10/9/19朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書10:17-24、イザヤ書61:10-11
「救いの扉が開く」
祝福があれば、人は生きていけます。死んでも生きる、とさえ言えるほどの祝福を、キリストは私たちに与えて下さいました。イエスというお名前がそもそも、神様が私たちを祝福して下さるというお名前です。ですので、先ほども、皆さんとご一緒にイエス・キリストの名によって祝福をいたしました。神様が祝福して下さっている、その永遠の祝福を取り次いだと言ったら良いでしょうか。いま読みました72名の弟子たちもイエス様のお名前を取り次いで、宣教の旅に出たのです。人々に神様の祝福を与えに出かけました。そしてイエス様のお名前によって人々を祝福し、また悪霊を追い出しさえしたのです。びっくりするような癒しが起こったと言っても良いでしょう。しかも一人や二人ではなかったようです。興奮し、喜んで帰ってきました。イエス様、イエス様のお名前すごいですよと報告をすると、主は、そうか、でもね、わたしは、そのあなたがたの名前が天の父の家に記されていることのほうが嬉しい。あなたもそうでしょ。皆で、この喜びを分かち合うため、祝福に生きるために、あなたがたも宣教に行ったのじゃないか。天の家に名前がある。これがわたしたちの喜びだ、そうだろうと言われたのです。
多くの家には表札があります。家族の名が刻まれています。家に帰ったら表札に自分の名前がある。ま、当たり前のことだと思います。一々確認することもないでしょうし、特に嬉しいことでもないかもしれません。でも家を出てしまった人が、もう出た家の表札にまだ自分の名前があるのを見つけると、それだけで嬉しくなるのではないでしょうか。幼い頃、幸せの黄色いハンカチという映画を見た記憶があります。詳しい話は存じませんが、たしか、罪を犯した男が家に帰っていく。だけれど帰っても受け入れてもらえるかどうか不安がある。図々しく何事もなかったような顔をして戸を開けることもできない。そもそも戸が開いてないかもしれない。閉じられていたらどうしよう。不安がある。だから合図をお願いした。もし家に帰っても受け入れてもらえるのなら、家の庭に黄色いハンカチを吊るしといてくれないか。そこで男が不安を抱えながら家に近づくと、もう無数の黄色いハンカチが庭一杯に風にゆれて、おかえり、おかえりと主人公を待っていた。後は覚えてないのですけど主人公が涙を拭くのには、きっと困らんかったろうと思います。
私も家出をしたことがあります。母が倒れて帰宅をしましたが、俺は間違ったことはしてないという態度のまま帰りました。家の表札に自分の名がまだあったかどうかは覚えていません。けれど母はそんな私をも涙で受け入れてくれました。喜んで受け入れられるようなことを私は何もしていません。私がしたのは親を親として敬わず、心配させたこと、家を出て自分勝手に生きたことです。そんな息子が帰ってきてどうして喜べるのか。でもそのとき、理屈ではなく、わかりました。理屈なんか求めていたら、結局、また家を出たと思います。人を愛する、受け入れるというのは、理屈ではわかりえないのだと知らされました。
天地の造り主である父の家に、我が子が帰ってくる。この神様の喜びがわかるのは、幼子のような者であると主は言われました。人は理屈を求めますけど、理屈で愛を掴み取ろうとしても、水を掴むようなもので虚しいだけです。掴み取れるようなものでないから、心に流れ込みうるとも言えます。それでも掴み取ろう、掴みうる、それだけの力が私にはあると、自分を過信していくのが大人になるということでしょうか。良い意味で言うのですが、年を取ると子供のようになると言われることがあります。もし力がすべてであるのなら、力で人生も神様さえも、掴み取りうるというのであれば、子供のようになるというのは、それは悪い意味で言われるのです。力を失っていくからです。けれどイエス様は、それを祝福して下さいます。幼子は力はないけれど、それ故に嘆くことも怒ることもあるけれど、人はそのままで受け入れられると知っているのは幼子です。親の愛を勝ち取る必要はないのだと、知恵があるからではなく、ないから、理屈をつけんからこそ、幼子は自分が悪いことをして叱られても、おいでと言われたら、うつむいてでも懐に抱かれます。力がないのは幸いです。力がないがばっかりに、愛が見える目は幸いです。神様の、罪は問うけれど赦してくださる、責任は問うけど、その責任をご自分でとって下さって、おいでと言われる、その愛が見える目は幸いです。その人は神様の家の表札に、自分の力で、名前を刻もうとはせんのです。それは泥棒のすることで子供のすることではないのです。自分の家を知っている。その家に、父が私の父としていてくださって、私たちを祝福されているのだと、救い主のお名前によって、その赦しによって、とこしえの祝福が与えられているのだと、この目は父の救いを見るのです。神様の祝福の言葉を聴くのです。
父の家の表札には私の名が刻まれている。それを見る目は幸いです。自分で刻む必要がないのです。この世ではそうではないでしょう。自分の名前を刻まないかんと、懸命に、生きた証を刻もうとします。これが私だ、これが私の本当の力だ、私を知って欲しい、私を認めて欲しい。けれど神様を仰ぐ目は、私の名が、どこに刻まれているかを見て、安心して今を生きていくことができるのです。私を知って下さっている父がおられる。たとえ私の刻み付けてきた人生の足跡が、すっかり消えてしまったとしても、それでも私を知っておられて、私たちの命を虚しくされない。私たちの造り主である神様が、私たちの向かう先には、いてくださる。いや、いまも私たちと共に生きておられて、たとえ肉体の目はかすんでも、信仰の目には見えるのです。私を今まで支えてくださり、これからも私を受け入れて離すことない私の天の父は生きておられる。私を救い、受けとめて下さる、私の救い主は生きておられると、祝福を受けて、祝福を信じて、互いに祝福の言葉を掛け合って、祈りあって生きていくことができるのです。そこから祝福が流れてくる、天の扉が開かれたからです。天から来られ、私たちのために人となられたイエス・キリストが、扉を開けて下さったからです。だからキリストのお名前によって祈り、また祝福をするのです。父が与えて下さった祝福のお名前によって、共に歩んでいけるのです。