11/10/2礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書21:5-19、ダニエル書12章1-3節 「命の法廷に立つ証人」

11/10/2礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書21:5-19、ダニエル書12章1-3節
「命の法廷に立つ証人」

二週続けて、うわべに惑わされやすい心の弱さに気をつけなさいと、イエス様がおっしゃってくださった御言葉を聴いてきました。今読みました御言葉も、その続きであると言えるでしょうか。やっぱり人々が、見とれておりました。何にか。立派なエルサレム神殿にです。ユダヤ人の自慢でもあったと言われています。神殿の中身たる、礼拝が捧げられるべき神様よりも、目に見える外側に、やっぱ見事やねえと見とれてしまう。それは、相当に危ないと。その決定的理由をイエス様は言われました。あれは全く残らない。人々が見事だと言っている、その石の一つさえ、崩されずに残ることは決してない。だから崩れて残らないものでなく、永遠に残るものにこそ、目をとめるべきではないか。でないと、あなたの命そのものも、一緒に崩れてしまいはせんか。神殿なんてのは残りはせん。なら何が残るか。あなたの命ではないのかと、私たち一人一人に命をくださった、命の主ご自身が問われるのです。
ただその命は、自動的に残るというのではないと言われます。忍耐によって、命を勝ち取りなさいと、訳されて言われます。勝ち取ると訳されると、どうも、宗教熱心であれば、その功績が認められて永遠の命をも獲得できるようなイメージがあるかもしれません。しかし何度も繰り返し言いますが、自分の力で命を勝ち取った赤ちゃん、新生児が、一人もおらんように、永遠の命も、ただ神様の愛によって受けるものです。自分の力で勝ち取れるような命や救いの神がおるなら、そしてそれをも父と呼ぶのなら、何と偏った、実力主義で功績主義の、偏差値に支配された悪魔的な父でしょう。それは世界を造られた神様ではありません。世界の父は、人となられた御子キリストによって世界の罪を赦されて、どんな人でも家に帰ることができるよう、道となられたキリストの父、十字架の父です。その十字架の赦しの道、恵みと憐れみと正義の道に、父よ、私も帰らせて下さい、私の罪を赦して下さいと、祈って、両手を差し出す我が子が、どうして命を得ないでしょう。父が、その手に命を下さるから、得るのです。勝ち取ると訳すよりは、むしろ手に入れる。勝つというのであるのなら、この父から頂いた永遠の命、神様の子供として受けた命を、損なわせようとする誘惑に勝つということでしょう。罪とか赦しとか、そんな神を信じるがは止めと誘惑し迫害して、もっと自分の力を信じろと迫ってくる害、つまり迫害と誘惑に勝って、いや、この命はいただいた命やき、だって、命ってそうやか、あなたの命も、そうでしょうと、永遠の命の中身、命の主である神様の、証人となって生きて行くのだと、イエス様はおっしゃっているのです。
だけれども、うわべに捕えられ、心鈍くなり、どうしても神様と命を結び付けて考えられない私たちを代表するように、え、この見事な神殿が崩れるって、そりゃもう世の終りが来るのじゃないですか、その徴、サインは、どんなサインを見ればよいのですかと、やっぱり、見ることに捕らわれている。で、改めてイエス様が言われる。惑わされないように気をつけなさい。これが世の終りの徴ではないかと本当に色々、やれ救世主だ、やれ世の終りだ戦争だと、たくさん目に見えてくるけれど、それはいつの世にでもあることで、そんなのは徴ではないから惑わされるな、罪多き世界のうわべに、惑わされるなと注意をなさいます。
うわべだけ。中身は、違う。それが惑わしですけれど、神殿の崩壊であろうと、エルサレムの滅びであろうと、やがて来る世界の滅びであろうとも、そこで人々に訪れる崩壊の中身、死の内実を悟らなかったら、いつ人は悔い改めて神様と出会うのか。死とは、私たちの命を造られた神様の前に立って、死んだと思ったら目が覚めて、終わったと思ったら永遠の神様が目の前におられて、あなたはどんな命を生きたか、どんな命の中身を生きたかと問われる。自分がこだわったうわべは問われず、まったく問題にされることなく、うわべの全てが崩れ落ち、はがれて、露にされて、中身こそ白昼にさらされて、あなたは人々を実際に愛する愛に生きたか、正義に生きたか、この最も小さき者の一人にあなたは何をしたかと神様に問われる。そこでどんな中身が残るか。そこに一人の人間の真実があるのです。そして、そこにキリストが共に立ってくださっている。そのキリストの赦しを信じる。そこに私たちの信仰の内実があるのです。だから立ち上がって生きていくことができる。
