12/2/19礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書23:1-12、イザヤ書53章6-7節 「黙してただ十字架に」

12/2/19礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書23:1-12、イザヤ書53章6-7節

「黙してただ十字架に」

 

先日、信教の自由を守る2.11集会でキリスト者のノン・フィクション作家、石浜みかるさんが講演をされました。誠実な方だと思いました。またこの方は、まことに芯の通ったキリスト者としての反戦論者だと、励ましを受けました。ですので、これは是非と思って質問をしました。戦後もこの国は常に憲法改正や教育法改正、国旗国歌法制定の右翼的、全体主義的な方向にぐいっと行ってしまう時が多々あるが、教会はこの暴力とどのように闘えばよいか示唆を頂けないかと尋ねました。すると具体的な示唆は言えないけど、戦前、戦中に国家主義の暴力と闘ってきた先輩方は、覚悟を持っておられたと言われました。そして具体的に、先生が同じような講演をされていたとき、右翼の青年が会場におって、教会は右の頬を打たれたらとか言っているが、じゃあ実際に他国の侵略を受けても、黙っているのかと言った。たじたじとしていると、そこにおられた参加者の一人がすくっと立ち上がって援護してくれた。とても励まされたとおっしゃいました。私は襟を正しました。これが覚悟だと思いました。皆さんも想像されたらよいと思うのです。もし、援護するほどの知識が私にはないからと思われる方でも、そこでなお私は上手く言えないけれどと、立ち上がることができるか。どうしたらよいのかはわからなくても、いざというときには立つことができる力。それが覚悟ではないだろうか。問われる思いでした。私は立つ覚悟があるか。神様の前に立つ思いがありました。

イエス様がこの時、立っておられたのは、ピラトやヘロデの面前ではなく、空間的にはそうであっても、イエス様の心が立っておられたのは父なる神様の御前であったと思います。天の父に向き合って、父の御心に従う覚悟があったからこそ、何を言う必要もなかったのではないでしょうか。この人々は私のことを嘘ばっかり言っているとか、もういいのです。私のことを好奇の目で見てとか、誤解して侮辱してとか、この時のイエス様にとって、それは別に後回しでかまんのです。誤解され続けておったら、この人たち、いつまでもイエス様を信じることができませんから、誤解されっぱなしではいけません。でもそれは、私がどうのでは全然なくて、この人が救われんからです。イエス様は私たちの救い主であられると、それは信じてもらいたい。だから誤解されても別に、という強がりとか、人は人、私は私というので黙っているのでは、決してありません。人前で、しかしそこでこそ神様の前に立つということは、そこで神様から命じられている、なすべきことをするということです。右翼の青年に、誤解を解いてもらいたいと、暴力的な声や風貌に内心はビクビクしながらも、それでも暴力にキリストの愛で抵抗し、その青年の救いのために立つ。あるいは教会が教会として立つためにキリストの証として立つということでしょう。誤解があるとき、真実を語らなければならないとき、例えばイエス様は後に使徒パウロがコリント伝道をして迫害にあったとき、恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいると励ましてくださいました。パウロも、そうだ、私は人を恐れる必要はない。主が共にいてくださる。私は神様の前に立っているのだと、改めて自分の立つところ、言い換えれば自分が神様に立てられている目的、召しを自覚して、覚悟し直したと思うのです。

イエス様のこの時の沈黙もまた、わたしはこのために父に立てられたという、その御心に服従する覚悟があったからでしょう。周りでギャ-ギャ-イエス様を裁いている人々の罪を身代りに背負ってしまわれて、父なる神様の、彼らに対する罪の裁きを、十字架の裁きと死によって、今、受けきってしまわれる。イエス様は今、そこに命を、集中されている。ご自分に対する父の御心を果たすこと。罪を犯した人間の身代りの生贄、神の小羊として裁きを受けて死ぬことに、わたしの命(いのち)、命(めい)、父から受けた召命があるとの覚悟をもって、人間の、しかも間違った裁きを黙って受けられる。そんなこと何にも知らないで神様を裁き、救い主を無能扱い、嘘つき呼ばわりして、いま自分のために父なる神様の裁きを受けておられる自分の救い主に向かって、何とか言ってみろ、言い訳をしてみろ、どうせお前が間違うちゅうがじゃと、十字架の神様を裁く。それこそが人間の最大の誤解なのです。神様が人間によって裁かれる。キリストの救いの何たるかを知らずに、あるいは知っていてもなお、キリストを裁くことがある。いや、キリストを抜きにした神様を裁くことがある。十字架は、あれはあれで置いておいて、それより、このことを神様はしてくださらんからと、十字架の前に立ち損ね、それ故、神様の前に立ち損ねてしまうことがある。そこでこそ、人間はキリストを信じて神様の裁きと滅びから救われてなお、罪から救われなければならない罪人であることが、暴き出されることもあります。

