12/7/29朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙2章9-10節、詩編51篇12-21節
「このために生まれて」
私たちは神様に造られたものである。これは先の口語訳では、私たちは神様の作品であると訳されていました。もとのギリシャ語はポイエマで、英語ではポエム、詩あるいは詩作という言葉です。私たちは神様のポエムである、と訳してしまうと随分イメージが限定されますが、1章から続く全体のイメージの流れにはあうかもしれません。1章6節12節14節と、讃える讃える讃えると畳み掛けるようにして語ってきたのは、キリストによる救いは、神様の恵みの栄光を讃える、あるいは物語るために与えられたという救いの目的、ゴールでした。私たち一人一人が、そのための讃美、ポエムの一節一節であり、また互いに組み合うときに一つの壮大な叙事詩、ポエムとしての歴史作品となる。それがキリストの体、教会という作品でもあるのです。この神様の恵みの栄光を物語るポエムとして私たちは救われ、神様に新しく造られた。
この恵みの栄光を物語るというイメージが、今日のすぐ前7節では、どんどん限りなく越えて行く恵みの豊かさを世に証するというイメージで言われますが、ほぼ同じことだとも言えるでしょう。物語るにせよ、証するにせよ、そこでの主役は神様の恵みの栄光、恵みです。神様が愛し、受け入れて、憐れんで下さり、選び、赦して、救ってくださった。恵みの神様が主語であり、主役です。恵みが物語られて証される、その壮大な叙事詩の中で、どうして人間が自分を誇り得るか?そんな場所、この作品に用意されてはおりません。
それでも自分を誇るなら、言わば割り込んでいくのです。恵みを物語る讃美作品、例えばアメイジング・グレイスに、あそれ、はどした、と無理やり合いの手を入れるようなもんで…我〈私私私〉をも〈私も偉い〉救〈自分を褒めてあげたい〉いし〈私みたいにすればいいのに〉奇し〈私みたいじゃないといかんろう〉き、め〈私がもっと…〉これじゃ恵みを物語れません。恵みを讃えるため美しく造られた作品が台無しです。
罪とは何かが、これでおわかりになったのではないかとも思います。恵みを台無しにするものです。恵みに割り込んでくるものです。恵みに満ちたエデンの園で、蛇が割り込んできたように、神様と人間との間に存在する恵みの関係に割り込んで、恵みの関係を奪うのが罪です。本来神様と人間との間にあるべきは、信仰あるいは信頼です。これもすぐ前で言われていました。人は恵みにより信仰を通して救われる。それは賜物、プレゼント、恵みであって、自分の力によるのではない。直訳は、自分からではない。恵みですから、受けるのです。私と神様との間に、イエス様が主として来てくださって、そのイエス様との間に信頼というパイプが与えられて、その信頼のパイプを通して聴こえてくる、わたしに従いなさい、わたしと共なるいのちに生きようという羊飼いの声に、はい、と返事ができる関係、恵みの関係が与えられる。これが恵みを証する関係、主と私が、共にある間です。その恵みと信頼の間を割って、私私私が割り込むのでしょうか?私の行いを割り込ませる余地が1ミリでもあると言うのでしょうか。
本当はないのですけど、割り込ませたいから罪人なのです。三浦綾子さんが教会に行き始めたときに、ここはあなたのような人が来るところではないと言うた人がおったそうです。自分はやってきたつもりの行いを割り込ませようとする。私はちゃんと求道してきたとか。あるいは正反対に、全然ちゃんとやってこなかったこんな私が赦されたのかと、涙を流して回心した体験とかが、逆に行いとなって割り込んで、あなたはそんな回心をしてないでしょうと。どんな行いであろうとも、おおよそそこに伴う自分の熱心さが、自分の誇りになるのです。ないですか。そういう自分の誇り、こだわりが。こだわりなんて代物は、あーだこーだ割り込んでくるので、こだ割りなんでしょう。捨てたほうがいいです。そんな自分を誇る罪。きっと先が尖ってて、人を傷つけてしまいます。
私たちのこだわりは唯一つ、その剣先をご自分の身に受け止められ、十字架で、そんなどうしようもない罪人の身代りに死なれ、全部赦して背負い切られて、あなたも新しい恵みの作品としてわたしと共に生まれ変われと、いのちを恵み与えてくださったイエス・キリスト、この方だけです。この方が私たちの、いや栄光の父のこだわり、父の誇りであればこそ、私たちも主をのみ誇り、こだわるのです。しかも柔和な熱心さによってです。7節で「こうして神様はキリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみにより、その限りなく超えいく豊かな恵みを来る世々に証明しようとされた」と言われる通りです。
恵みを証する救いの条件は、キリストのみ。キリストによる恵みのみです。無条件の恵みと言いますが、本当はキリストが条件です。私たちが救われるために、何か一つでも「ねばならない」という条件があったなら、永遠の三位一体の御子なる神様が、全人類の身代りとして人となり、十字架で罪を背負って死なれる、主とならねばなりませんでした。救いに条件があるなら、このキリストの行いです。キリストによる神様ご自身の恵みの行いが条件です。
