12/6/24朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章15-18節、イザヤ書62章10-12節 「聖なる者よ永遠を見よ」

12/6/24朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章15-18節、イザヤ書62章10-12節

「聖なる者よ永遠を見よ」

 

ちゃんと見ているようで、実はぜんぜん見てないってことあります。先週、会のため東京に行きまして、ま、花の都ですから多少りぐって、おしゃれで、ちょっと光沢のあるワイシャツを着ていきました。仲間と夕食を済ませ、JR山手線で、渋谷、新宿と通過して、たまあ東京の人はおしゃれやねゃ、けんど今日は俺もちょっとりぐっちゅうし、イチローヘヤーやしと、つり革を手に電車の窓に映っている自分の姿を見たりしまして、おすまし顔で宿にチェックインし、部屋に入って着替えたら!おしゃれなワイシャツのど真ん中に眞緑の物体がぼったり!よく見たら夕食のサラダのアボカドが、ウルトラマンのカラータイマーのように、まんまくっついておりました。おしゃれモード終了。夕食時も電車乗っちゅうときも、宿の受付のお姉さんも、どうして言うてくれんがよ、と思いましたが、もうあまりにも分厚いアボカドだったので、緑の厚切りかまぼこみたいなもんですが、苦笑いしました。私も電車の窓で見ておったのに、見えてないのです。幸生、嘘の自分をつくったらいかんぜよという、主の戒めだったのかもしれません(笑)。

ここでキリストの使徒パウロが祈っておりますのも、私たちが本当の私たちを見ることができるよう、聖霊様によって心の目を開いて下さいという祈りです。

最初に「こういうわけで」とありますので、その前に語られたことを知っている必要があります。例えば、礼拝後の報告のとき、えー、こういうわけで、~さん、突然ですがお祈りをお願いしますと言われたら、その前を聴いてないとえらいことです。では、どういうわけで、パウロはエフェソ近辺の諸教会を覚えて祈るたび、感謝するのか。沢山献金をしたからでしょうか。そんなこと1章の前半で語られてはおりません。ここまでずっと語られてきたのは、私たちが何をしたかではなく、神様が私たちの救いのために何をされたか、その栄光と誉がずっと物語られてきたのです。天地創造の前に、神様が私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。神様がキリストによって私たちを神様の子供として、家族として救うことを選んで下さり、父の御子が私たちの身代りに人として生まれ死んで、償い、贖って、14節で言われるように、神様のもの、神の家族として買い戻してくださった。神様が救いの道を、キリストによって、恵みによって、愛によって、家族になることによって与えて下さった。こういうわけで、です。だからパウロは主に感謝する。こうして神様の家族となる救いが、身に染みてわかった人々が、イエス様をと信じているからです。当たり前のように聞こえますが、単に神様を信じたではない。そこが急所です。神様が私たちの主となり、代表、身代りとなるために、イエス様という人になられた。その主イエス様を信じている。だから、そのイエス様によって私たちは罪赦されて、贖われ、天の父の子供たち、家族にされたがや、すごい!教会は皆、神様の家族ながや!って、家族なら当然のことをした。全ての聖なる者たちを、家族として愛していた。それをパウロは耳にして、その当たり前を、当たり前やと愛するところが、もう、これ神様の業や!って、感謝して祈る。

そして、更に祈るのです。何故なら愛は深いからです。家族の成長に終わりはないからです。愛ってそうでしょう。家族ってそうでしょう。だから、17節以降、イエス様を主として与えて下さった神様、いや神様より、もっとこう呼びたい。栄光の父!これが直訳です。栄光の父が、三位一体の聖霊様を、教会に、もっと注いで下さって、もっと深く神様を知ることができますように、私たちの心の目を開いて下さいと祈ります。目が開かれて、今まで見えてこなかったアボカドとか、ま、色々と見えてくるのですが、見えているつもりだと見えてない。それが人間だと。それは聖書全体も語ることです。何で見えないか。神様を見てないからだと言うのが、これまた聖書全体が語るのですが、そうでしょう。聖書はその初めから、最も大切な事として、神様が天地を創造されて、その創造の業のクライマックスとして、あるいは創造の目的として人間を造られた。神様のかたちに造られたと、すごい強調をして言われています。それがわからんから歪むのです。自分の姿も、自分達の世界も、神様の形から、その名を愛と呼ばれる神様のかたちに造られた、本当は愛が当たり前の私たちから、どんどん歪んでいってしまう。そして教会も、完全な愛の形をしていないのは…あの、隣の人見ないで下さいね。自分を見ればわかりますよ。教会が愛の形してないっていうのは。でも見えないから、人を見てしまうのかもしれません。だから祈るんです。

