11/4/3朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書16:1-13、ゼファニヤ書2章1-3節 「小事に忠実なれ」

11/4/3朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書16:1-13、ゼファニヤ書2章1-3節

「小事に忠実なれ」

 

この御言葉を読んで思い巡らしているうちに、ふと思い出したのは、昨年6月に召された金田姉妹の笑顔でした。月定献金を捧げられた後、まるでこれで思い残すことはない、やるべきことは全部やったというような満面の笑顔で、ひゃあ、これから一月どうやって暮らしていこうかと、つぶらな瞳を更に細うされ、満足そうに笑っておられた、その姉妹の笑顔を思い出していました。姉妹が不正な管理人だったというのではなく、その逆ですので、え、と思われた方はご安心ください。牧師しか知らん姉妹の秘密があったというのでは決してありません。

けれど、この御言葉が、私たち聴く者の、しかも、人には知られにくい個人の生活の秘密に触れるというのは、確かではないかと思います。皆が神様から問われるのです。あなたに管理させているわたしの富を、あなたは賢く用いているか。それとも無駄遣いしてはないかと、富の主である神様が問うておられる。私たちは皆、私たちの主である神様から託された富の管理人だと言うのです。私は皆さんにお金の使い方の明細を出しなさいと言うつもりも、口座に幾らあるか尋ねるつもりもありません。断じて、皆さんの透明性を求める神様のオンブズマンになるつもりはありませんので、その点は信頼して頂ければと思います。ならば私は、イエス様の言い方で言えば、不正にまみれたこの口で何を語ろうとしているのか。友を作ろうということです。信仰告白の言葉で言えば、愛の業に励もうということです。人々に主のご奉仕をすることで、私たちの友となられた主の弟子として、友として仕えたいのです。

「不正にまみれた富」と聴いたら、まるで泥棒でもして稼いだお金のように思われるかもしれません。私はそんなやましいお金は持っていない。だから、私のお金を用いるときも、やましい気持ちはないと思う。でもこの一月、そのやましくないお金で何か買おうとするとき、例えばコーヒー一杯買うとき、そのコーヒーを今飲むことができん人々のことが心に浮かび、一月前にはなかったような、ためらう気持ちがなかったでしょうか。それが正直な気持ちではないかと思うのです。私のお金はやましいお金ではないはずなのに、やましい気持ちになってしまうとしたら、やはり、わかっているのだと思うのです。これは私のお金ではないのだと。不正にまみれた富というのは、不正をして稼いだお金ではなく、お金そのものが不正にまみれている、あるいは不義である。正義ではないという意味で、イエス様は、不義な富、不正な富と言うておられます。何故か。あなたがたは、神と富とに仕えることはできないからだと主は言われます。神様の御心に従う管理人として、賢く富を用いなければ、富に、仕えるようになってしまう。だから、お金は正しくない。買い物に行くとわかります。俺を買え~、私を買って~、買うと幸せになるよ~と誘ってきます。無論、自分の欲望が誘うのですが、お金を巡るシステムそのものが、私たちを神様に仕えて生きることから、あたかも引き離そうとする空間、世界を造っているとさえ言えんでしょうか。だから富は不正だ、正しくない。神様からあなたを引き離して、いや~神様に忠実に生きるなんて、だって、別に忠実でなくても良いだろうと思わせる。そうさせるものは何であれ、それは正しくないだろうと主は言われます。「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と。お金の問題は、神様への忠実さの問題、愛の問題であるのだとイエス様はキッパリ断言なさるのです。

