11/4/10朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書16:14-18、サムエル記上16章5b-7節 「神様は心を見られる」

11/4/10朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書16:14-18、サムエル記上16章5b-7節

「神様は心を見られる」

 

神様は私たちの心を知っておられる。こりゃ、まずいと思われるでしょうか。ああ、良かったと思われるでしょうか。それぞれかと思いますが、いずれにせよ、神様が私たちの心をご存知で、じゃあそれで終りとは、まさかならんでしょう。でなければ相変わらず神様と私たちの間の距離は遠いまま、知られていようが知られていまいが、別に何一つ変わらんということになってしまいます。そんなはずはないでしょう。神様に心を知られてまずければ、ごめんなさいと言うでしょうし、知られて安心をするのなら、その距離はグッと近くなる。ごめんなさいと言うのにも、遠いまま言うことはできんでしょう。その距離をイエス様は言うておられるのです。ほら、近うなったろう、神様はうんと近いがやき、これからは神様の目の前で、うんと新しく生きていきなさいと招いておられる。それが今朝の御言葉の本筋だと言えばわかりよいでしょうか。

古い決まりの時代は終わった。今や新しい福音の時代が来た。それがキリストの宣言です。だから、今までの生き方は、もう終りにしよう。自分とは違う考えの人を鼻で笑い、その名を愛と呼ばれる神様を軽んじるような古い生き方はもう止めて、神様のお心に寄り添って新しく生き始めよう。これが神の国への招きです。あなたも福音の自由の中に入ってごらん、しかも激しく、「力ずくで」と言うよりは、激しく入ってきてごらんと、キリストは私たちの刷新を呼びかけておられます。

先の木曜日に高知中央教会の祈祷会に向かって車を走らせておりますと、着物を着たお母さんやスーツのお父さんと手をつないで、ちょっと緊張した顔の子供たちが学校付近を歩いている。あ、入学式かと、桜のハラハラ舞い散る道路を走りながら、こっちまで少し気持ちが改まりました。新しさに緊張するのもまた良し。私はもう小学校の入学式は覚えてませんが、中学校の入学初日は覚えています。初めてのクラスルームで担任に、校長先生はどういう訓辞をされていたか、野口、といきなり質問されて、超舞い上がったのを覚えています。当時は坊主頭でした。たぶん顔中赤うなって、タコ坊主みたいだったんじゃないでしょうか。それ以来校長の話は聞くようになったように思います。ただ、テスト前の一夜漬けの悪癖だけは中々直らず、高校生になったら、大学生になったら、社会人になったら、神学生になったら、牧師になったら、え~…後は隠退教師になったら、二日前ばあに説教準備が終わるでしょうか。こんな絶望的な私をもイエス様は、大丈夫や、幸生、わたしが来たき、新しくなったき、本当に新しくなったがやき、あなたは新しく生きてえいがぜよと招いて下さる。それはまるで私が自分の古い生き方を、あたかも言い訳をしゆうように聞こえるかもしれんほどにです。でもそれほどまでにイエス様は、大丈夫、これはそれだけ決定的な新しさながやきと、激しく励まされるのです。救い主が来られたというのは、それだけ決定的な新しさに、あなたはもう生き始めて良いという福音なのです。ならばこそ、こんなだらしない私であっても、よし、イエス様に頼って自分を変えようと思えます。新しく信仰が生まれるとすら言える。別にかまんじゃかと開き直ろうとする空しさから、そうやって自分を正しいとしようとする古い生き方から、キリストによって解放されるのです。自分に固執するがんじがらめの人間の只中にキリストが来て下さって、あなたは、わたしの中で生きなさいと招いてくださる。

