11/2/13朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書13:31-35、詩編61篇2-5節 「不退転の十字架」

11/2/13朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書13:31-35、詩編61篇2-5節

「不退転の十字架」

 

一昨日、清和学園の高校三年生の卒業式に出席しました。とても良い式で、特に卒業生の答辞が素晴らしく、その締め括りとして、この学校で私たちは自分を愛するように自分の隣人を愛することを学びました、そして在校中、何度も何度も、あなたがたは神様によって集められて来たのだと聴いて来たけれど、今、本当にそうだと思うと涙ながらに述べられたのを聴き、心から感謝しました。世の中では、自分を信じろとか自分を愛しなさいというメッセージが横行しますけど、ああ、彼女たちは、自分を愛するように隣人を愛しなさい、それが愛だろうと学んできた。神様の祝福を本当に受けてきたのだと胸が熱くなりました。聖書の中に、世の終りのとき、人々は自分を愛するようになると、テモテへの手紙二の3章に警告がされています。イエス様は、それは、愛が冷たくなるということだと言われました。隣人を愛さない愛は冷たい愛だ。私たちは、この学び舎で愛を学んだ。そう謝辞を述べられる。いやあ将来はそんなに暗くないぞと思いました。私たちがここに集められているのも、同じ主の愛に生きるためである、改めてそう思うのです。

イエス様が、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならないと言われた。それもまさか我が道を行くということではありません。もともとの原文には、自分の道をという言葉はなくって、ただ進まねばならないと主は言われた。なら進まねばならないとは、どんな方向に進まれるのか。それを補足して付け加えた訳なのでしょうけど、何でそんな言葉を加えたかなとも思います。どうせなら、父からわたしに与えられた道をと加えたほうが良いかと思うのですが、いずれにせよイエス様が、これだ、これがわたしの行く道であって他にはないという不退転の決意をもって歩まれておった。それはおわかりになられると思います。退かないし振り向きもしない。これが道だ。この道を進む。それがわたしだ。そういう決意をイエス様は歩まれたのです。私たちをご自分の隣人として愛し抜かれて、身代りに罪を赦して救われる道、十字架の道を歩み抜かれた。死の道をすら歩み抜かれて、三日目に終えられた。私たちの救いの道は、死から三日目のキリストの復活で、もう完成したのです。完成した、終わったとはどういうことか。この道を人間の側でやり直す必要はないということです。年度末調整で舗装し直すとかせんでかまん。救いの道の建設は、もう終わった。完成した道がもうあるのです。無論、あるだけではいかんのであって、その道の上を歩む。ただ歩めばよい。完成した道を歩めばよい。それだけの道を、イエス様は私たちをご自分の隣人として愛し抜かれて、十字架を負って、完全に歩み終え、道を完成してくださったのです。

この道の上を、イエス様が、わたしに従って来なさいと招かれているのですから、はい、と、心安んじてついていくことができます。それがイエス様を信じて洗礼を受けるということです。そうやってイエス様の愛の道に従って、隣人を自分のように愛して進むということも学んでいきます。無論、隣人愛は救いの条件ではなく、自分の救いのため徳を積むというのでは決してありません。当然だから愛するのですけど、容易ではないので学ぶのです。愛は一生の授業です。そして毎日テストがあります。入試ではありません。入試はイエス様が受けて下さいました。だから先週の御言葉で言えば、面接だけあります。一人一人イエス様と面接する。じゃあ、学びはしなくってもいいのか、ってことにならないためのテストだとも言えるでしょうか。また、丸をもらえると嬉しいというのもテストであることは忘れんようにしたいと思います。それが、いのちというものではないでしょうか。

その意味で、チャペルであろうと教会であろうと礼拝で御言葉を聴くというのを学ぶとも言います。愛に生きる道、そして愛の喜びを学ぶ。正しく自分を愛することを学ぶとも言えます。むしろ、自分を正しく受け入れることを学ぶ。私も、あなたも、皆この道を行く者として神様の愛の御手によって造られた者。それが私だ。さ迷い出てなお招かれて、集められ、導かれる。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、御翼の陰に覆っていただける。そのことを神様ご自身が強く願っておられるほどに愛され、求められている。それが私だ、これが私であるのだと、御言葉を聴き続け、愛を学び続けて生きていくことができるのです。そうやって生きていく中で、救われた自由の喜びを知るとも言えるのです。

