11/9/25朝長寿祝福礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書21:1-4、列王記上17章8-16節 「いのちを知る人」

11/9/25朝長寿祝福礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書21:1-4、列王記上17章8-16節
「いのちを知る人」

長寿の祝福を今年は少し遅れた日程で致しておりますが、無論、行事として行ってしまえば、後の364日は祝福とは縁がない、また来年と、まさかそんな安っぽい祝福ではありません。神様の祝福はいつもあります。ただ人間は、どうもそのことを、あるいは知っておっても忘れてしもうて、祝福に生き損ねてしまうのかもしれません。例えば家族に祝福されるのは、まさか誕生日だけではないでしょう。が、家族全体がそのことを忘れ、家族がそこにあるという祝福に生き損ねてしまうことも、悲しいことに少なくない。教会が礼拝ごとに祝福をする。また教会は、神の家族なのだと、神様が言って下さっている。ここに祝福があるのだと、ここに来て、この家族の祝福を中心にして、あなたに毎日を生きてほしいと、私たちを造られ愛しておられる天の父なる神様が切に願っておられます。
一昨日の金曜日、5月に教会修養会で招いた大串先生が改めて長老の研修会をしてくださいました。そこで改めて心に残りましたのは、先生が新しく教会を建てられた千葉県北総部にあるニュータウンの、街造りのコンセプト、考え方です。新しい街の中心に大型ショッピングモールをで~んと据えて、経済的に活気付いた街造りを計画した。そして教会とか、福祉施設とか、あるいは規模の小さいお店さえ、町の中心部には土地を買えない。町外れにだけしか建てられない。経済中心。お金中心の街造り。教会の礼拝堂を中心に据えたヨーロッパとは正反対の街造りです。その街に住む人の生活は大丈夫か、それでいいのかと心配になりましたが、では私たちの人生の中心には一体何が据えられているのか。他人事ではないと思うたのです。経済中心に回る人生、金に振り回される人生で終りだなんて、私はまっぴらごめんです。違うでしょうか。
大型ショッピングセンターは象徴的だと思いますけど、人間は、どういうところに価値を見出しやすいかというと、やはり大きいものとか、多いところに、心を引かれやすい。大きい方が価値があると思う。お金は特にそうでしょうか。昔の一万円札なんて、サイズからして大きくて子供ながらに目を引きました。サイズが小さくなった今でも、レジで、すみません、大きいがしかないがですけどと口では謙遜に言いながら、ちょっと自慢げな自分に気づくのは私だけでしょうか。
けれど私たちをご自身のかたちに造られた神様は、一人一人を、その心において見られます。人はうわべを見ますけど、神様は心を見られて評価をなさる。いま読みました御言葉で、十字架に架かられる数日前のイエス様が、当時のユダヤ人が神殿の前で献金を捧げている様子をご覧になられる。献金は神様に捧げるもので、それ以外ではありません。捧げるのであって、どうか決して支払わないで下さい。支払うのは料金です。祝福は、家族の祝福と同じで、決して買うことはできません。当時のお金持ちが、一体どう思って献金したかはわかりませんが、でもまさか、神様にと捧げている献金を、その神様ご自身が、そこで人となられて見ておられると知っちょったら、額も違っておったでしょうか(笑)。もし、というか、事実そうなのですけど、神様がこの後私たちが捧げます献金をじっと見つめておられたら、捧げにくいでしょうか。それとも親に見つめられた幼子のように嬉しいでしょうか。ところで献金の時、前に立っている長老が私たちの手元を見つめて、あ、少ないとか、わ、あんなに、とかはありませんので、どうぞご安心くださって、十字架の神様だけを見つめてください。
そのイエス様のまなざしが、一人のやもめを見出します。その手にはレプトン銅貨が二枚。今で言えば、50円玉2枚でしょうか。日本人のお賽銭感覚で考えるなら普通に思えるかも知れませんけど、ある人はこういうことも言っています。イエス様が言われるように、これが彼女の今持っている全財産であったなら、どうして1枚残して取っておき、夕食のためのパン一切れを買おうと思わなかったのか。色々考えられるかもしれません。パン1枚ぐらいしか食べれんやったら、全部献金したほうが、ひょっとえいことがあるかもしれんと、お賽銭感覚、ご利益主義で考える人もあるかもしれません。けれどそれならイエス様が彼女に心を動かされて、この人は誰よりも沢山入れた、とはおっしゃらんかったでしょう。持っている生活費と訳された言葉はもともと生命、ギリシャ語でビオス、命という言葉です。彼女は命を全部捧げたと、イエス様は、心動かされて皆におっしゃる。貧しいからこそ、一部だけというのではないのです。貧しいからこそ、精一杯捧げたかったのではないでしょうか。例えば親が一人暮らしの子供を別々に二人訪ねて、有り余る中からステーキをくれる子と、貧しくてパンが2切れしかないのに、これしかのうてすまんけど、私いんま食べてきてお腹すいてないきと全部くれる子と、どちらが愛してくれていると思うでしょう。経済中心の街に住み人生の中心までも狂わされ、お金中心の考え方で人間関係さえ考えて、これは私の人生の分、私が好きにしてよい分、で、余りを誰かに、あるいは神様にと、そういう心が生活に現れてくる。そういう生活から心も見える。うわべだけ見よったら見えてこんでも、心を見るなら見えてきて、見たくないけれど見えてくる、持っていた人々の心を見ておられたイエス様の心が苦しくなる。そこに、貧しいやもめが入ってきて、全部捧げた。イエス様、グッと来たんじゃないかと思うのです。あ、あの人とわたしはすごく似ちゅうと、思われたのかもしれません。
