12/6/17朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙1章11-14節、エレミヤ書31章31-34節
「ああ約束の通りでした」
たたえることになる。神様の栄光をたたえるため。原文では同じ言葉が二度繰り返されます。上の段6節でも「輝かしい恵みを」これも原文では、神様の恵みの栄光をたたえるため。礼拝では必ず讃美をいたしますし、祈祷会でも讃美して、ことあるごとに神様をたたえます。もっと単純に言えば、神様すごい!と神様に言うこと。あるいは神様のすごさを皆で、すごいでねえと言い合うこと。たたえると訳された言葉はもともと、物語る、語り草にするという意味です。栄光と訳された言葉はもともと、何かに、あるいは誰かについての意見のことです。その誰かがすごい人物であれば、すごいでねえという意見、称賛、たたえの言葉になりますから、栄光とも言う。例えばイチロー選手。本当に、すごいと思います。あるいは松井選手。メジャーリーグばっかりですが、私サッカーの流行に乗り遅れてますのでご勘弁下さい。大リーグボール養成ギブスとか…で、松井選手と言えば、以前は大リーグMVP最優秀選手賞を受けたほどの大選手ですが、さすが実績主義の米国と言いますか、成績が悪くなると解雇される。長く辛酸をなめながら、いわゆる二軍で地道に頑張り、突然一軍にあげられて出場した試合でホームラン。すごい!と私の中では感動のヒーロー物語になっています。たたえるって、そういうことです。すごい!って物語る。証もそうでしょう。何度聴いてもあきない証、神様の救いの出来事ってありますよ。そうやって福音書など4つもあって、イエス様のすごさ、このイエス様が私たちの身代りに十字架で死んで下さった!という救いの恵みを、何度でも物語らずにはおれんのです。説教もそうですし、この後の讃美も、神様すごい!っていう方向に向く。心を神様の物語に向ける。自分を神様のすごい物語の中に置いてしまう。それが礼拝だとも言えるのです。
私たちはしょっちゅう自分自身の小さな物語に満足したり、あるいはその小ささに卑屈になったり、私私の今今の、今の私の小話に一喜一憂するのですけど、それ全部、神様の大いなる物語の中に置いてしまえばよいのです。そして、その壮大なスケールの中で、しかし神様の目から見たら、あなたのその小さなあなたという物語も、わたしにとっては、大切な物語の一つだと、神様が言ってくださる。ならばこそ、卑屈にも傲慢尊大にもならないで、あなたのいのちを、わたしの手の中に置いてごらん。わたしが見事なオーケストラ指揮をして、あなたを壮大な讃美の一部にするからと、神様はそのコンサートマスターとして、キリストをお選びなさったのです。それが11節で言われております「キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行なわれる方のご計画によって前もって定められ」ていたという、それ自体、壮大な物語です。その壮大な神様の物語の中に、私たちはもう存在しているじゃないかという、それ自体が驚きの讃美なのです。
じゃ、具体的には、どのように定められていたかが、相続という言葉で説明されます。ただ、直訳は「私たちは相続された」で、相続者とされたというよりは、私たち自身が相続財産として相続された。誰にか。14節で「この聖霊は、私たちが」原文は「相続するための保証であり、こうして、私たちは贖われ、完全に買い戻されて、神のものとなり」とあるように、私たちは神様に相続されて、神様のものとなったのです。そして、神様は既に繰り返し聴いてきたように、私たちを神様の子供、家族として相続してくださったわけですから、その私たちもまた、神様ご自身を家族として相続するのです。
ここに世の中の大いなる間違いが露呈されます。私たちは、世の中で時に非情に寂しいことに、誰が家の土地財産を相続するかに心奪われるが如くに、天国を相続するかどうかなどに心奪われなくてよいのです。神様でしょう。家族がおるかおらんかでしょう。神様が私たちをご自身の家族として相続してくださり、あなたがわたしの宝だと愛し求めてくださるから、そのために独り子を人として生まれさせ、私たちの全ての罪を赦すため、身代りに十字架につけて裁いてまでも、私たちの罪の裁きを終わらせ、赦して、あなたはわたしの子だと愛し、受け入れてくださった。だから私たちも、神様を相続するのです。2節3節で説き明かしたように、主イエス・キリストの父である神様を、私たちの父である神様と、その大いなる愛を物語って、たたえるのです。
そもそも相続ですから、家族が受ける宝です。神様が罪にとち狂った失われた者たちを、家族として求められた物語を、聖書はその最初から物語るのです。ユダヤ人として救い主がお生まれになるご計画の中で、アブラハムが、その最初の人として選ばれた。その名前も、選ばれたときは、アブラムです。父の名はたたえられるという名前です。そして、アブラハム、多くの人々の父という名前に変えられる。キリストの救いの物語は、最初から父が家族を得る物語であり、その壮大な救いのご計画の一頁として、今の私たちの頁もあるのです。ちなみに今日が父の日であることは全く頭の中にありませんでしたが、ひょっとこれもすごい神様の御業の一部かも知れません。