確かに教会も私も歪んでいるけど、その歪みは、神様を深く知ることで、まっすぐにされていく!私たちには、栄光の父がおられ、その父から三位一体の御子が、救い主、主イエス様が与えられている。三位一体の聖霊様も、信じた者に与えられ、私たちを確実に神様のもの、聖なる者としてくださる。何度も言いますが、聖なるとは、神様のという意味です。神様の言葉が聖書。そして神様のものとされた、神の家族が聖なる者です。神様が、あなたはわたしのものだ、わたしの愛する子だと、三位一体の神様が根拠となって保証してくださる。あなたがわたしの子である根拠は、わたしにある、わたしが根拠だ!と言われる。その神様を、深く知ることができるようにと祈るのです。これが毎日の、自分にとっての当たり前になれば、すごい安心するのです。私の根拠は神様にある。神様の形に造られた私ですから、そもそもそうなんですけれど、それを、いや、私は自分を根拠として生きていくんだ、私が決めるんだと、神様を遠ざけて歩む。それが罪であり、歪みであるのを、神様が、その罪の歪みは、わたしの愛以外によっては直らんからと、イエス様を下さり、教会を家族として与えて下さった。それが栄光の父の、救いのご計画なのです。その角度から言えば、救いとは家族の愛の回復だとも言えるのです。この神の家族愛の回復の中で、個人の歪みも、キリストの姿、愛の形に回復されていくのですけど、それは栄光の父が、御子によって与えて下さっている、家族愛抜きではできんのです。

それを頭だけ、知識だけじゃなく、心で、知恵としてわからせてくださるのが、聖霊様の働きです。例えば、神様は父である。それが知識であれば、知恵は、あ、じゃあ私は神様の子供ながや、ごめんなさい、あるいは、父よ、と祈るようになる。単に知識で、ああ、父と子の関係ねというのでなく、子として生きるようになる。生活が、態度が変わる。それが知恵です。そしてこの態度の変化、心の変化は、聖霊様によってでないとできんほど、人間は本当に自分を見ていない。だから、それも見させていただけるように、祈り合うのが知恵なのです。互いに祈り合いましょう。そしたらお互い、生きやすくなります(笑)。

祈って見えてくるのは父であり、その家族としての私とあなた、教会です。それはやる気のある人々の集まりではない。それだと家族は崩壊します。自己責任で家族がやれるはずはありませんし、だからといって干渉しないのも家族ではない。どちらも愛じゃない。でもそこに希望があるのが教会の家族です。栄光の父がおられるからです。私たちを神様のものとしてくださった、聖なる者としてくださった父が、聖なる御子によって、わたしのもとに来なさいと招いてくださった。だから私たちは家族としてやっていけるんだ!それが希望です。18節で祈られている心の目が開けて見えてくる風景は、父の招きによって成立し、また成長をしていく、神の家族の風景です。この家族は、完全じゃないけど完成する!だから成長するんだ。家族がますます増えることも含めて、父が招いてくださっているから、神様が私たちの出発点だから、私たちには神様由来の希望がある!これが希望です。だから教会は楽しいのです。目の前が真っ暗なときでも、聖霊様によって見えてくる風景は、神様が招いて下さっている栄光のゴールに、私たちは信じて進めばよいのだという希望の風景です。

希望には由来がある。由来が大事だと言ってもよいでしょう。希望は望みでもありますから、何を私たちが望んでいるかが、そこで具体的に問われもします。私たちが日常、望んでいることって何でしょう。人は自分の望む景色に目を向けるものです。電車の窓に映るおしゃれな自分を望んでいた恥ずかしい41歳は、その自分を台無しにしているアボカドが見えず、まったく見えてなく、見たくもないし、関心もないから目が閉じている。で、おしゃれ~とか見ておって、それで当然起こる問題、あるいは真実の自分に直面したとき、他人を恨んだりするのかもしれません。それも含めて見えてない。見ないといけない。だから栄光の父に祈るのです。私たちの目を、聖霊様によって開いてください、あなたを深く知ることができるように、あなたのご覧になっている景色を、あなたの子として見させて下さいと。私たちは何を見ているのでしょうか。神様の招きだけが、人をして何かを望ませるのではありません。罪に歪んだ世の招きも、人々に望む方向を植え付けて、こういう生活が望ましくないかと招き続ける。そうして心に根を張った望みが、なら何の招きによって植え付けられて、どこに私たちを連れて行くのか。神様の希望であるのかどうか。私たちの目は、栄光の父を見るように造られているのです。私たちの心は、神様が住まわれるためにあるのです。そして、事実、そうなるように、父の希望が実現するように、御子が私たちの罪を身代りに負われて赦してくださり、聖霊様がその赦しと、神様の子供となる身分を、確かなものとして与えて下さり、事実、信じる者たちの内に住まわれて、心を神様の宮としてリフォームして下さっている。

だから私たちもまた祈るのです。こので、感情を揺さぶられ、知性でも知って、私もまた、父の子として歩んでいきます、家族の一員として歩んでいきますと、聖められた意志をもって愛を選ぶことができますようにと、聖霊様の知恵を、神様由来の生活の喜びを、皆で祈り求めるのです。私たちは栄光の父の望まれた聖なる家族である。それが私たちの受け継ぐ相続であり、それが、聖なる公同の教会です。だから教会は聖なる家族愛の成長を、祈り求めていくのです。

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