10/9/26朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書10:25-37、ミカ書6:6-8 「上を向いて愛そう」

10/9/26朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書10:25-37、ミカ書6:6-8

「上を向いて愛そう」

 

良いサマリア人という題名でよく知られるこの譬えは、あまり説明をしなくても、言わば幼子でも、ああ、そうだなあと、わかる話だと思います。ドイツ語では、憐れみ深いサマリア人という題名で皆知っているそうです。実際にこの譬えを聴いて思うのは、憐れみの切実さだろうと思います。この律法学者もよくわかったのです。イエス様から、誰が、この人の隣人となったと思うかと問われて、彼は答えます。直訳するとこの人に憐れみを行った人です。イエス様はその答えを聴いて、きっと嬉しかったと思います。そう、本当はわかっているんです。だからその憐れみに生きなさいと言われた。そしたら神様の救いがわかるからと。この学者はきっとこの後、神様の憐れみを信じて、イエス様を信じて、救われたんじゃないかと思います。

それまでは自己弁護に生きていました。わかってはいたんです。愛に生きること、それが神様を信じて生きることだと。正しい信仰告白をするのです。けれどいざ、実際に生きているかと問われたら、うろたえて言い訳をする、自己弁護をするこの人に、私たちは深い共感を覚えるのではないかと思います。愛に生きたいと願っていながら、生き切ることのできていない自分。例えば、このサマリア人が宿屋の主人に介抱代として渡した金額を日本円に直すと、一万円から二万円です。通りすがりに出会った傷ついた人のために、五千円でも出せるかと問われたら、うんと切実な問題にならんでしょうか。倒れている人を横目で見ながら通り過ぎていった祭司とレビ人、今で言うたら牧師と長老です。礼拝司式するこの人々は、汚れたもの、特に死体には触れてはいけないと、旧約聖書の律法で言われていた。それを言い訳にするのです。道に倒れている人を見て、憐れに思わない人がいるでしょうか。この二人も憐れみを感じなかったとは思いません。あ、と思ったに違いないのです。でも言い訳をした。もう手遅れやとか、今急いじゅうとか、私がおらんと礼拝が始まらんからとか。この譬えを聴いた律法学者は、その言い訳が、すぐにわかったと思います。無理もないって思ったかもしれません。そして、憐れみを感じているはずなのに、憐れみを選ばない自分を弁護して、だって、と正当化する道を探してしまう。そうやって、命を生き損ねてしまうこの人は、見知らぬ冷たい他人でしょうか。

もともと真面目な人なのです。イエス様に、永遠の命を受け継ぐためには、と問います。永遠の命は、まるで試験に合格するように努力してもぎ取るものではないのだと、そもそも今頂いている命だって、誰も、努力してもぎ取った者など一人もいない、命はいただくものであると、この人は命の尊厳さ、永遠の命の厳かさを知っていました。偉そうな人ではないのです。命は神様からいただくもの。ただ大切なのは、そこで命を与えて下さる神様との関係を正しく持っているかどうかだと、それは、わきまえていたのです。人間の親子関係でもそう。正しい親子関係を持っているかどうか。でないと自分勝手になってしまう。わかっていたから、命を受け継ぐための律法は、愛の律法だと、神様を愛し、神様から与えられた隣人を愛して、一つの神様の家族としてその愛に生きていくこと、それが神様との関係を正しく保つことでしょうと、正しく答えることができました。言わば当たり前のことですけど、なかなかこれを神様との関係に当てはめて考える人は少ないかも知れない。そこをこの人は、正しくわきまえ、その通り生きようと努力していた。当たり前を当たり前として生きるというのは、なかなか難しいのです。永遠の命を受け継ぐためには正しい親子の愛の関係がないといけない。例えば私の友人の父親は開業医をなさっていますが、もしこの息子が親を親とも思ってなくて、口では敬っても自分勝手に生きた挙句に、じゃあ、家督を継がせてくれと帰ってきても、大切な家督をおんしに受け継がせることはできんと父から言われるのは、当たり前ではないでしょうか。だからこの人は真面目に努力して、神様との正しい関係を持ちたいと、旧約聖書の律法を学び、何が神様から正しい命として求められていて、何をしたら神様から、あなたは正しい、と言われるかを学び、そうして神様との正しい関係を持っておったら永遠の命を受け継げるだろうと心から信じて、律法の教師にまでなったのです。

ところがあるとき巷で噂のイエス様の話を聞きに行ったら、先週お話した上の段21節のところですが、知恵ある者や賢い者には天の父の救いの奥義が隠されておって、知恵のない、何のわきまえもない幼子のような、本当にわきまえのない、むしろ可哀相にすら思えるような者にこそ救いの奥義を現して下さったと、しかも嬉しそうに大喜びでイエス様がおっしゃっている。幼子というのは、例えば、これは私のおもちゃで!違うで!私が先に遊びよったがで!違うで!と喧嘩をしておって、何で仲良うできんがと、わきまえのある大人から叱られ、何でわからんとあきれられる、わきまえのない人が、当時の人々の思った幼子のイメージでした。そんな人々こそが、天の父からの救いの招きを知ることができるとイエス様が言われて、今まで真面目に熱心に神様の律法をわきまえようと、教師にまでなったこの人は、ちょっと今のは聞き捨てならんと立ち上がってイエス様に尋ねたのです。先生、さすがに何かやるべき、正しいことがあるでしょう、神様との正しい関係をわきまえてなくて、何でもありで永遠の命を受け継げるでしょうかと尋ざるを得んかったのです。