12節で「以前から…」と言われているのは、そのユダヤ人、以前から神の民、神のものとしてキリスト、ユダヤのヘブライ語でメシアに希望をおいていた人々だと言われます。が、ユダヤ人のみでなく13節で「あなたがたもまた」と言われる、ユダヤ人以外の人々も、神様がキリストによって選ばれた壮大な救いの物語の中に皆巻き込まれて、最後には、壮大なハレルヤコーラスのオーケストラ讃美を皆で捧げることになる。「こうして私たちは贖われ神様の家族とされて、神のものとなり、神様の栄光をたたえることになるのです。」アーメン。本当にアーメンです。
その救いはしかし、自動的に皆の戸籍が書き換えられてというのではありません。ユダヤ人が単に血のつながりだけで、私はユダヤ人だから神の民の一員でと思い上がっておったのを、イエス様も、それは家族の内実を取り違えちゅうろう、もし本当に父の子なら、どうしてわたしの愛がわからん?と迫られたのです。家族は内実が求められる。父の愛、家族の愛、それが救いの内実です。天国も言わばただの家です。家より家族なのは当然です。
だから、キリストにおいて私たちが聞いた福音は、そのような真理の言葉です。神様の家族となる。神様のものとなるというのは、どういう関係か。これに答える真理です。例えば、私と私の家族の関係がどんな関係かを、外から勝手に、大概はこんな関係やき、野口家もそうやろうと勝手に言うことはできません。ただの想像であり、それに失礼です。神様と私たちとの関係を、誰が勝手に決められるでしょうか。御言葉によって語られる、神様ご自身の真理である、あなたはキリストにおいて罪赦されて、わたしの家族として贖われ、買い戻されたのではなかったかとおっしゃる、家族関係の真理以外に、他の勝手な原則を当てはめることは許されません。例えばメジャーリーグの真理である、実績主義の関係を持ち込んで、これだけやったら救われて、できない人は切られるというのは、雇用関係であり、家族関係ではありません。つい雇用関係で考える人間に、イエス様は、なんちゃあできん人を雇われたぶどう園の主人の譬えを物語られ、これが父の恵みだ、救いは恵みの関係なのだと言われたのです。
あるいは雇用関係で考えるから、私はこの会社、と選ぶように、私はキリスト教を選ぶという風に考えがちなのかも知れません。なら止めるのを選ぶのも当然のパターンでしょう。自分で選べると思うからです。
子供は家族を選べるでしょうか。だから御言葉は4節で「天地創造の前に、神様が私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリスト・イエスにおいてお選びになりました」と慰めるのです。だからこの福音は、信じるのです。神様の恵みを信じるのです。家族に必要なのは、この信頼。神様との信頼関係。天にまします我らの父よと、キリストの名によって呼べる関係。それが信じて救われる関係です。愛の関係が、信頼によって救われる。本当は誰もが知っている、愛の真理だと思います。
その真理の中に身を置くときに、父はその人に三位一体の聖霊様を、その人に注がれ、その人の内に住まわされ、またそのことでその人を、キリストに、ドンと貼り付けてしまわれます。キリストと帯で結ぶという譬えもありますが、ここでは保証としての証印、ハンコの譬えで説明します。当時ハンコが押されたものは、その人の名前によって保証されたものであり、またその人のものだという意味がありました。有名なのはマタイによる福音書で、イエス様の墓にローマ兵が封印をしたとあります。墓穴を横に掘り抜いた岩肌と、蓋の石との間に縄を張り、両端を蝋燭でボタボタ貼り付けて、その柔らかい蝋の上に、これはローマ皇帝の所有であるという肖像のついた指輪のハンコをギュッと押す。神様はその譬えをもって私たちを説得なさり、だから、あなたはわたしのものだ!あなたがたは正真正銘わたしのものであり、わたしの愛する家族の一員だと、一人一人に聖霊様をお与えになられて、ギュッと保証をしておられるのです。14節で言われているのはそのことです。こうして私たちは、キリストの血潮によって贖われ、やがて完全に贖われ、すべての罪から解放されて、聖なる神の子と呼ばれるに、まったくふさわしい者に変えられる。私の身分だけでなく、私の人生も心も体も、正真正銘、全部が神様のものとされるのです。ローマ皇帝が、この墓は私の物だと封印しても、違う!その中にいる者はわたしの御子であり、その墓も、御子の復活による救いを物語るための、わたしのものだ!と父は言われる。それとまったく同じように、私たちがやがて入ることになる墓も、私たちの復活を封じ込めることはできんのです。私たちは神様のものであり、聖霊様によって証印を押され、やがて御子が来られるときに、墓から甦り、復活し、神様の栄光をたたえることになるのです。その日の讃美、いや、その日から始まる永遠の讃美は、完璧な讃美です。今仮に下手な歌でも、その日から完全な讃美で物語るのです。神様すごい!と物語る永遠が待っているのです。この福音を教会は物語り続けるのです。