ですので、ご家族ご友人に、今日礼拝でこう言いよった。天国に入る入試はイエス様が受けてくださったき、入試はのうて面接だけ。それが洗礼やと。どうぜ、洗礼を受けんかえと、祈って、伝道するというのはどうでしょう。今のシーズン、わかりよいと思いますので、ぜひお考えください。面接だけ。しかも落とすための面接ではない。そのために、イエス様が陰府にまで落ちてくださった。その優しい友なるイエス様が面接だけしてくださる。本当にありがたい救いです。

ただ優しさというものは、いつも受け入れられるわけではないということも、私たちは痛いほど知っていると思います。特に、優しさを甘えと勘違いされるとき、じゃあ我が道を進んでもよいのだと、差し出した手を突っぱねられるということも人間の罪の現実です。神様は私たちが受けるべき永遠の裁きを身代りに受けるほど優しいですが、甘くはないので、裁きはあります。この世の裁きで死にもしますから、神様を侮ることはできません。ズルイ人には、狐とか言われます。ヘロデという人は、自分の兄弟の妻を奪うほどに我が道を行く人でありながら、宗教に興味もありありで、洗礼者ヨハネに強奪婚を責められて逆恨みに彼を捕えもするのですけど、ヨハネの語る神様の話に興味もあって聴いていました。エルサレム神殿に礼拝に行くことさえありました。静けさを好む人だったと歴史書で言われてもいます。今の言い方で言えば、ある意味スピリチュアルな人だったとも言えるでしょうか。でもイエス様を殺そうとする。イエス様は、スピリチュアルやったら何じゃちかまんと甘いことはおっしゃいませんから、ヘロデも心静かになる優しい霊的な言葉なら聴きたいけど、耳に痛いことは聞きたくもないと殺意すら覚える。それを言いに来たファリサイ派の人々も似たような思いであればこそ、だからここから出て行けとわざわざ言いに来る。それはエルサレムの人々も同じだったと主は言われるのです。神様が預言者を送るというのは、悔い改めなければならない罪があるから、そのまま我が道を行くと滅びるきいかんと、預言者に神様の言葉を語らせるのですが、人々は、そんな言葉を神が語るはずがない。神への冒涜だ、冒涜罪の罰、石打の刑にしろと殺してしまう。そのエルサレム、神の家と呼ばれた神殿があるエルサレムで神の名を呼んで礼拝をしているはずの人々が、しかし、神様の言葉を受け入れないなら、その家は見捨てられると、イエス様は嘆かれます。事実、エルサレムはその通り、イエス様の救いの言葉を、いや、イエス・キリストという救いの言葉を受け入れず、神殿、神殿と空しい礼拝をしていたので、西暦70年、ローマによって滅ぼされます。神様の裁きは確かにある。

でも、だからこそ生きよと主は言われ、そのためにわたしが死ぬからと、人となられる。十字架で死なれて三日目に復活されて、死んでなお生きられる救いの道となられたのです。裁きをなくしはされないけれど裁かれてもなお救われる赦しの道をキリストが開いて下さった。わたしが道である、わたしがあなたの罪を背負い、あなたを赦す、誰でも重荷を負う者は、わたしのもとに来ればよい。わたしがあなたを背負う神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である、わたしは主、あなたの神だと、主の名によって、キリストはやがてまた来られる。

これこそ信じる他ないと言えるかもしれません。でも、神様を信じるとは、これほどに具体的で、自分の勝手にはなりようのないものです。信仰者であろうとなかろうと、神様を自分の好きにしたいというこの罪を、しかしキリストが引き受けられて、まるでめん鳥が雛を温かい翼の陰に覆い隠すように、私たちの上にご自身を投げ出して、両手を広げられ、この下に隠れていなさい。あなたの罪の裁きは私が負うと、裁きの十字架を背負われた。私たちをその陰に隠し守ってくださいました。この救いの道の建設を、神様は御子イエス・キリストによって終えられたのです。ただこの道を進めばよい。そこに私たちは皆、招かれて、主の御翼の陰にある救いの下に、共に集められているのです。