11/2/6朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書13:22-30、ホセア書12章3-7節 「関係の有無は愛の有無」

11/2/6朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書13:22-30、ホセア書12章3-7節

「関係の有無は愛の有無」

 

先週の月曜火曜と、教団21という重要な会に出席するため大阪に行ってきました。一言で会の趣旨を言えば、日本基督教団が、自分の好きなように教会をやってきたことを早く止めて、神様の十字架の愛に本気でひれ伏し悔い改めて、伝道する教会になるよう努力する。熱い会です。それで大阪行きの高速バスに乗って、途中十分間の休憩をする。お客がバスに戻ってくると、運転手がカチカチカチとカウンターで人数を数えます。何故でしょう。そら、一人でも置いてったらえらいことになるきということもありますが、もう一つあります。乗客の顔を知らんからです。だから、数で数える。

イエス様が言われた、狭い戸口から入りなさいって、バスの入口よりも狭いでしょうか。脱衣所のロッカーみたいに幅30センチとか。仮に、教会の玄関の戸が30センチしかなかったら、大人は入れるでしょうか。横向いてお腹を引っ込めないかんかもしれません。だから道徳的メタボにならんよう努力し痩せて修道僧のように頑張ってないと救われんというお話なのでしょうか。だったら救われる人は少ないかもと案ずる人がおっても当然だと思います。じゃあイエス様は、何の努力も必要ないと言われたか。極悪人でない限り自動的に皆天国に行くと現代人が何故か信じているように、まあ、そういう努力する気持ちがあればえいとは、イエス様やはり言われてはないのです。狭いドアから天の家、神様の家に入るように、努力をしなさいと、確かにイエス様はおっしゃいます。ならばその努力を要する狭さとは、どんな狭さを言うのでしょうか。

ヨハネによる福音書では、イエス様が、わたしは羊の門であると言われました。当時、羊の群れを囲いの中に入れるのに、一匹しか通れない狭い入口のところに羊飼いが立っていて、あるいはしゃがんでおって、一匹一匹、よし、メリーお入り、はい、ドリーお休みと、一匹一匹確認して、最後にその狭い入口に自分が座って、獣や泥棒から自分の羊たちを守ったと言われます。カウンターなんか使いません。教会の受付にもカウンターなんか決して置きません。イエス様がそうされんからです。だからイエス様は「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」との問いに、それは多い少ないの問題だろうか、むしろ、そこにあなたが入っているかどうかではないのかと、逆に私たちに向かって問い掛けをなさいます。あなたはどうですか、あなたは神の国のお話を聞いたことのあるその他大勢の内の一人ではなくて、個人的に、家族がそうであるように教会員同士が互いに兄弟姉妹と呼ぶように、そして神様を父と、その顔を知っているかの如く父と呼ぶように、神様と個人的で親しい関係を、あなたは持っていますかと問われるのです。羊の門の譬えでは、門を通って囲いに入ろうとしないで、他のところから囲いを乗り越えてこようとするのは、そら泥棒やろうという話をされました。じゃどうして泥棒は羊飼いのいる門から入ろうとしないのか。そら顔を見られたくないからでしょう。何でか。自分が何者であるかを知っているからでしょう。そして、もし正面から行ったら、不義を働くのはやめなさい、罪はもうやめるようにと、この羊飼いは必ず私に言うだろうということをきっと知っているからではないかと、一人の元泥棒として私は思うのです。