神様が私たちの代表として人となられ、私たちの罪を、全部その身に負われた。身代りに裁かれて赦すため、私たちの罪を十字架で背負って赦すため、ご自分の一部だけでなく、全部をお与えになられたイエス様がこの人を見られたとき、慰められたのじゃないかと思うのです。我が子をかばって背負って生きて、また死にさえする親が慰められるのは、その子が愛してくれたときじゃないでしょうか。けれどその子がもし、お父さん、僕、お父さんみたいにはなりたくないと言ったら、パリーンって心割れますよ。私みたいにガラスのハートなら、落ちた破片を拾い集めながら、ま…まあ、お父さんやち、自分の嫌いなところはあるし、極道なところとか、自慢げになるとことか似て欲しくないしと、自分を慰めようと考えることもあるでしょう。けんどもし、僕、お父さんみたいになりたいって言われたら、そらもう無条件で鼻の下のばすか、そら嬉しい。イエス様は、このやもめの心を見て、わたしを愛してくれて、うんと嬉しいと、改めて十字架に向かう決意を新たにされたのじゃないかと思うのです。そうだわたしは、この子らに全部捧げると。
日本語では、余生とか余命という言い方をします。互いに意味は違いますけど、どちらも余りの生命、命という意味でしょう。余りというのは、金持ちたちがやもめよりは多額の献金をしたのですけど、有り余る中から献金したと主が言われるように、余りというのは、もう大切な、価値のあるメインの部分ではないという響きがあります。私はこれも、経済中心、お金中心の価値観によって歪められた言葉、いのちの考え方だと思っています。違うでしょうか。誰が余りの命なんて生きたいでしょうか。余生という言葉を字引で引いたら、人生の盛りを過ぎたとありました。それこそ経済中心の考えか、うわべ中心、見た目中心、歪んだ人間中心の見かたでしょう。聖書が、人は神様のかたちに造られたと、宣言する、神様に由来する命のあり方。それ故、どんな人でも、どんなに齢を重ねても、決してズレることのない命の価値。失われることなく人と比べる必要もない。罪を犯して汚してしまっても、その罪を赦され神様の愛のもとで立ち返って生きられるように、神様が私たちの身代りとなられて十字架で死なれて、だから、あなたは生きなさい、わたしの祝福に生きなさい、歪んだ価値観から逃れ出て、わたしの前に生きればよい、あなたはわたしの目に高価で尊いと、キリストが、すべての人にご自分を全部捧げてくださった。だから、祝福があるのです。人は、罪赦されて救われて、神様の家族として永遠に生きられる。
教会で毎週礼拝が捧げられ、そこに集まる人々が神様の家族としての祝福を受ける。それも単にこの日が休日で、余暇の過ごし方の一つに、宗教的祝福を選ぶのではないでしょう。時間が余って暇だから、家族と時間を過ごすのではないのと同じです。有り余る中から、その一部をという生き方は、イエス様を悲しませた経済中心に歪められた金持たちの余生であり、神様の家族の祝福からは、遠く離れていないでしょうか。でもその子らが、どんなに遠く離れておっても、家に帰ってこられるように、神様が家路を開いてくださった。キリストがご自分の全部を差し出して、全部の罪を背負ってくれて、全部、赦して下さって、あなたもわたしの家族じゃないかと、家路に招いてくださった。この家族の祝福に生きるとき、いのちのズレは直されます。神様の家族の祝福に生きられるのです。
齢を重ねていようといまいと、たとえどんなに若くって、人生の盛り全盛であっても、大切な命を浪費して、余生になることはあると思います。だったら、全部生きると書いて、全生と。そういう熟語はありませんけど、一回限りの命なら、全部捧げて生きていく人生。神様の家族の祝福に全部生ききって、後悔なし。漢字で書くとわかりますけど、余りという字の下の点々、何か困った顔の目のような、あの点々を、まるで種を地に蒔いて手元からなくすように、捧げてしまってなくなったところに、スッと地面の線を引いたら、全部の全という字です。一部ではなくて、全部捧げて、種蒔いて、今日の食事の種であっても、蒔いて実るかどうかもわからん、自分では食べられんかもしれない種を、イエス様の十字架を仰いで全部蒔いて、神様を信じて全部蒔いて、人々の救いのために、笑顔のために、神様の家族の祝福のために、天の父なる神様の嬉しい笑顔を見るために、全部蒔いて、捧げて、後悔なし。その種は、絶対、無駄になりません。神様が無駄にさせません。十字架のふもとに蒔かれた種は、神様が全部面倒をみてくださいます。その種は復活するのです。いのちは、増し増していくのです。これが神様のいのちです。キリストが、私たちを祝福してくださった命なのです。