10/8/1朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書9:28-36、出エジプト19:1-9 「黙して聴く赦しの福音」

10/8/1朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書9:28-36、出エジプト19:1-9

「黙して聴く赦しの福音」

 

何でも分かち合える人がいたら、そして、何でも分かり合える人がいてくれたら、人生はどんなに自由になることでしょう。心からそう思います。今もっている不満や悩みを打ち明けても、軽んじられることも、責められることもなく、無論、何でも認めてもらいたいと思っているわけでもないのです。正しくないとわかっていても激しい欲望と言ったらよいか、突き上げる衝動のような思いもある。それをも理解してくれて100パーセント受け入れてくれた上で、優しく、やっぱりでもそれはいかんと言ってくれる、心から分かり合える友がいてくれたら、私たち、問題を抱え込むということからは、解放されるのではないでしょうか。その問題は、すぐ解決はせんかもしれません。でも一緒に、その問題に立ち向かい、解決に向け、自己中心でない愛の道を歩んでいこうと、たとえその道がいばらの道でも、私たちが本当に歩みたい人生を、歩んでいけるのではないかと思います。

そのような友こそイエス様であり、また主に倣う弟子たちの目指す姿だと思うのですが、ではイエス様の思いを分かり合えた友は、イエス様にはおられたでしょうか。おらんかったように思えます。私たちの場合だと、罪の問題がすぐそこで登場します。何が打ち明け難いかと言うと罪です。人に言えない罪がある。罪を打ち明けるには勇気がいります。この罪から本当に解放されたいという、切羽詰った思いがないと、よう言わんのかもしれません。心の闇の部分を、人に見せることができんのです。でもイエス様は、逆に、周りの人々の罪故に、悩みを打ち明けることができんかったということも言えるでしょうか。愛が通じずに拒否されるというだけでなく、愛を分かち合うことができん悲しみもある。分かち合えていたなら、世界は今のようではないでしょう。人のため十字架を負うという神様の思いを分かち合えず、理解できない。だから、どんな思いで神様が、それでも私たちと共におられるか。私たちのためにおられるか。その愛が分かち合われない。私達のため御子を人として死なせるため与えられた神様の思い、死ぬために来て下さったイエス様の思いが、弟子達ですらわかりません。

でも、わかってほしいのです。だから、わかってくれそうな弟子達を連れ祈りの山に登られたのでしょう。イエス様はいつも夜祈られます。ただお一人わかって下さる、何でも分かち合え、分かり合うことのできる父なる神様に祈るのです。父よ、いよいよ弟子達に十字架の愛を分かち合って、一週間が経ちました。分かってもらえるでしょうか。十字架の愛を、人を罪から救い出し自由にするこの愛を、わたし達の思いを、わかってもらえるでしょうか、父よ、と弟子達と一緒にはおられましたけど、一人苦しんで祈られたのじゃないかと思うのです。

執り成しの祈りって何でしょう。名前をあげて、この人を助けて下さい、お救い下さいだけでは、やはり、ないでしょう。モーセとエリヤもここに登場しますが、旧約聖書の律法と預言者を代表する二人であると言われています。旧約聖書全体が、罪人の執り成しについて語ります。どうやって神様が人を、神様を愛さない者たちをそれでも愛されたか。赦し、愛しては、その愛を軽んじられて、捨てられて、その罪の裁きをなさるときにも、愛故に苦しまれながら、裁きをなされ、悔い改めよ、立ち帰れ、あなたに生きて欲しいのだと、御言葉を語り続け、執り成しの生け贄を与え続けた旧約の歴史が、執り成しの何たるかを既に雄弁に語っています。執り成しには犠牲が伴います。罪が犯され、刺が突き刺さり、血が流されているからです。その流された血の赦しを、犠牲によって執り成すのです。まるで自分がその罪を犯したかのように、主よ、この罪をお赦し下さい、どうか憐れみ、お救い下さいと。

イエス様がこのとき、誰も分かり合ってくれないご自分の悩み苦しみについても、父に打ち明けておられたのは疑いないことだと思います。罪人のために苦しまねばならない、生け贄としての苦しみを既に苦しまれておったとも言えるでしょうし、そこには、弟子達にすらわかってもらえない悲しみも含まれておったろうと思うのです。私達もそうやって祈るでしょう。たとえば父よ、父よ、と言葉にならない悲しみを祈るとき、あなたはそれでもご存知です、私の思いをご存知です、父よ、憐れんで下さいと祈らんでしょうか。イエス様もまた悲しかったのだと思います。励ましを必用としていたとすら言えるでしょうか。何を分かり合ってもらえなくて悲しいか。何が一番悲しいか。私達なら何でしょう。この友ならわかってもらえるだろう、この思いを、わかってもらえないはずがないと思っていたのに、わかってもらえなくて悲しくなること。愛でしょう。自分が真剣になっている愛を、わかってもらえないとき、突き放された悲しみを覚えんでしょうか。