イエス様と一緒に食べたり飲んだり、教えを受けただけでは、わたしはあなたがたを知らないと言われる。どうしてでしょう。薄情だからでしょうか。前にTV番組で、大阪のおばちゃんがある芸能人にやたら親しく話し掛けて、あんた、何~そんなよそよそしい、まったく知らぬ仲じゃあるまいし、いや、知らん知らんというのを見たことがありますが、イエス様も、もうちょっと情を厚くしてくれてもえいのにということは果たして言えるのでしょうか。どうしてイエス様は、立ち去れとすら言われるのか。情が薄いとかどうとかの推測の余地なく、実はイエス様も理由はハッキリ言われているのです。不義を行う者だからです。不義。神様の前で正義に反することを行っている者だから、ここに入ることはできないと言われる。じゃあ罪を犯したことのない者などいるのかという議論になるかもしれません。でもそういう議論ができるのは何故かと言えば、やはり私たちは心のどこかで、自分が神様の前で正義に反することを実はしているということを知っていて、仮に日常では知らん振りができたとしても、罪の問題、または汚れの問題は何とかしないといけないと、やはり知っているからでしょう。もちろん神様もご存知です。知らんと言っても、全く知らん、え、誰?わたしがあなたの父?いや、知らん知らんなどと仮に人間の父は全く無責任に言い得ても、キリストをくださった天の父は、無責任なことは断じて一つもなさいません。そしてそれが故に罪は必ず裁かれます。ならば神様と私たちの間に揺るがぬ何かしらの関係が何よりも先ずあるとしたら、神様は神様であられ、私たちはその神様の前で罪を犯してきた人間であるという関係です。

しかし聖書が語る、お互いに知っている仲という関係は、そこに愛のつながりがあるかどうかです。無論一方通行ではない、例えば気持ちのキャッチボールがなされる関係です。いつくしみ深い友なるイエスという歌がありますが、じゃあ私はイエス様に対しての友情を形で現しているかが問われる。それが友情関係という関係でしょう。あるいは家族と言ったほうが、もっとわかりやすいでしょうか。血のつながりがあれば自動的に家族でしょうか。血縁関係ではあるでしょう。でも血がつながってなくっても、家族になれるのが家族である。これは揺るがせにできません。家族とはなるものであるということは、本当に切実なことだと思うのです。先生、仲悪いのかと勘ぐられても困りますが。以前、平岡さんが救急で入院された時、私と鈴木純さんと教区総会に行っておったので、鈴木先生と私の妻とで、急きょ集中治療室に見舞いに行ったことがあります。それで、ご家族ですかと尋ねられて、鈴木先生が、はい、神の家族です、私は牧師で、この人は牧師の奥さんでと言われたので、看護婦さんはひょっとえらい勘違いをされたかもしれませんが、さすが鈴木先生と尊敬しました。本当に家族なのです。カウンターでカチカチ数えられている人などは、ここには一人とておらんのです。それが証拠に鈴木先生は平岡さんに面会されて、意識のない姉妹の手をギュッと握ってお祈りをされたら、後で平岡さんが言いますのに、夢の中であっちに行こうとしよったら、手を捕まれて引き戻されたけんど、あれは野口先生の手じゃなかった。もっと太うて毛だらけやったと、ああ、それは鈴木先生やねと笑ったのですが、二日後に私が手を握ったとき、意識が回復して医者も驚いておられたのを覚えています。それほど知っているのです。また神様に知られている。この者たちは家族である。わたしの家族だ、よく知っていると、神様が言ってくださる。

じゃあ、そのような神様の家族にどうやってなれるかと言えば、そのために神様が御子を人としてお遣わし下さって、十字架で私たちの罪の身代りに裁きを受けさせて命を取られ、だからあなたの罪はもうわたしたちの間を引き裂かない、その代わり、独り子の体を引き裂いたから、あなたの裁きを受けさせたから、あなたはわたしの家族として戻って来なさいと、家のドアを全開に広げて、さあ帰りなさいと言ってくださった。そのドアを通って入るのです。幅30センチってことはありません。どんな人も通れる入口です。ただ一人一人しか通れないその入口の前にイエス様が立たれて、友よ、あなたはわたしを誰と呼ぶのか、わたしはあなたにとって誰であるのかと、顔をまっすぐに見て言われるのです。あなたも父の子だろうと、家族には、なるのだと言われるのです。