11/12/4朝礼拝説教@高知東教会
イザヤ書55章8-13節、ヨハネによる福音書1章1-13節
「意外な救いの訪れ」
夏だったでしょうか、私の留守中に、ある管理業者さんが来られて、いつもの点検をさせていただきますと、汗をかきかき仕事を終えられ、じゃあサインをお願いしますと妻に書類を出すときになって、ようやく気づかれたそうです。え、ここ高知西福音教会じゃないんですか?東と西が異なって、かわいそうやったと妻が同情していました。東と西ならさほど違わないとも言えるでしょう。同じ主の体なるキリスト教会には違いありません。が、天地を創られた神様がお考えになられて選ばれる道と、その神様をさて置いて自分の道を行きたがる人間の道とは、天地ほどの違いがあると主は言われます。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」
道と言っても色々あるでしょう。将来こうなりたいという道もあり、いま選ばないかん道もある。あ、しもうた、こっちじゃなかったという道が度々ある。どうして思うか。うまくいかんかったからでしょうか。思っていたより満足しない。あるいは不満になったから、あっちにすれば良かったというのなら、案外、どっちを選んでも不満なのかもしれません。そういう人間の道ってあると思います。自分が満足するしないで判断し選ぶ人間の道。潤いを求める乾いた大地や畑のように恵みの雨を求める…のでなく、祈ったち雨らあ降らんじゃかと、あっちに井戸を掘り、こっちに井戸を掘る人のように、そもそも地下を流れる地下水も、天からの恵みの水であることを忘れてしまう、というよりも、思いつきさえしないほど、人間は乾ききってしまっているのでしょうか。
先日子供らが、幼稚園でクリスマス献金袋を作って、ご飯が食べれんお友達に献金するのに、何か手伝うきお小遣いちょうだい、というので足や腰を踏んでもらって、30円ずつあげたらニコニコ喜んでいる。またやってよと私も嬉しかったのですが、次の日、私の祖母に誕生日プレゼントを渡しに行った際、1000円お小遣いをもらったと超嬉しそうな顔をしている。良かったねえと言うと、うん、これで献金が1030円になったとニコニコしている。私は泣きそうになりました。親バカでじゃなく、そんな全部捧げてしまうなんてことは、私は思いつきもせんかった。それほど欲深い人間だと悟らされ、ごめんなさいと思ったのです。
神様が、三位一体の御子が人となられて、その全部を捧げきって犠牲にされて、幸生、これで、あなたの全部の償いができると、喜んで身を投げ出された。全部償ってもらわないかんのです。しかも人類の罪全部です。そのために神様が人となられて十字架に掛かられて、でも十字架で罪を背負って死なれるのなら、せめて生まれて大人になるまでは楽に暮らしたいじゃないですか。死ぬ前に洗礼を受けると言われる方がおられますけど、その気持ちはよくわかるのです。それまでは神様抜きが楽だと思う。もし私たちが神様の代わりにイエス様のお誕生の場所を決められるなら、あえて馬小屋を選びますか。早くして父を亡くして苦労して家族を養いつつ、でも30歳の時、まるでその家族を捨てるようにして十字架に向かって歩み始められ、家族から、兄は狂うたと理解されん。そういう茨の人生をイエス様に選ぶでしょうか。マリアとヨセフであったって、もっと楽な生活をさせてあげたいとか、せめて動物の鳴き声や糞尿の臭いがせん一般家屋で産湯につからせてあげたかったと願ったに違いないのです。
神様の道は随分異なります。神様の思いは、私たちの思いを「高く」超えていると言われます。そうでしょうか。低くの間違いじゃないのでしょうか。随分不幸せな道に思えるのです。損する道、満たされない道に思えます。この世の尺度からすると、低い道、光さえ届かないほどの底辺の道に、イエス様は降って来られたように思えます。
だからでしょう。ひとたび天から降れば空しく戻らない雨のように、キリストは天から降られたのです。その雨で、人は罪を赦され洗われて永遠の命を恵まれたのです。人間に赦しの宣言をなさった神の言葉は、あのクリスマスの夜、大いなる神様の決意のもとで、人として底辺に降られました。あなたの苦しみを共にしようと、俗な言葉遣いで言うならば、すべての恵まれない子供たちの泣き声を泣きながら、血だらけになられて震えながら、神様がその子たちの命を背負われました。わたしはあなたの友となろうと、わたしだけ楽しようとは思わないと、神の言葉が降られたのが、クリスマスのメッセージ、天使によって説き明かされた神様の救いの宣言です。神様があなたを救われる。イエスという名前それ自体が、主は救い、という意味である、そのイエス様が、神様の救いの言葉として降ってこられた。人として30数年の生涯で、すべての人を背負われ、死んで、三日目に死から復活させられ、40日後に天に戻られる。しかしそのとき、決して空しくは戻られなかった。断じて手ぶらで戻られはせんかった。その手には、十字架ですべての人々の身代りに五寸釘で穴を穿たれたその手には、おびただしい人々の救いが握りしめられ、主は天に凱旋をされたのです。父よ、あなたがわたしに託された人々の赦しと救いを、わたしは勝ち取って戻りました。彼らの罪は赦されました。わたしは救いを成し遂げました。あなたから託された救いの使命をわたしは果たして戻りましたと、父なる神様に報告なさった。
クリスマスからイースター・昇天と随分賑やかになりましたが、神の言葉なるキリストが、父なる神様の望むこと、私たちの救いを十字架で成し遂げ、天使たちの歓喜の中を昇天されて、父の御許に戻られたというのは、ものすごい賛美と栄光に包まれておったに違いないのです。
けれども、それを遥かに超えて、もっと高い歓喜と栄光とすべての聖徒たちの賛美に包まれ、キリストが栄冠を受けられる最高の日がやがて来るのです。それまで私たちの道は低いでしょう。高みを目指して歩んでいるのに、低くて崩れそうになるのです。うつむいて泣きそうになるのです。その日がまだ来てないからです。でも、必ず来る。病もない、涙もない、苦しみも叫びも、死にたいという思いもない、復活の日が必ず来る。その前に死んでも、意外な死に方をしたとしても。それでもそのことを遥かに超えて、人間の思いを遥かに超えて、人間のあきらめも言い訳も屁理屈も、人間の道を遥かに超えて、神様の道が来たのです。どっか高いとこにあるのではない。人間が本当は知っていたその道を、私たち皆、罪を犯して断ち切って、道がわからなくなってしまった。道を失い、父から離れて、地上をさ迷う人間に、罪を犯した当然の報いを受けて当然の人間に向かって、道が突入してきたのです。その道こそがキリストです。わたしは道であり、真理であり、いのちであるとおっしゃった、その名を、主こそ救い、イエス様と呼ばれることを受けられた御子が、わたしが成し遂げる、救いの道を成し遂げると、罪を背負って下さった。全部赦しきって下さったから死を超える命に起きるのです。死んでなお復活の命に起こされて、キリストが、わたしが死んで復活したのは、この日のためだと、満面の笑顔で迎えてくださる復活の朝が、喜びの叫び以外の、一切の叫びがなくなる賛美礼拝の日が、絶対に必ずやって来る。私たちはその日を待つのです。やがて再び降られる主を、復活をたずさえて降られる主の日を、私たちは心を高くして待つ。それを待降節と言うのです。その日もまた、思いもよらないときに来ます。その日のために今を生きる。喜びの日に備えての今日なのです。