10/8/15朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書9:37-45、イザヤ33:26 「その人間を主は救われ」

10/8/15朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書9:37-45、イザヤ33:26

「その人間を主は救われ」

 

弟子達は尋ねることをしませんでしたが、イエス様は、尋ねてほしかったのではないでしょうか。人の子、即ち人々を救うため人となられた神様が、しかしその人々に引き渡されて、十字架につけろと叫ばれて、あるいは見捨てられ見殺しにされて殺される。その人々の中には、私も入っているのでしょうかと、一人でもイエス様に尋ねてくれる弟子がいたなら、ああ、そうだ、だけどわたしはあなたのためなら死んでもいいんだ、あなたの犠牲となるために、わたしは人の子として来たのだと、主は、目頭を熱くして説き明かされたのではないかと思うのです。

彼らには理解できないように隠されていたと聞くと、ともすると神様が意地悪をして隠しているように思われるかも知れません。でも皆さんもないでしょうか。聞いてもらいたい本心、しかも自分にとって大切な人に、自分の本心を聞いてほしいという、内に秘められた思いがある。秘められた思いというのは、露骨な言い方になりますが、その人にしか見せたくないし、その人に見せるのにも勇気がいる、言わば、裸の本心です。これを拒絶されたら、私の全存在が否定されてしまうという、私の一番奥に秘められた思いは、はいどうぞ、と見せられるようなものではないでしょう。そういう意味で、昔の日本人は、今の世代のように、愛しているという言葉を口にしなかったのかも知れません。口にしたら軽くなるというのも、やはり真理であろうと思うのです。無論、口にしたらいかんというのではありませんが、本心は簡単に口先に上りはせんのでしょう。

その意味では、弟子達がイエス様に尋ねなかったというところにも、逆に彼らの本心が見えるのです。聞くのが怖かった。これもよくわかる思いです。今の関係で満足していて、それを失いたくないという思い。これを聞いたら、今のままではいられなくなるという質問は、しない人のほうが多いのではないでしょうか。もし弟子達がイエス様に尋ねて、主よ、私の手にも、あなたが引き渡されて、それで私があなたを殺してしまうということですか、と聞くことができたとしても、その答えを受け入れる準備ができているかどうかは別の話です。真実を知りたいのが人間ですが、聞かされた真実を受け入れられないのも人間です。真実を受け入れることができなかったら、今の関係を続けたいと思うのです。今のままで良いと思うのです。もしも、真実を知ってしまったら。そこに怖れを覚えるのですから、何となくわかってはいるのです。全然理解できないというのではなく、言わば汚れなき小さな子供が、ん?と首をかしげているのではなく、むしろ、神様、私はそっちには足を踏み入れたくありません、今のままでかまいません、という状態です。

その今の状態って、どういう状態でしょう。まあまあの状態。いわゆる現状肯定ができる自分の現状です。もちろん完全ではないけれど、でも最悪ではない、まあまあの自分の現状。でも自分だけの現状ではないでしょう。イエス様との、関係の現状ですから、相手がいて初めて成り立つ関係の状態を、自分だけで決めることなんて、できないはずです。しかし、そのできないことをやってしまう人間の状態を、主は、信仰のない、もっとズバリ言えば、信頼関係を無視した、よこしまな状態だと言われるのです。いつまでも、その状態を続けるわけにはいかんだろうと嘆かれるのです。我慢しなければならないと訳された言葉は、背負うという言葉です。別に、主がブチッと切れられたわけではありません。愛は忍耐強いと御言葉で語られる主が、私たちみたいにブチッと切れることはありません。背負われます。背負い続けてくださいます。でも、こうもまた言われているのです。わたしに従いなさい。わたしの弟子となりなさい。わたしに倣って、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従い、神様の本心に生きなさい。それをあなたの本心としなさいと、人が本来の人として、神様の子供として生きていくことができるよう、御子は人の子としての体を受けて、クリスマス、地上にお生まれくださった。羊たちを導く羊飼いが、羊たちの生贄とすらなってくださった。そのキリストの愛に倣って、生まれ変わって生きていく。それが神様のくださった、キリストに救われて生きる状態です。それが信仰に生きる、キリストとの信頼関係に生きるという信仰です。

