10/10/10朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書10:38-42、申命記33:3 「これで生きられる」

10/10/10朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書10:38-42、申命記33:3

「これで生きられる」

 

イエス様の足もとに座り、心を澄まして、全神経を集中し、語られる御言葉に聴き入るマリアの姿。その姿を思い描きながら私は6月に天に召された金田姉妹のことを思いました。毎週この最前列に座って、語られる御言葉に全神経を集中して聴き入っていた姉妹の姿を覚えてらっしゃる方は多いと思います。80代の頃は口もお達者でしたので、どちらかというとマルタっぽいイメージもあったかもしれませんが、礼拝となると、ビシッと御言葉に聴き入る姿はマリアだったなと、マリアの喜びを姉妹は証しておられたなと思います。お葬儀のときにも申しましたが、晩年、礼拝中に背筋を伸ばして御言葉を聴きたいのだが背中が曲がってしまうのを申し訳なく思っておられた姉妹が、ある時、先生、御言葉は心の背筋を伸ばして聴けば良いがですね、と表情を輝かせておられたのを忘れられません。私はそこに、神様の前に出る、礼拝者の姿を見せて頂きました。

主の前で、心の背筋を伸ばして御言葉に聴き入る姿。それは弟子の姿でもありました。座って聴く姿は、当時、律法の教師に学ぶ弟子たちの姿であったと言われます。今でもそうでしょう。弟子は聴くことから始まります。全神経を集中して聴かないと弟子になれない。そら、そうでしょう。聴かないと、自分のやり方、自分の生き方を続けるだけです。それでは弟子になり損ねてしまいます。自分のやり方でやるのなら、そもそも聴き入るということは起こりません。好きな部分だけつまみ食いするのは、弟子の姿勢ではないでしょう。

マリアの姿勢もまた、背筋を伸ばして座って聴き入っておったのだと思います。その弟子の姿を見て、イエス様もなんぼか嬉しかったろうと思うのです。そして、その姿とは対照的に、せわしなく奉仕をしては、弟子になり損ねてしまっているマルタの姿を、主はなんぼか心配しておられたろうとも思うのです。この場面でイエス様が集中的に語りかけておられるのは、マルタです。御言葉はマルタに向かって語りかけます。マルタという名前には女主人という意味があるそうです。けれどその女主人は、ここでは不満をもった主人です。イエス様の弟子になり損ねてしまっているが故に、不満を持って、もう一人の弟子を裁く。弟子でなく主人になってしまった奉仕者の姿を、御言葉は照らし出します。

この物語は福音書の数ある物語の中でも、先のサマリア人の物語と共に、最も好んで読まれてきた物語の一つです。しかも医者であったルカだけが、この二つを書き残していますから、ルカのお気に入りであったとも言えるでしょうか。苦しんでいる人のために身を粉にして奉仕する医者として、一人倒れている人を見捨てられず、自分は言わば損をしてでも介抱をしたサマリア人の姿を、ルカが好んだというのはわかる気がします。また、そのような愛の奉仕者になりたいと願いつつ、けれどもイエス様のような奉仕者になり切れないで、すぐに不満をもってしまう自分の姿をも、ルカは続くマルタの物語に見出したのかも知れません。そして教会もまた、この二つの物語を愛してきました。それだけ、人に仕えるという奉仕を、ずっと大切にしてきたのです。

もしかしたらマルタもまた、イエス様の語られたサマリア人の物語を聴いておったかもしれません。そうでなくても、イエス様ご自身が大勢の苦しんでいる人々に仕えるお姿、貧しく力なく軽んじられ虐げられている人々に奉仕をなさったお姿に、深い感銘を受けたということはあるでしょう。マルタももちろん主の弟子になりたいと、イエス様を信じ、主に弟子入りをしておればこそ、家にイエス様と弟子たちご一行を迎え入れ、言わば、家を教会堂のようにして、一生懸命にもてなすのです。

もてなしと訳されましたが、もとの言葉は後に教会の言わば専門用語になった、奉仕という言葉です。マルタは一生懸命に奉仕をした。しかも色々な奉仕、沢山の奉仕を、一人でやっておりました。高知東教会では、前の牧師夫人が高知を離れたとき、奉仕分担表を作りました。それまでは牧師夫人が一人で幾つもの奉仕をなさっておって、その純さんがおらんなったら、抜けるところが一杯出てこりゃまずいと、そして教会が健全な成長をするためには、どうしても全員で奉仕をする教会にならんと、お客さん教会になってしまい、主の弟子になり損ねてしまう。それもまずいと、以来、奉仕分担表を毎年配り、私はこの奉仕をします、こういう奉仕であれば私もできますと、自発的に奉仕の名乗りを上げてもらって、随分成長させて頂いたと感謝しています。分担表には載ってなくても、例えば金田さんは毎朝教会員の名前を挙げて祈りの奉仕を奉げておられました。教会に絶対欠かせない奉仕です。祈りが絶えた教会には先がありません。無論、他の奉仕も大切です。そして奉仕には人がいります。奉仕者がいります。奉仕者が少ないと、分担が負担になってしまいやすい。しかも一人で色々な奉仕を負担する場合が日本の教会では多いのです。負担が多くなるにつれ、不満が多くなってくることを、知らない人がおるでしょうか。あの人がちょっとでも手伝ってくれたらと、人間誰だって思いますし、マルタも一人で奉仕して、負担が不満になるのです。