これが条件であればこそ、十字架に付けられたイエス様の横におった罪人が、イエス様、あなたの御国においでになるときは、私を思い出して下さいと主に顔を向けたとき、あ~、求道期間が短いから無理、とか言われずに済んだのです。この人は重荷を負わせられんかったのです。重荷はキリストが負って下さった。だからこの人はただ一言、あなたは今日、わたしと共に楽園にいる、あなたはわたしと共にいると、恵みによる救いをいただいたのです。
じゃあ救いにおいて、行いは居場所がないのでしょうか。善い行いは白い目で見られてしまうのか。あるいは何をやってもよいのか。どうもそういう人が多すぎるから、ここでパウロも言うのでしょう。じゃあ、行いはどうなるのかと。ここもとっても牧会的です。
行いは救いの条件にはならん。むしろ結果だ。キリストの恵みの結ぶ果実、結果こそ、私たちの善い行いだ、そうでしょう、違いますかと。イエス様の譬え話で言えば、私たちはイエス様に接木された葡萄の枝。キリストは葡萄の木です。枝は枝だけだと実を結ばん。当たり前です。木と共に結ばれ、主と共に結ばれ、キリストと恵みによって賜った信頼のパイプでつながって、パイプを通して、イエス様の恵みに、はい、と言って従って生きていくとき、既にキリストの内に用意されていた善い行いという恵みが、パイプを通って実を結ぶのです。
改めて言いますが、5節で「キリストと共に生かし」と訳された言葉は、キリストと共なる命を造り生かされると訳し得る聖書の造語です。新しい言葉を造らないかんほど新しい命の出来事が起こされたのです。その新しく造られたキリストと共なる命が、キリストと結ばれた、その信頼関係のパイプを通してのみ、私たちに流れ込んできて、その命の実を結ぶことができる。そうして神様の恵みを証するのが、神様の恵みを讃える讃美作品、神様の恵みのポエムなのです。こうやって読んでいくと、聖書ってじつにわかりやすいと思います。私たちは誰であるのか、何のために生きるのか、どうしてそうなのか、全部わかる。
後はその、恵みに生かされている私として、パイプ詰まりをさせんよう、恵みの通りよい信頼関係を育てて、キリストと共に生き、キリストの体と共に歩んでいくだけです。と言っても、それが難しいのでパウロも手紙を書いたのですから、頭じゃなくて、体で、生活でわかり続けるため、恵みの物語に実際に生きる。キリストの物語を歩むのです。
恵みの態度で生きると前にも言いましたが、それが、神様が前もって準備してくださった善い業を行って歩む、ということです。恵みの態度ですから、私が割り込んでこんようにする。善い行いと聞くと、どうも個人的道徳とか個人的な私がどう生きるかって考えてしまいそうですけど、ま、そういう世界に生きていますから、でも、そもそも教会の話をしているのです。家族の話をしているのです。2章19節には、あなたがたはもはや神の家族でありと言われる。そこでは個人がどうのは二の次になります。家族でしょう。栄光の父がそう望まれて、あなた方に御子を与えるから、愛の家族を共に築こうと、皆キリストに結ばれて、一つの家族になったのです。その家族としての行いですから、もちろん態度が問われるのです。善い業です。単なる義務とかじゃない。今日の風呂掃除当番誰とか、でもそれが恵みの態度で、家族のために、父のためになされるとき、善い業になる。教会の善さって、そこでしょう。義務になると、教会らしさが失われます。善くなくなって、下手したら礼拝に来たくなくなる。そこには恵み以外の何かが割り込んでいるのです。
そうやって恵みの関係に割り込んでくる罪の問題、私私のどうしようもなさを、自己責任にしない。自己責任だと、先週言いました気合が足らん、気合気合気合だとなる。あなたの問題だから、あなたが頑張ってというのは恵みではない。無論、本人も頑張りますけど、家族なら共に苦しみ、共に頑張り、恵みの態度で、一緒に歩んでいきましょう、家族ですからと、私たちを家族にして下さったキリストの態度を証する。それがキリスト・イエスにおいて造られた、神の家族の善い業です。
時に、前もって神様が用意してくださっていた恵みの道でなく、恵みを証せん道、悪い業を選ぶことも残念ながらある。例えば自動車のナビで、次の信号を右ですと言われているのに、嫌、俺は左!とワイルドな選択をする。これも改めて申しますが、その報いは受けます。神様は報いの神様です。しかし、です。ナビがそうである以上に、神様はそこで次を右、更にその次を右だと、見捨てず方向修正をしてくださいます。何度も何度でもして下さる。道が途中で切れちょって、その先は死だというところに突っ込んだ先に、なおキリストがしっかり受け止めてくださって、わたしがあなたを背負ったと言って下さる。その神様の恵みを証する道であればこそ、私たちもまた恵みを放り投げないで、キリストのくびきを感謝して負って、共に歩んでいくのです。何かできたら、主のおかげです。できんかったら、悔い改めて、新しく歩み直せば良いのです。キリストが共に歩まれる道を、私たちは共に歩んでいくのです。