12/11/4朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙3章18節、イザヤ書55章8-11節
「キリストの愛の深みへ」
今日はこの礼拝の中で、洗礼を受けられる兄弟がおられます。洗礼を受けて神の家族の一員としての毎日が始まります。私たち、新しく家族を迎える側からしても新しい毎日の始まりです。今までとは違います。家では家族が増えたその日から、昨日と違う毎日になるのです。だから洗礼は、本人だけのことにしない。それが、教会が洗礼を授けるということです。
そこで大切なのは、家族にとっての一番の急所、愛です。新しい家族の誕生と共に、改めて、私たちには今日も明日も愛が必要であることを心に刻みたいと願います。そこで受洗者と、家族全員と共有したい言葉があります。マザーテレサが、神の愛の宣教者会に入会したシスターたちに手渡した言葉です。入会した一人一人の手を実際にとって、その目を見つめ、こう言われた。Love Jesus, and follow Him.イエス様を愛しなさい、そして、お従いしなさい。マザーがどうやって、道端に捨てられて死にゆく人たちを愛し、仕えられたか。その答えがここにあると、私は16年前、感動してそのビデオを見ました。襟を正しました。そうだ、イエス様を愛し、お従いして行こうと。けれどその後の16年間を振り返るに、マザーの名前を出すのも恥ずかしい、愛の貧しさであったと思います。それでも何とかやってこれたのは、イエス様が私を愛して下さっているからだと、つくづく思います。大人になり、自分を知るにつれ、何と愛のない人間かと嫌になるのに、イエス様も愛のないのはお嫌いなはずなのに、その名を愛と呼ばれる方であるのに、イエス様は、幸生、だからこそわたしはあなたを愛し抜く、あなたにも愛の喜びを知ってもらいたい、あなたはわたしの子だからと、ただイエス様が愛して下さるから、愛の欠けた者が、なんとかやっていけます。このキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを、それが一体どれほどであるかを、私たちは理解してほしいと望まれています。自分のものにするという言葉です。鷲が上昇気流の何たるかを理解して、自分のものにして、空高く昇っていくことができるように、私たちはキリストの愛を理解します。そしてイエス様についていくことができる。この愛が、あなたに歩む力を与えると、イエス様ご自身が望まれているとも言える御言葉です。マザーが手渡した愛の秘訣も、ここにあるのだと思います。
愛に生きるという毎日は、自分の力では歩めません。イエス様の愛に生きる毎日なら、尚更です。敵を愛しなさいと言われるのです。敵ほどでなくても、例えば、感謝が全く見えなくって、要求ばっかりする人を愛して、あるいは口だけの感謝で、またすぐ要求ばかりして不満ばかり言われて…そんな時、私たちは愛する難しさを覚えます。え~い、何で私ばっかり!と憤慨せんでしょうか。神様は憤慨されんのでしょうか。難しさを覚えんのでしょうか。十字架で、全くご自分に身をまかせようとせず反り返って抗い暴れる罪人を身代わりに背負うのは、愛しているなら楽しいのでしょうか。キリストが十字架で涙を流されたとしたら、それは釘の痛み故ではなかったと思います。愛を理解しないで反り返る者を尚愛し、尚愛されない痛みを耐えつつ、ならばこそ愛し抜いて流す涙を、理解されずとも愛するけど理解されたいと願って流される涙を、聖書はキリストの愛の広さと呼んだのではないかと思うのです。私たちが罪を悔い改めたから愛されるのではなくて、罪のただ中にあって愛を理解せず、愛などいらないとさえ思っていた、その私たちを愛して罪を赦される愛をこそ理解するとき、私たちの信仰は変わります。ローマの信徒の手紙ではその愛をこう告げます。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
なら、洗礼を受けられる兄弟もほんのこないまでそうだったように、私たちも皆そうであったように、このキリストの愛を受け入れておられない全ての人々に私たちは両手を広げたいのです。この愛の広さに、ようこそと。洗礼は全ての人々に開かれていますと、キリストの愛の広さを伝えたいのです。この愛の広さは、全ての人に開かれているのです。その愛を私たちで勝手に閉じないように、教会は、イエス様、この愛の広さを理解させて下さいと祈るのです。
そしてそこには長さがあります。ズバリ、この御言葉を引用するのがわかりやすいと思います。愛の讃歌と呼ばれるコリントの信徒への手紙一の13章。愛は忍耐強い。愛は情け深い。…少し飛んで、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。この愛は長いのです。私たちを忍耐される愛を言うからです。これは長い。そしてありがたい。愛の毎日は自分の力では歩めんと言いましたが、歩めんのか、歩みたいとは思わなくなるのか、言わば挫折して、あきらめてしまうことが多いのではないかと思うのです。洗礼を受け、あるいはマザーテレサに憧れて、私も愛の人になろうと志し、よちよち歩き、七転び八起きで歩むのですけど、成長するにつれ理解するのは、理想は遠いという現実です。私は無理だと内向きになって、信仰の限界を現状で決めて、アヒルはアヒルでいいじゃないかと、みすずに慰めを覚えたり。私は若い頃、あ、最近もう若くないと本物の青年から気付かされたのですが、年を取れば忍耐が成長し、気が長くなると期待していたのですが、あれ?っと自分に裏切られたのに気付かされているのは、ひょっと私だけなのでしょうか。こんなはずではなかったとか思って、焦るか、あきらめてしまうのか。そんな私を、だけれどもキリストはあきらめることはないのです。長い愛で、何年、何十年かかっても、幸生、わたしに従いなさい、わたしは柔和で謙遜であるから、わたしに倣ってついてきなさいと、切れない愛で導いて下さる。また、その愛は冷めもしない。人の愛は冷めやすくても、高知県民は特に熱しやすく冷めやすいですけど、キリストの愛は、最初に私たちを見出した時から、決して冷めることはありません。永遠の愛をもってわたしはあなたを愛したと語られる神様です。予め熱しておいた予熱の熱量は永遠です。その愛で十字架に架かられたのです。主の愛は決して冷めない。それが私たちの救い、キリストです。
その高さを言うのです。人の冷めやすい、あきらめやすい、あるいはそれゆえにキレやすい愛ではありません。永遠の天から、その愛が人の救いとして十字架に降られ、永遠の高さから文字通り決死のダイビングを果敢になされて、わたしがあなたの罪を背負って、絶対にあなたの罪を赦して死ぬからと、飛び込んできて下さった。その高さです。絶対に死ぬ高さです。パラシュートなし、命綱なしで十字架に飛びこまれ、世の罪を全て貫いて陰府にまで降られて、完全な裁きと死を引き受けて、陰府の底にまで落ちていかれて、そこから世界を背負われました。その永遠の神様の愛の高さが、即ちその愛の深さです。この高さと深さの間にない人はおりません。この高さから飛び込んで来られたキリストの愛の深さが届かない罪と死はありません。どんな罪でも、どのような悲しい死であっても、キリストの愛の深さが届かない罪も死も一つもない。そして、そのキリストを、天の父は復活させられ、すべての人の希望とされました。このキリストに背負われて、人は復活をするのです。
洗礼は、そのキリストの死と復活と一つにされる恵みです。キリストに飛び込んでいくジャンプとも言えます。そのようにキリストに飛びつく幼子たちを、どんなに高く飛ぼうとしても、天には届かない小さな者たちを、キリストが背中におぶられて、天に引き挙げて下さるのです。キリストが救って下さいます。その愛に飛び込んでいくのです。