そこでこそ聴くことのできる御言葉、いや、ヘロデのように御言葉を聴いて信じるより、何か奇跡を見せてみろとおごるところで、キリストが沈黙によって語っておられる、わたしのもとに来なさいという招きの言葉をこそ、私たちはここに聴くのでしょう。わたしをよく見なさい。ここに来なさい。わたしはあなたの罪を赦すため十字架で死ぬと、そう招かれる十字架への招き以外には、ここでは、神様を裁く人間の言葉しか聴こえんのです。そのざわめきをすべて引き受け、生贄の神の小羊が十字架に行かれる。すべてはそこに向かうのです。キリストが向かわれたところに向かうのです。そして、そこからすべてのことが、新しい始まりを告げるのです。その復活を迎えるために、キリストは、私たちをご自分の命に抱きかかえ、私たちの身代りに死んでくださった。そこで私たちも、古い自分に死んでしまって、キリストと一緒に死んでしまって、キリストと共なる沈黙の後に、復活の主と共に立つことができる。キリストが、あなたは立つことができると、すぐ横で言ってくださる。

そうでないと人間は立てんからです。違うでしょうか。立っていると思っているところで倒れてしまう。人を裁き、神様を裁く人間は、そのとき自分は立っていると思っている。あるいは自分たちはということもあります。人と連帯して裁くとき、一緒に悪口を言うとき、何であんなことするろうと、悪口はたいがい人と言う。一人ではない安心でしょうか。調子に乗ることが多々あります。ピラトとヘロデが仲良くなったのも、そういう連帯があったのでしょうか。互いにイエス様が有罪だとは思っていませんが、困った奴だと笑ったのでしょうか。祭司長たちのほうがもっと困る(笑)。そうよ、一緒に何とかしようと、そこで連帯したのでしょうか。神様の愛による連帯でなく、罪による連帯、一緒に神様のご支配に逆らう連帯もあるのです。そこでは立っているつもりでも、キリストを抜きにして立てるのでしょうか。神様の御前に立てるのでしょうか。神様の御前に立つ以外、どこに立ちうるというのでしょうか。そこに一緒に立つのだと、キリストが私たちを引き受けてくださった。十字架の愛に引き寄せて、ここになら立てると、わたしの立ち所をかまえてくださった。だから私たちはキリストを信じて、いま神様の御前に立てるのです。

そこに招かれている人々の中に、ピラトもいます。ヘロデも、祭司長たちも、すべての人間がここに招かれている。ヘロデや祭司長なんて、まるでここでは道化師のように、ピエロのように騒ぎ立てている滑稽な姿にしか見えませんけれど、神様は、敢えてそのように罪の姿を、滑稽に見せてくださっているのだとも思うのです。小学生の頃、私はクラス担任が南国教会の西川和子長老で、姉妹も芯の通った反戦論者ですが、その西川先生の薫陶で、はだしのゲンを全巻読みました。そこに激烈な戦争支持者で、平和を訴える主人公の父親を非国民と激しく誹謗中傷し迫害する人物が出てくる。ところが戦争が終わると、その人物が選挙に出て、私は戦時中も平和を愛してきたとか演説している。まことに滑稽な姿が描かれます。無論、卑劣で腐っているという表現もあるでしょうけれど、しかし、そこに私たちが自分の姿を重ねる時に、そこで自分の滑稽な姿を見ることで、立ち直れるということがあるとも思うのです。特に、取り返しのつかない罪の過去を、卑劣だと責められたら、責められて当然のことではあっても、それではもう立てなくなるということはあると思います。自分にはないと人を責めるなら、それこそそこに滑稽な姿がさらけだされていないでしょうか。そのような私たちであっても立てるように、キリストが共に立ってくださる。言い訳ができないところで、その罪を引き受けて、一緒に黙って立ってくださる。キリストが沈黙の中で祈られた祈りが聴こえるとしたならば、それは、父よ、この人の罪を赦してくださいとの祈り以外、生贄の小羊の祈り以外にはないでしょう。また、その祈りをもって、私たちは、立ち損ねている兄弟と一緒に立つこともできるのです。一緒に立ちたいと祈れるのです。責める言葉を放棄して、正しい言葉を父に委ねて、キリストと共に沈黙し、祈ることができるのが教会です。十字架のもとに立つ教会です。十字架を仰ぐ教会では、人は取り返しのつかない自分の過去を責めて、うなだれ続ける必要はありません。自分をそうやって責めるのが悔い改めではありません。無論、ひらき直るのは論外ですし、その罪を忘れることもできないと思います。でももう責めなくてよい。人も、その罪を責めることは許されていません。キリストが、その責めをご自分に負って下さったからです。キリストが負われたその罪を、なお人に負わせて責めるなら、それはキリストを責めるのです。神様は甘い、違うかと、何とか言ってみろと裁くことにはならんでしょうか。自分を責めるのも同じでしょう。キリストが黙ってくださったのです。何も言わなくても良いと黙って引き受けてくださったのです。そこでキリストと一緒に黙ることを学びつつ、赦された喜びが花開くときを、信じて待てばよいのです。罪を悔い改めて反省する、罪赦された者として、責めからは開放されて立つことができる。痛みはあっても、それを包み込むキリストの赦しの中に日々新しく立てる。そのためにキリストは来てくださった。神様は人となられて来てくださった。そして沈黙の小羊は口を開かれる。あなたの罪は赦された。ここに来なさい。教会はこの御言葉に立つのです。