このお話をイエス様がなさったのは、弟子たちに対してです。すぐ前の放蕩息子の譬えで、父の財産を無駄遣いしたという弟の話があり、兄は無駄遣いはしなかった、ように思えるかもしれませんが、さて、どうでしょう。放蕩はせんかったかもしれません。ならば、賢く用いたか。確かに富は私たちと神様との関係を壊しやすく、神様に忠実に生きんでもかまんとうそぶきます。そういう不正な富であっても、それでもその富を忠実に、賢く用いて、友を作るなら、無駄遣いにはならんのです。その最も際立った例を、イエス様は19節から続く金持ちとラザロの譬えで、反面教師的に語られます。後で読んで頂ければと思いますが、この金持ちは、貧しいラザロの友となることをせんのです。挨拶さえしたでしょうか。ラザロのために金を使うなど考えもせんかったろうと思います。自分とは関係のない人だと思っておったのか。善きサマリア人の譬えで言えば、関わらんほうが賢いと、隣人になろうとせんかった。他人の距離をとった。自分の良い生活のために、愚かな金の用い方をした。そしてイエス様の譬えでこの人は、永遠の住まいに迎え入れてもらえませんでした。極端な例かもしれません。あたかも信仰は一切問われず、天国に行くにはやはり善行が必要だと教えられているようにすら思われるかもしれません。けれど、どうしてイエス様がこの話をなさったか、そのお気持ちは考えなければなりません。お金を無駄遣いすることは、永遠の住まいに関わってくるほど、危険であると言われるのです。弟子たちに対しても言われるのです。たかが金だと、いい加減にせず、不正な富でも、賢く用いよと言われます。

それは神様から託されたお金の管理人として、この富を忠実に用いるということです。神様の御心を知って、しかもよく知って、神様が誰のために、またどのようなことのためにこれを用いなさいと管理を任して下さっているのか、そのご計画に忠実たることが求められます。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。逆に、ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。ここで、不忠実と訳された言葉は、不正という言葉です。正しくないの反対は正しいかと思ったら違うのです。不正の反対は忠実だ。忠実でなければ不正を働いている。またそれが永遠の住まいに迎え入れてもらえる正しさでもある。無論、不正な富で作った友達が、ねえ、神様、可哀相やき入れちゃってもえいろうと門を開けれるわけではありません。さっき言いましたラザロの話で「わたしたちとお前たちとの間には大きな淵があって、ここからお前達の方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に超えて来ることもできない」と、イエス様がアブラハムに語らせる通りです。永遠の住まいに迎え入れる正しさを持っているかどうかを決められるのは、神様です。だから私たちが忠実であること、信頼たる者であることを、主は求められます。信頼によって結ばれた関係、それが正しさではないか、それが信仰ではないかと言うておられるとも言えるのです。

ならばその信頼の正しさ、神様を信頼し、神様からも信頼される主の弟子として歩んでいくとき、そこで神様が求められる正しさは、じゃあどこに向かうか。内向きに自分の良い生活に向かうでしょうか。いや、そもそも私たちは、自分は忠実な管理人だ、神様の信頼に足る者だと言い得るでしょうか。あるいは自らを省みるとき、不正な管理人であるにもかかわらず、その私の友となるために神様が来て下さった。十字架の苦難をも省みず、神様が人となって死ぬために来て下さった、キリストが来て下さった恵みを知るのです。私のために、そして、私と同じように神様に対して負債のある多くの友のために、キリストはごく小さな事に過ぎない富などでなく、命を使い切って下さいました。まるで浪費するが如くに使い切り、放蕩するが如くに使い果たされて、それでいて、これは断じて無駄遣いではない、そうだろう、違うか、わたしはあなたを友として得ないかと、命の大事を使い果たしてしまわれた。

そして私たちに向かって言われるのです。あなたも友を得なさいと。イエス様のなさった譬えの中で、不正な管理人が唯一行った正しい事、それは友のためお金を使い、あたかも浪費するが如くにお金を使って、友を作ったことなのです。同じことを、あなたもしなさいと言われるのです。不正な富を用いて友を作りなさい。愛しなさい。伝道しなさい。彼らの隣人となりなさい。善きサマリア人が散財したように、神様の愛のためにこそ富を用いて、主の憐れみの内に人々を置きなさい。そのとき富は不正ではなくなる。何故なら忠実に用いるからです。そもそもそのための富である。これこそ神様の御心に忠実な、正しい富の管理だと言われます。命に比べたらごくごく小さな、小さな事であるこの富を、あなたは友を得るために、どんどん使ったらよいと言われるのです。そうしておけば、金がなくなったとき、いよいよ主の弟子として託されていた、すべてのものを使い切ったとき、友なるイエス様が永遠の住まいに迎え入れて下さいます。良くやった。良い忠実な僕だと言って、永遠に大きな喜びの富に、私たちを迎え入れてくださるのです。

だから私たちは待ち望みます。どんなに小さな愛の業でも、精一杯、その小さな愛の業に励みつつ、主が再び来られるのを待ち望むのです。