12/2/12礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:63-71、詩編110篇1節 「決めつけないで聴いて」

12/2/12礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:63-71、詩編110篇1節

「決めつけないで聴いて」

 

何を言っても信じてもらえない。言葉が届かない。愛の行動すらも。けれど、信じてもらいたい。あなたに信じてもらいたいっていう体験、皆さんは、ないでしょうか。なら神様はどのくらい、同じ苦しみを耐え続けて、そして、今はどういうお気持ちだと思われるでしょうか。

イエス様のお気持ちを知ることは、信仰にとって、とても大切なことだと思います。信仰とは何か。信じるとはどういうことかが、ここでは問われていると思います。信じてもらえんという苦しみがわかるとき、逆に誰かを信じるということの切実さが、心でわかるのではないでしょうか。信じてもらいたい人から信じてもらえなかった、という気持ちがわかる人は、イエス様のお気持ちがわかるのではないかと思うのです。

たぶんこれからやる映画だと思いますが、その映画のコマーシャルをテレビで見て、おそらくその主人公である初老の男性は、自分は母親から捨てられたのだと、ずっと思っている。そういうセリフが出てくる。でも実はそうではなかった、ということを、年老いて表情もなくなった母親から聞いて涙する。え、それでもう映画の筋、全部終わりじゃない?という映画のコマーシャルを見たのですが、捨てられるという言葉ではなくっても、それと似たような体験は、結構多いのではないかと思いました。捨てられたという言葉の換わりに、否定されたと自分では思っていたという体験は、随分多いのではないでしょうか。

小学生の頃、学校帰りに、パチンコ屋の解体現場だと思いますが、車の窓にも用いられている深い水色の硬質ガラスがキラキラ細かい沢山の立方体に粉砕して、まるで宝石の山みたいに光っているのを発見して、しばらく自分の宝物にしていました。で、ある時クラスのお楽しみ会か何かで、宝物交換というのがあって、きれいな箱か蓋つきの缶に入れて持っていったら、誰?こんな危険なもの入れちゅうがは!と言われて、ショックを受けたことがあります。え?どういてこの美しさがわからんが?何で?と自分が否定されたようで今でも記憶に残っています。後々何でそんなことになったがやろうと考えておって、いつぐらいになってわかったのでしょう。ああ、あれは私の幼稚な独り善がりの美的感覚を皆も当然わかってくれるものだと思っていたからで、言い換えれば自分の世界を、人にも無意識で押し付けて、きっとわかってくれるだろうと信じて疑っていなかったのが、あ、それは自分の作った世界であったかと、どっかの時点でわかってきた。案外そういうことを大人になっても繰り返しやっているのではないでしょうか。要するに、人の気持ちなど考えちゃなかった。

ユダヤ教の最高裁判所、最高法院に集まった大人たち。民の長老会ということは、結構なお年の人々でしょうけど、そういうええ年の大人であっても、イエス様のお気持ちなんて一切理解しようとはせんかったのでしょうか。明らかにここでの問題は、イエス様が語ってこられた、聴く耳のある人は聴きなさいという問題が、ハッキリ現れているのです。人の話を聴こうとしない。人の言葉も神様の言葉も、相手の気持ちになって受けとめようとせん限り、結局わからんのではないかと思います。いや、相手が間違っていることはわかっちゅうから、だから受けとめる必要はないのだというのなら、あらためて、このイエス様を裁く場に、イエス様を裁いている人々の中に私はいるのではないかという質問を、自分に問う必要がないでしょうか。子供に対しても、イエス様が、この最も小さき者にしたのはわたしにしたのだとおっしゃった言葉が、ここでも響き始めるのです。そのときに、聴く耳って生えてくるのではないかと思います。

信仰について語る大切な言葉に、ローマの信徒への手紙10章の言葉があります。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」なら、信じるということは、聴く耳があるということでもあります。あ、イエス様が私に語っておられるという耳を得る。そこでイエス様のお気持ちが届く心を得る。その語りかけに、はい、とお応えし、自分の思いではなく、イエス様の御言葉を信じる。つまり、信じるって、自分の信じたいことを信じるのではないのです。それは単に自分の行きたい道を選んでいるだけで、そういう道なら、別の気持ちを持っている、相手は必要ないのです。その相手を避けるのが信じるということではないでしょう。少なくともキリストを信じる信仰ではありません。

信じるとは、しかも誰かを信じ、信頼するとは、この人あるいは神様は、私がこの自分の泥沼から救われるために、いま救いの手を伸ばしてくれているということを信じ、私へのその愛を信頼するということでしょう。そのために、聴く耳、心を開くことが求められている。愛の言葉が語りかけられ、扉がノックされるのです。

その扉がなお固いなら、先週の御言葉で登場し、泣きながら退場したペトロのように、自分に絶望するという体験が、どうしても必要なのでしょうか。確かにペトロのように打ち砕かれる体験は人間にとって必要です。そこに復活の主に出会い直して、立ち直る恵みがあることも多くの者が体験していると思います。でもユダのように、同じく絶望しながらも、復活の主にお会いするまでの、三日の苦しみに耐えられず、なお絶望した上での自分の道を選ぶということもおこりうる。それも人間の事実でしょう。罪の力は強いのです。神様をすら裁くのです。お前が神ならこれをしてみろと、できないじゃないかと裁いては、自分と同意見の者を集めて、自分は正しいという証言を集めて、ほらだから、自分は正しいと、神様のお気持ちを締め出して…でも本当はそこでこそ、自分に絶望したのならなおのこと、イエス様、私はあなたが必要です、あなたの十字架の救いが必要です、私の罪を赦してください、私を罪から救い出してくださいと叫び求める。そこに信仰はあるのです。神様の救いの手は目の前にあるのだと、絶望に値する自分から目を上げて、十字架ですべての罪人を受け入れるために、大きく拡げられたキリストの両手を、その救いの力、赦しの愛を信じて、イエス様と呼べば良いのです。

そのときに、人がたとえどんな状態にあろうとも、キリストを見捨てた人間であったとしても、それでもただひたすらに主の名を呼んで、闇の中でさえ救われるように、人となられた神様は、言ってくださった。誰も信じてくれない不信の只中で、人から一体なんと言われても、何にも答えてはくれなくても、それでもしかし、わたしは神の右の座について、あなたがたの救い主、あなたの主となって、あなたがたの罪を裁くと断言される。その断固とした宣言が指し示すものこそ、十字架の上で私たちの罪を身代りに背負って裁かれる、裁き主が自らを裁いて救い主となられる、あの十字架の救いです。あなたの罪をわたしは背負って、わたしはあなたの主となって君臨する。それが、人として来た神の子、人の子である、わたしである。わたしは主、あなたの神だと、イエス様は人の手を借りずに言ってくださる。信仰は、人間の信仰が、キリストに手を伸ばさせるのではないのです。信仰とは、キリストが十字架で伸ばしてくださった救いの手を仰いで、アーメン、そうです、イエス様、あなたが私の主、私の神様ですと主の御手にお応えするのが信仰です。たとえ今どんな状態であっても、たとえ治らぬ病や苦しみにあっても、私たちの主となって下さったキリストが、その伸ばされた救いの手によって、必ず私たちを復活の栄光に迎え入れてくださる。その日を待って呼ぶのです。イエス様、私をあなたの栄光に入れてください。