その不満を、マルタはマリアには言わないで、けれどおそらくマリアにも聞こえるところで、イエス様に向かって、「主よ」と、ぶつけます。女主人がぶつける不満は、誰に対する不満でしょうか。主よ、どうして妹を動かさないんですか。私たちの主なんだから、言うべきことは言うべきでしょう。主としての職務怠慢ではないですか。見たら当然わかるでしょう、負担が片寄っていることを、一人だけ奉仕をしていておかしいじゃないですか、私がこんなに頑張っているのに、あなたはその私を心にかけてはおられないのですか、私を見てくれてはおらんのですか。私を見て、何ともお思いにならないのですか。主よ。

ここで「お思いにならない」と訳された言葉は、英語だとケア、心にかけて大切に世話をする、思いやりを込めて大切にする、大事にするという言葉です。それとほとんど同じ言葉が、先の憐れみ深いサマリア人のところでは「介抱する」と訳されました。ならば、主よ、こんなにも奉仕をしている私の心を、あなたは介抱して下さらないのですか、どうして大事にして下さらないのか、妹ばかりズルイじゃないかと、よほど感情的になっておったマルタの心に、主は、何とか御言葉を届けようとされてでしょう、マルタ、マルタと二度も名前を呼ばれます。御言葉を聴けない心を、弟子でなく、主人になってしまっているマルタの心を、何とかそこから連れ出したい、何とか御言葉を届けたい、唯一マルタを癒し介抱することのできる、神の言葉を届けたい一心で、イエス様はマルタに向き合われます。奉仕をしているのはマルタではなくイエス様です。奉仕に生きようとしながらも、主の弟子に徹することができなくて主人になってしまっていたマルタの心を、主はここで介抱をなさろうとマルタの目を見て、悔い改めを促されます。介抱にしては厳しいように思えるでしょうか。でも責める口調ではないのです。優しい口調で説得されます。妹が背筋を伸ばして選び取った、ただ一つの必用を、マルタあなたも選びなさいと言われるのです。

私たちが良い人生をと求めて、思いやりに生きよう、人に仕えて生きていこうと願いながらも、奉仕が負担になってしまい、どうして私がと主人になって、思い通りにならない人を裁き、思い通りにしてくれない神様を心で裁く。癒しがたい罪の傷を負った私たちを介抱されるため、神様は、あなたもここに座りなさい、そして救いの言葉を聴けばよいと私たちをキリストのもとに導かれます。あなたが主人にならなくてもよいと、キリストを私たちの主として下さり、そのもとに、あなたの重荷をおろせばよい、主人になる負担はキリストに委ねて、キリストの弟子となればよい、そこで自ら負う愛の荷は、重さが違ってくるだろうと、主は慰めてくださるのです。

弟子になり切れない弟子たちも、キリストの弟子として介抱される。それが私たちのために隣人となられた神様の深い憐れみであり、私たちの唯一の必要です。神様が、私たち愛に欠けたる罪人を深く憐れまれ、その憐れみのもとに、あなたの身を置けばよい、キリストのもとに身を置いて、その御言葉に聴けばよいと招いておられる。そしてキリストの弟子として、私たちに与えられた隣人のもとに行き、その重荷を共に負うことで、さあ一緒に神様のもとに、御言葉のもとに座りましょうと、共にキリストの憐れみに身を委ねたらよいのだと、罪に傷ついたマルタの奉仕を正しく治してくださるのです。奉仕とは、このキリストの救いのもとに共に身を置きましょうと、キリストの救いを運ぶことです。私たちの隣人となって下さった、キリストを紹介することです。そしたら不満を抱えた主人として神様にツカツカと言い寄る罪から癒されます。むしろ神様が憐れみをもって、私たちに近づいてきてくださったことを背筋を伸ばして知るのです。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。これがキリストの言葉です。そして教会の奉仕の内容です。神様が私たちのもとに来てくださった。その憐れみに、共に身を置いて生きるのです。