12/8/12朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章11-13節、出エジプト記24章3-8節 「こんなにも近い神様」

12/8/12朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章11-13節、出エジプト記24章3-8節

「こんなにも近い神様」

 

先週、礼拝説教をされました三橋神学生は、高校一年生のとき、習字教室に行っておって、それが教会でなされていたそうです。でも当時の三橋さんは、宗教なんてまっぴらごめん、キリストらあ一切関わりたくないと、のっけから、私は習字を習いに来たので、勧誘は一切しないで下さい、ピシャッ!と伝道お断りを宣言したと、祈祷会の証で言っておられました。が、お断りされた方、祈っておったんでしょうね。恵みが誤解や偏見に優しく勝利した、美しい証だと思います。

だから、と御言葉は私たちに告げます。だから、心に留めておきなさいと。あなたたがたは以前、こうだったのに、今はキリスト・イエスにおいて、あるいはキリストの内側で、キリストの血によって近い者となった。そのことは決して忘れたらいかん。よく覚えちょきなさいというのです。キリストの内側、キリストにおいて、というのは、キリストに抱きしめられているイメージとも言えるでしょうか。言わば、私たちの心も体も生活にいたるまで、罪のばい菌が蔓延しておって、そのままで聖なる神様の前に出るなら、永遠に隔離され焼却されてしまう。そんな罪の病、私私私で何が悪い、キリストなんて関わりたくないという死に至る自分病に冒されている私たちのもとに、キリストが飛び込んで来てくださった。十字架で流された血で血だらけのまんま、ギュッと抱きしめてくださった。さあ、これで、あなたの罪は消毒されたから、あとは時間の問題だ。あなたの罪は清められたから、どんどん清められていくことは確実だから、それだけの死をわたしは十字架で死んだから、それだけの赦しを、父は十字架で認められたから、だから、もう自分自分の生き方はやめてしまって、わたしと共に歩みなさい。あなたもわたしと同じように、神の子として歩みなさい。あなたが父から見捨てられることは、わたしの故に決してないから、だから、わたしについてきなさいと招かれた。この救いは死ぬまで忘れたらいかんぜよと告げるのです。

言い換えれば、あなたは恵みによって救われた。それを四六時中、心に留めておきなさい。手の平に書き込み、自分の顔を見ちゃろうと鏡を見た時に、う、そうやったと思い出すよう、額に、恵みって書いちょきなさいと、ま、そういうことです。おさらいになりますが、これは5節の具体的展開なのです。神様は罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです!これをパウロは、具体的に、じゃあ、それはどういうことかと説明をしだします。8節では、信仰はその恵みを受ける信頼のパイプであって、救いは恵みによるのだと説明しましたし、9-10節では、行いはその恵みの結果だと説明しました。そこで11節から、その恵みによって救われて、善い業を行って歩むとは、じゃあ、どういうことか。それは十字架の恵みによって共に赦され、受け入れられた私たちが、共に神の民、あるいは、神の家族として、共に歩んでいくことだ。それは教会を建て上げていくことなのだと、恵みは教会に具体化することを教えている。恵みは教会に具体化する。それがここから続く御言葉です。

ここで言われる異邦人という言葉は、ユダヤ人ではない外国人というよりも、神様によって世界の救いのための任務を負って選ばれた民にはまだ入れられていない、というニュアンスがあります。日本人なんか、ざまに異邦人ですけど、その異邦人たちの只中にキリストが飛び込んで来てくださって、いや、あなたもわたしの民として、世界の救いという使命に生きなさいと、ご自身の血によって、神の家族にして下さった。それが要するに言いたいことで、下の段19節以下「…」。これが、目指すゴールであるのです。じゃあどうして、一足飛びにそこにいかんか。ユダヤ人が陥った儀式主義や自力主義に、教会もまた陥りやすいから、その罪の言わば引力を、心に留めるためだろうと思います。

恵みによって救われる以前は、ユダヤ人も陥っておったそういう儀式主義や自力主義を、別に気にも留めんかった。「いわゆる手による割礼」という言い方は、皮肉をこめた言い方です。教会で言い換えたら、ま、洗礼さえほどこしたら自動的に救われると、洗礼であれ、なんであれ、その儀式自体が力を持っているように考えて、神様の恵みを、自動的に自分で操れるものと考える。人間が陥りやすい罪なのでしょう。そこに愛の信頼関係はありません。むしろ、そうやって儀式を利用することで自分の力を主張するのです。私はこの儀式をしたからと。私がしたことを救いの主語とする態度では、しかし、父の家族として生きられない。

パウロが告げるのは、キリストの血によって、です。キリストが主語です。私たちじゃない。三位一体の子なる神様が罪人の犠牲となるため人となられて、血を流すほどに、死ぬほどに人となられて、その血によって赦されたのなら、人間が割礼でチョチョッと血を流したぐらいで、これで救いは保証されたとか、そんなのは「いわゆる手による割礼」に過ぎんのだと、自分を誇る態度への要は皮肉を言うのです。キリストが血を流してくださった、その恵みによって救われるのなら、割礼そのものや洗礼そのものが、主語になることはありません。要するに急所は、キリストと関わりがあるかないかです。キリストの流された血のもと、十字架のもとに、我が身を置くのかどうかです。それを信仰と呼ぶのですけど、その信仰が形を取ったら、キリストの体である教会に属する、教会員になるという、洗礼という形を取らざるをえない。旧約の時代で言えば、それが信仰のしるしである割礼ですけど、じゃあ神様の、何を信じるしるしかと言うと12節2行目「約束を含む契約」、直訳は「かの一つの約束を信じる、かの諸々の契約」です。つまり神様が繰り返し、あなたがたに救い主を与えると「かの一つの約束」を、アブラハムに、モーセにも、ダビデにも、しかし、キリストを約束する「一つの約束」をずっと約束し続けた。そのキリストによる救いを世界に知らせるのが神の民です。その民と異邦人とはどう関わるか。もう一つの急所です。

神の民と、私たちはどう関わるのか。時代が古かろうが新しかろうが同じです。キリストと関わる以前には、神の民ではなかったのです。どの国、どの時代、どの民も、キリストの介入以前には、キリストを抜きにした自己主張、自力主義、儀式主義、自己満足、とにかく神様を主語としない救い、自分が主語、私が主語の、神なき生活だった私たちに、いや、そのあなたの主となって、あなたの罪を身代りに負い、十字架で裁かれ死ぬために、わたしがあなたの主語となったと、キリストが飛び込んできて下さって、聖なる血潮を流されて、私たちをそのままで抱きしめて下さった。わたしは主、あなたの神だと、神様が近づいて来て下さった。だから人間は救われて、ユダヤ人であろうと何人であろうと、キリストを主として救われるのです。私が何をしたかが主題なら、主語は私になるでしょう。でもそれは最早、私語です。私語は慎むものでしかありません。そんな私語ばっかりの世界には、希望があるはずもありません。私語で学級崩壊するように、教会も家族も崩壊します。

しかし、ただキリストの恵みによって救われた教会は、恵みの言葉を語れるのです。恵みを喜び、イエス・キリストが主であると、キリストを主とする教会には、キリストの主権的ご支配が、恵みの態度で現れるのです。キリストはえいですと言う人が来ても、キリストによって救われるのです。それを信じて祈れるのです。救いはキリストの恵みによると、ただキリストを仰いで祈れるからです。その教会が、神の民です。世界に救いをもたらしたもう、キリストの恵みを証する、キリストの体なる教会です。これを忘れてはならないと、皆、招かれているのです。