皆さんは、私はもうこれは、直す気もない、神様が直して下さるとも信じてない、直さないかんとももはや考えてない何かってありますか。イエス様の招きを鼻で笑ったファリサイ派の人々にとって、その一つは金に執着することでした。直訳は、金を愛しておった。イエス様が続けてお金の話をされて、それはあなたのものではないから、自分の金という執着を捨て、神様の御用のため、人々の救いのために、浪費するが如くに用いたらよいとおっしゃった。それを聞き、ハァと思ったのでしょう。神様が頑張っている私を祝福して下さった金だから、これは神様が下さった私の金だ、私の祝福の金なんだと、結局は、自分に執着する。自分の金、自分の頑張り、自分の正しさ、自分の祝福。お正月ぐらいでしたか、ハーバード大学のサンデル教授の授業風景をNHKで放映していましたのを興味深く見ました。哲学の授業です。その中で教授が、君達がこの大学を卒業し例えば弁護士になって大金を稼いで豪邸に住んで、しかし金持ちではない人々の福祉のため、稼いだほとんどのお金を税金で取られるのは、正義かと問う。すると一人の学生が、私はこの大学に入るため、多大な犠牲を払い血の滲む努力をした。でも同じような努力をしてない人の福祉、幸せのために、自分が努力して得た金を取られるのは不公平だ、正義ではないと答えた。すると教授が、では君がそうやって努力することが幸いにも許された自分に与えられた環境、また君に与えられた生まれ持った才能も、君が努力で勝ち取ったものだろうか、自分の努力主義、功績主義、自己責任主義という考え方は、自分を過大に評価して正しくないのではないかと大体そういう話をされた。私はそれを見て、もしイエス様があのクラスにおったら、あなたは神の国から遠くない、と言われるのじゃないかと、そんなことを思っていました。この教授の信仰は知りません。けれど、主が、人に尊ばれるものは神様には忌み嫌われるものだと言われたとき、イエス様がこのファリサイ派の人々にわかって欲しかったことと、教授が学生にわかって欲しかったことと、かなり近かったのではないかと思うのです。正しいとは何か。自分の正しさで終わっていて良いのか。人に尊ばれるものという言葉は人が高いとするもの、高く評価して、これが高い、これが偉い、これが正しさの基準となるほどに、自分の目に高く見える、という言葉です。自分の努力、自分の能力、自分の財力、一昔前、三高と呼ばれていた、高身長、高学歴、高収入みたいなもんでしょう。それが結婚の条件だと言われていた。神様やのうても、オエッとならんでしょうか。神様なら尚更です。忌み嫌われる。ギリシャ語の発音で、ブデルグマ。何かもう胃の中身がそのまま込み上げてきそうな音です。人が、自分が自分がと思って、これが高い、これが正しい、これがと執着しているものを神様がご覧になったら、ブデルグマっと神様は胃がむかついて顔を背けたくなられると、イエス様は言われるのです。

無論、努力は素晴らしいし、高収入がいかんというわけではありません。むしろ努力も含め、主が与えて下さる恵み、良いものです。祝福のために与えられた恵みで間違いはない。恵みには祝福するという目的があります。それは神の国の祝福を皆に分け与えるためという祝福です。世界が始まったときからそうなのです。産めよ、増えよ、地を満たせ、地を支配せよと神様が人間に最初にお命じになられたときから、世界は神の国、神様の愛のご支配によって満ちるべき世界として創られたはずです。一人一人に主から与えられる恵みの配分は違っても、その目的は私たちが皆、神様の一つの家族として共なる祝福を喜ぶこと。違うでしょうか。なのに自分自分という罪が入り込み、神様の恵みを横取りし、自分の祝福、自分の正しさで満足し、神様が与えて下さった恵みすら、吐き気がするものに変えてしまう。その罪とは単に、この行為は罪で、この行為は罪ではないと、罪のリストやカタログを作って片付けられるものではないと、例えば当時ファリサイ派の人々が、これは罪ではないと自分の都合で左右していた結婚と姦淫の問題をイエス様は例にあげられます。律法はこれを単に行為の問題として、何が姦淫で姦淫でないか分別したのか。違うだろう。神様の祝福の目的を、そんな風に分別し、だから私は罪は犯してないと言えるのか。なら殺人とは何か。心に憎しみを抱いたら、あなたは殺人者だ、違うかと主は問われるのです。心を自分自分で満たしたらそうなる。神様はその心から顔を背けられる。だって神様はあなたを愛しておられる、あなたの天の父だから。あなたの父は、いつもあなたの心を見ておいでだと主は言われるのです。

そしてならばこそ、父はキリストを世にお与えになられて、十字架にかけられ、私たちの身代りに裁き死なせ、自分自分で心を満たさずにおれないどうしようもない私たちを、御子の死によって赦すと、父は決定されたのです。それが決定的なのです。イエス・キリストが来られたことが、どうしてそこまで決定的か。どうして私たちは決定的な新しさに生きて良いのか。キリストが私たちのところに来て下さって以来、誰でも神様のご支配の只中に、ただキリストの故に入れるからです。あなたを赦すと御子をくださった父なる神様が、あなたは御子によって新しく生まれ変わる、自分を正しいとする古い自分を脱ぎ捨てて、既に与えられているキリストの恵みに、神の子とされて生きて良いと、キリストの救いをくださったからです。

これが激しい福音です。十字架のキリストの恵みを受けて、赦されて人は救われるのです。無論、赦されているから自分の好きなことをではありません。律法が廃棄されたわけではありません。むしろ律法がわかるのです。神様の恵みの本当の意味を心に受けたら、律法にアーメンと言えるようになる。こんなにも自分から自由な生き方があったかと心が楽になるのです。それが言うなれば、キリスト持ちの生き方です。お金持ちでなくてもよいのです。キリスト持ちであることが嬉しくなる。自分の正しさはどうでもよくて、こんな私をも愛して下さるキリストの救いの正しさを、人々に見てもらいたくなるのです。キリストから受ける恵みによって、人に仕える生活に新しくされます。その生き方も心も、人には、わかってもらえんかもしれません。でも、天の父は知っていて下さいます。それだけで安心できるのです。キリストを与えて下さった父の憐れみに身を置いて、キリスト持ちとして安心して、御心に生きれば良いのです。