なのに人間は死の内実を見損ねて、滅びのうわべに惑わされ、そこで神様に向き合わず、何とか死を克服しようと、うわべで頑張ってしまう結果か、滅びを前にして、欲望が露にされるのです。俺が救い主だと、己を神にしたい欲望がごそっと現れる。方や、露骨な戦争を引きおこし自分の正しさや力を誇示して、自分の欲しいものを文字通り勝ち取ろうと、人々を自分の欲望に巻き込む。あるいは、自分を守るための正しい自己防衛であるのだと、魔女狩り、ホロコースト、ルワンダやコソボで遂行された民族浄化という名の虐殺。日本でも、外国人迫害に対しては言うまでもなく、日本の国を守るのだからと天皇崇拝を強制し、今でも例えば大阪府知事や都知事は、中身を問うなら同じことをしているという自覚が、きっとあるのではないかと思わざるをえません。結局、人間の自己保身、自己満足、自己中心が露出して、罪の本性が露にされる。神様よりも、人よりも、自分を満たそうと命が歪み、心が歪む。
自分を勝ち取ろうと罪が勝ち誇る世界の真ん中で、どうしてキリスト者が黙っていることができるでしょうか。大きなことはできなくっても愛の業をせざるを得んでしょう。キリストの愛を何とか伝えなくてはと祈り、キリスト者として生きるでしょう。たとえ迫害を受けてもです。この葛藤を知らないキリスト者はおらんと思います。仮に負け続けておったとしても、愛の葛藤がある。私たちの内に住まわれるキリストの霊と、キリストの愛によって、居たたまれない思いにならざるを得ない。そして、キリストの名の故に、その十字架の主の名の故に、俺が私がの渦巻く人間の罪の法廷の真ん中に連れて行かれることもある。大変恥ずかしい話でありますけれど、日本基督教団では、この迫害が教団総会や教区総会の議場でも露になった歴史があります。ある牧師は、当時総会の主導権を勝ち取っていた人々から四面楚歌の集中砲火を受けて、牧師になることが一年間できなかった。そして、次の教区総会を迎えた時、そうだ、この人々に勝とうとするのではなく、この人々に十字架の福音を伝えよう、キリストの愛でこの人々を愛そうと、自分はどうなってもかまんからと、まっすぐにキリストの愛をもって彼らに心から語りかけたら、前回紛糾して会議にならなかったほどの議場から、この人は牧師になるべきだと拍手を受けて、それで牧師になれたと聴きました。
主がここで約束してくださった、誰も反対できない言葉と知恵とは、十字架の言葉と知恵以外に何があるでしょうか。自分を捨てて、この人をお救いくださいと命を投げ出して、罪を赦す。その憐れみの言葉以外で、どうしてキリストを証することができるでしょうか。キリストは、ご自分の僕が迫害を受ける時をさえ、それは罪に惑わされている人々に救いを語りかける機会となると言われます。それはチャンスだ、そうだろうと言われる。皆が皆、はい、そうですとは言えんかもしれません。イエス様も十字架を前にして苦しまれたのです。苦しまんはずがないのです。忍耐のない愛があるのでしょうか。愛故に私たちが悶え苦しんで祈る、その中に十字架のキリストが立たれるのです。神様の栄光が現され、赦しの愛が輝くのです。人は私たちの自由を奪い、命さえ奪うかも知れません。けれど、それは私たちの命のうわべで、そこに中身はないのです。私たちに与えられた命の真実、永遠の命は、誰も私たちから奪えません。
御言葉を二つお読みいたします。コロサイの信徒への手紙3章1-4節。「さて、…栄光に包まれて現れるでしょう。」
もう一つ、ローマの信徒への手紙8章31節以下。
「では、…引き離すことはできないのです。」
キリストの愛と命を、誰も私たちから奪い取ることはできんのです。なおキリストはそこで自分を勝ち取ろうとする人々に、ご自分の命を差し出され、ここにあなたの命があると、赦しと聖霊様をお与えになられる。人にはできないことも、神様にはおできになる。そのキリストを証するのです。キリストが救いの御業を行われます。私たちに求められているのは、キリストを、その人に差し出すことであるのです。