハッピーエンドだったことから、ヨブの最後もハッピーエンドだったから大丈夫だよと、容易に人を慰めようとしてしまいやすい誘惑を警告しているのでしょう。おそらく、安易に慰めようとするのではなく、ヨブの沈黙と訴えが主に受け止められていることが、私たちにとっての慰めなのだと言おうとしているのだと思います。いつまでたっても慰められず、心の悲しみがおさまらず、主に訴えずにはおれない苦しみを、主は責められはせんのだと、あるいは答えを得ることが、答えではないということを言いたいのかもしれません。

ヨブも結局は主に、どうしてですかと問い続け、向き合い続けるそのところでのみ、苦難から回復されて行くのです。答えはわからずじまいです。むしろ神様から示されたのは、人間の知識の限界でした。人間に苦難の意味は分からんというのが、ヨブ記の答えだとも言えるのです。

その意味でも、でしょう。イエス様は、人を罪人だと決めてはならない、むしろ赦しなさいと言われました。イエス様ご自身、そうなさいました。ご自分に敵対する者のために、父よ、彼らを赦して下さい、自分で何をしゆうがか、わからんがですと、赦しを祈って下さいました。

わからんというのは、わからんのです。頑固者で、わからず屋という裁きの言葉を言われたのでなく、だから憐れんでくださいと言われたのです。もしも彼らがわかったら、あなたの愛がわかったら、きっと愛に答えて生きれるはずです。けれども神様がわからんのです。あなたの愛がわからんのですと、憐れみを訴えられたのです。それがキリストの愛の深さです。私たちの罪の身代わりに、十字架で死んで裁きを受けるため、人となられた神様の、愛の高さであり、深さです。その命はすべての人の身代わりである故、その愛は限りなく広いのです。そしてその愛は待ち続けます。きっとわかってくれるはずですと、待って、祈って、信じ続ける。そんなにも長い愛であればこそ、人はすぐには救われません。神様、おかしいがやないですかと、どうして救われんがですかと、祈っても疑ってしまうほど、神様の愛はわからんのです。人知を超えているのです。ならその人知を超えた神様の愛を、十字架のキリストの愛の何たるかを、知ることができますようにと祈るのです。この愛をもし知ったなら、私たちの愛もまた変わるからです。短く、冷めやすい愛の長さが、少しずつ長くなるのです。この人は愛せんと思っていた人を、愛せるようになるのです。これもあるいはハッピーエンドに似たような話に聞こえるかもしれません。だからキリストを信じなさいと、ご利益に聞こえるかもしれません。もし、もしもそう訴えて、この愛がわかるなら、そうでしょう。でも説教者の開き直りに聞こえるかもしれませんけど、この愛は人知を超えているのです。人の知識ではわからん愛が、十字架に付けられたキリストの愛だ、人となられた神様の愛だと聖書は大胆に告げるのです。なら、その愛を知ったとしたら、それはその人に神様が直接お働き下さったからです。神様が、あなたの心を変えられたからです。それ故に、ここでは祈るのです。人知を超えたキリストの愛を、知ることができるようにと祈る。それが教会の最初の祝福です。

私たちが、幼子たちへの祝福を、主の名によって祈り願ったのも、この愛の祝福を願うからです。自分の力では解決できない、人の知識ではわかりえない苦しみに遭うことがあったとしても、その苦難の意味がわからなくても、そこでその苦しみを一緒に負われる、救い主の愛を知ることができますように、そして答えは分からなくても、キリストの愛を知ることで、なお祝福に生きることができますようにと、神様の祝福を祈るのです。そして、誰かが苦しみに遭ったとき、安易に答えを出すのでなくて、簡単に慰めようとするのではなくて、まるでキリストがその人と、共におられるかの如くに、裁かない人になってほしい。たとえ苦難を共にしてでも、神様の愛がわからなくなっているその人に代わって、主に憐れみを乞い求め、主の愛の通り良き管となって、その人に神様が愛を注がれるための、祝福の管となってほしい。それが私たちの願いです。それが、私たち全員に主が願われる、愛の祝福であるのです。