十字架で死なれる前の晩もそうでした。ゲツセマネの園と呼ばれるオリーブ山の一角で、キリストの悲しみを、そしてその悲しみに打ち勝って、十字架を負って進まれたイエス様の悲しみを分かり合えた弟子達がおったでしょうか。自分たちの愛したイエス様が死ぬということに悲しみを覚えている弟子達はおりました。でも、その死が何のための死であるか、どうしてイエス様が十字架で死ななければならないのか、どうして栄光の神様が捨てられて、見殺しにされて、なんの憐れみもかけられないで、十字架で息を引き取らなければならなかったか、ただこの一点のために、すべてを集中させて一時も目を離すことのなかったイエス様が、じゃあ、その十字架に上げられるとき、誰かそのイエス様の思いを分かり合えることのできた友が一人でもおったかと言ったら、おらんのです。それまでもずっとおらんのです。だから父に切々と祈られるのです。その父からも、十字架の上では見捨てられます。罪人の身代りとなったから、そのために生まれてきたのだから、神様の愛の交わりを汚した罪人は、神様の愛の交わりから追放されて裁かれるから、イエス様は本当に地獄の悲しみをそこで味わわれ、陰府に降って行かれたのです。

それを先取られるようにして、イエス様は連れて行った弟子達の眠る中、一人執り成しを奉げられます。祈る中、顔の様子が変わられたのは服も真っ白に輝いたのだから、神々しいお顔になったのだろうと言われることがありますが、そこで真剣に、その神々しさとはどんな神々しさなのかが問われなければ、まるで苦しみを知らぬ、人の苦しみなど知らぬ存ぜずの神々しさを作り出してしまうかも知れません。それは十字架の神様のお顔ではありません。むしろ執り成しの激しさが増すときに、愛する人々によって犯された罪による苦しみ、またその裁きの苦しみが押し迫ってきて、そこでこそ、その罪に打ち勝つ神様の愛の栄光が輝き出します。けれど、いわゆる神々しい愛の勝利というよりも、誰にも理解されなくて、こんなにしてまでも、それでもまた軽んじられ見捨てられるかも知れん、その人のために死にいくそのところで、お前が神なら十字架から降りて自分を救えと徹底的に誤解され唾をかけられるところで、徹底的に犠牲となって血を流される神様なのです。理解してくれず頭を振って十字架を見る人の身代りに人となられ、その人と一つになられる神の御子の、この上なく身を低くされた愛の神々しさが、そこまで私達の罪を負われたイエス様の栄光が輝くのです。ゲツセマネの園でも天使がイエス様を励まさなければならなかったように、モーセとエリヤも、このときイエス様を励まします。主よ、ここにあなたの召しがあります。あなたはこのために生まれてこられたのですと。前回、主が言われた私達の十字架だってそうでしょう。励ましがなかったら負えんし、負いたくないのが十字架です。その十字架を、それでも負われ、そうでなかったら罪が赦されない私達のために、犠牲となられたイエス様の栄光が、ここで輝いているのです。それが愛です。それがイエス様をずっと突き動かしてきた思いなのです。

ペトロにはそれがこの時わからずに、苦しみ抜きの神々しさを思っておったのでしょうか。何を言っているか、自分でもわかってなかったと言われます。それでも自分の思いを語りたいのが人間でしょうか。だからでしょう。父は彼らをご自分の栄光に包み込み、これがわたしの子、生贄の小羊として選ばれた者だ。だから、彼の言うことを聴きなさいと言われるのです。黙らないと聴けないのも人間です。神様の愛についてはまさしくそうでしょう。キリストが、私の罪のための生贄となられたとわかるとき、人はおしゃべりをやめるのです。そのときに、キリストの思いも分かるのです。愛しているという言葉の意味もわかるのです。あなたのためなら死んでもいい。それが愛するという意味であること、それがキリストの思いであることが、黙してキリストに聴くとき、わかるのです。

以前にも分かち合ったかと思いますが、私の尊敬するマザー・テレサ最後の言葉は、言葉が多すぎます、でした。黙して愛せよということでしょう。黙してキリストの死に向き合うとき、おしゃべりは消えて、心が残ります。キリストに負わせた罪を悔いる、ごめんなさいと、その死による赦しを感謝する、ありがとうございます、が残ります。そして、キリストの思いがわかるのです。あなたにも、この愛に生きて欲しい、小さくても、死んでもいいという愛に生きて欲しい、あなたのそばにいる人に愛の献身をしてほしいと、命を差し出されるのです。それがこの聖餐です。マザーの献身の秘密も、毎朝のミサ、聖餐にありました。主の死によって生かされて、死んでもよいと、人のため、キリストの死に生きられたのです。私たちは、カトリックのミサのようには、見える形でキリスト像を仰ぐことはしませんが、それだけに、分かち合われていく聖餐のパンと杯に、裂かれたキリストの体と血を思い、ここに思いを集中させます。十字架を負われたキリストの思いに、私達の心を合わせるのです。これを頂き、キリストと私とが、聖霊様による神秘的な力によって一つとされる救いの奥義、愛の奥義を味わうのです。キリストの思いが、私達の内に住まわれるよう祈りましょう。そして主が既に始めて下さっている神の国の分かち合いを、ここに改めて確認し、改めて、救い主キリストに身を委ね、お従いしていくのです。