イエス様も、この教師の言わんとするところは、よくおわかりになったのだと思います。だから律法の教師なら誰もが毎日読んで唱えている律法の中の律法を、逆にこの教師に言わせます。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」これが世界の造り主であられる父なる神様から与えられた正しい命、この世の命が尽きた後にも、永遠の命を受け継ぐのに相応しい、神様との正しい関係をわきまえた命ですと、律法の教師は答えます。イエス様も、そうだ、正しい答えだ。実行しなさい。そうすればあなたは生きると言われます。命を得られると訳されると、どうも正しく生きる試験に合格して天国への入学をもぎ取るようなイメージがありますが、直訳は、あなたは生きる、です。本当にそうやって生きているのなら、あなたはもう生きているじゃないかとも言えるでしょうか。だから、その正しい愛の生き方を実行すればよいと言われて、けれどこの教師はうろたえるのです。自分の愛の限界を知っているからです。言い訳してきた自分の前に立たされるのです。そしてまたもや言い訳をしようとして、自分の正しさの前に立ち、自分の足下の正しさを見つめて、うつむいて、神様の前に立ち損ねるのです。でも本当は、この人は、神様の前に立ったら良かったのです。

でも立つことのできなかったこの人を、イエス様は、神様の真実の愛の前に立たせてあげたくて、この人が、自分を神様の憐れみのもとに置くことができるように、このサマリア人の譬えをお話されます。憐れみの愛こそ、神様の愛であることを、このサマリア人に映して見せられるのです。当時のユダヤ人たちは、サマリア人たちを、神様を正しくわきまえてない人々である、言わば先に言った幼子のように、何のわきまえもない、特に神様についての正しい知識を持ってない人々として軽蔑をしていました。そのサマリア人が、自分は二万円の損をしてでも憐れみを行う。命の当たり前をわきまえている。ならば私は一体今まで、何をわきまえていたというのか。神様の求められる愛の正しさを、何だと、わきまえていたのだろうか。律法を正しくわきまえてない人々、それ故神様を正しくわきまえず、神様との関係をいい加減にしている人々を、私はどんな目で見ていたろうか。神様はどんな態度を彼らに取られると私は思っていたろうか。彼らは正しく生きてないから、神様との関係をわきまえてないから、そんな者たちは永遠の命にはふさわしくないと、神様が彼らとの関係を切られて、ドアを閉められ、あなたはふさわしくないからダメだと見離す、そういう神だと思ってなかったかと、この人は、自分の愚かさ、愛のわきまえのなさを思うのです。

無論、神様は私たちに愛にふさわしく生きて欲しい。それは揺るがせにできんのです。神を愛し、隣人を愛す。そうすれば生きる、神様との正しい関係に生きて命を受け継ぐと言われます。でも愛せなかったら、お前はふさわしくないからダメだで終りか、あるいは、どうせダメやき好きにせえと言うのか。無論ふさわしく生きて欲しいのです。でも誰もふさわしく生きてない。言い訳をして、人と比べて、その人に何を求めることができるか。何かその人がせないかんなら、何をしなければならないか。神様の憐れみのもとに身を置いて、憐れみ深い神様を信じて、神様と共に歩むこと、その憐れみのうちに、神様の憐れみを行って生きること。それ以外に何ができるでしょう。愛に破産した人間が、言い訳に生きる人間が、それでも愛に破れたままで、もし言い訳をしてもここに来なさいと、神様はキリストをお与え下さったのです。愛に破産したあなたの隣人として、キリストがあなたと共に歩むから、あなたの罪を全部背負って、破産したあなたの代償を全部十字架で支払って、あなたを癒し、あなたを包み込み、自分が死んだってかまわないから、あなたは生きよ、神様と共に生きよ、わたしと共に十字架で死んで、わたしと共に復活して、神の幼子として、この罪の赦しの憐れみをわきまえて、あなたは神様の子としての命に生きよと、キリストが隣人となって下さった。ならば私たちは生きられるのです。この憐れみのもとに身を置いて、神様との関係に生きられるのです。これがその名を愛と呼ばれる、神様との正しい愛の関係なのです。

この神様の愛のもとに、キリストをくださった憐れみのもとに身を置くときに、私たちの隣人がまた見えてきます。キリストが、既に先立って、その人の隣人となってくださっているのが見えてきます。キリストが私たちのところに来て下さって、破れた私たちと共におられて、愛を繕ってくださっている。そこに身を置けば良いのです。キリストを下さった天の父から憐れみを受け継ぎ、主と共に歩めば良いのです。