無論、現状肯定をしたからといって、救いから外れるわけではありません。洗礼が無効になるわけではありません。関係というのは、本来、無効になることはありません。親子関係だってそうでしょう。血のつながりは消せません。キリストが十字架で流された血のつながりであれば尚更です。神様が血を取り肉を取られたというのは、死ぬために人の子となってくださったというのは、それだけの覚悟を言うのです。それだけの絶対的覚悟を言うのです。絶対に切れない関係を与えるために、血のつながりによって、私たちと結ばれてしまう。その関係、血によって結ばれた神様と人との関係は、人間の自分本位の思いで切ったりできる薄弱な関係ではありません。15章に出てくる放蕩息子の譬えのように、自分本位な青年が、父との関係を切った、また切れたと思っていても、父は、切れるか、わたしの思いは絶対に切れん、お前はわたしの大切な子供だと、絶対の愛で保証される。キリストの救いは絶対です。信仰がないとは言われても、まったくないわけではないでしょう。また、その僅かな信仰も、自分で勝ち取ったわけではないでしょう。キリストの御言葉に触れたとき、神様の愛に触れたとき、すっと信じた、あるいは、信じたいと思う。信仰は恵まれて受ける信頼の心です。この神様は私を救ってくださるだろう、イエス様を信じて生きていけたらと信頼する。その信頼を、自分にも周りにも確かにしよう、これを本心として生きていこうと、結婚を決めるように決意するのが洗礼です。私は確かな愛に生きている。生かされ、そして私もその確かさの中で、私の愛の歩みを確かにしたいと、洗礼を受ける。またそこから始まる聖餐式によって、愛の確かさを確かめるのです。キリストの血によって確かめるのです。

でもその歩みが、キリストの本心から道を外して、曲がってしまうことがある。よこしまと訳された言葉は、曲がっているという言葉です。キリストの弟子として生きているつもりが、いつの間にか曲がってしまって、キリストを信じるという生き方から、曲がった生き方になってしまう。悪霊の支配に打ち勝つことができなかった弟子達は、どうして、その支配に屈してしまって、以前、イエス様から授けて頂いた、悪霊に打ち勝つ神の国の権威を、用いることができんかったか。曲がっているからだと主は言われます。悪霊に見透かされたとも言えるでしょうか。何だ、お前は神の支配に屈しているのでなくて、俺たちの支配に屈しているじゃないかと。悪霊に打ち勝つキリストのお名前は、誰でも自動的に利用できるカードや印籠ではないとも言えるでしょう。見透かされてしまうのです。信頼関係が、自動的に保たれることは、ないからです。先に言った救いの関係、御子イエス・キリストの血によって結ばれた神様との親子関係は、これは絶対に切れません。けれど、信頼関係、むしろ信頼の交わりと言ったら良いでしょう。愛の交わりも同じです。機械的な愛がないのと同じように、自動的な信頼もありません。自分本位の愛と信頼が現状肯定という幻想を生み出します。まあまあという嘘の平安を信じます。家族関係も人間関係も、神様との関係も同じです。ご利益信仰ということを少し前にも言いましたが、もっとわかりやすい言葉で言えば、ご利用関係。本心ではないとしても、人を、そして神様を利用してしまう。利益のために用いてしまう。よこしまな時代は、何が悪いと言うかも知れません。それが人間の本心だろうと、うそぶきさえするかも知れません。けれどイエス様は、その言葉も思いも曲がっている。それはあなたの本心からも、神様の本心からも曲がっている。あなたはあなた本来の姿からも生き方からも曲がっている。だから、わたしはあなたのために死に渡されるけど、それでもかまん。あなたのための犠牲となって、あなたをまっすぐに導いていくから、あなたはわたしに従いなさいと、私たちに日々の信頼を求められます。愛ならそうでしょう。信頼を求めん愛はないでしょう。まあまあを抜け出したいのが本心なのです。無論、怖れがなくなるとは思いません。自分を変えるのは怖いことです。既に自分の一部となっている部分を捨ててしまうことに対する嫌だという感情、精神的ストレス、だって、皆、やっていることじゃないかという合理化、私の全存在のあらゆる分野が総力をあげて、嫌だと逆らう。聖書が肉とか罪の根と呼ぶ、神様に逆らう人間存在の罪人としての根源が、神様の愛を利用して、従うことを避けてひん曲がります。

ならばこそキリストは弟子の訓練をされるのです。でないと成長できないままに、試練にぶつかって倒れたら、もしかして起き上がることができんかもしれん。いつまでも幼児性を甘やかす親がおらんように、おったらそれ自体が愛でないように、甘えは訓練されるのです。幼児性がまかり通る曲がった時代に、こんな教えは反発されるかもしれません。それでも教えなければならない理由を、十字架の死が教えます。何故、キリストが渡されたのか。最後の審判から、人々を救い出すためです。キリストの死と復活は、確かに私たちに神様の絶対の愛を保証します。教会に注がれた聖霊様によって、キリストは今も共にいて下さいます。それは揺るぎない真実です。そして、それと同じように確かなことは、そのキリストが、やがて罪の世を裁くために、再び来られるという約束です。現状肯定する思いが、受け入れがたい真実です。でもだからこそ主は言われます。いつまでも今のまんまは続かない。あなたがたを背負い続けて救いはするが、いつまでも、この状態が続くのではない。以前の口語訳が訳したように、いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようかと、キリストは弟子達の将来を案じられるのです。キリストの弟子として自分を捨てて、日々、神様の愛の本心に向き合って生きる。教会がそのように神の国のご支配、キリストの愛のご支配に、はい、とまっすぐ信頼するところでは、仮に悪霊が暴れても、勝利はしません。罪も叫ぶけど、私たちも言うのです。キリストがお前に勝利されたと。私はキリストの弟子であると。これがキリスト信仰の真実です。