10/7/25朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書9:18-27、エゼキエル書33:10-11 「命を捨てて命を救え」

10/7/25朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書9:18-27、エゼキエル書33:10-11

「命を捨てて命を救え」

 

ここから東に車で20-30分のところに香美教会という、私達と親しい教会があります。その夕拝に最近、新しい求道の方が出席されていて、皆さん大変嬉しく思っておられたのですが、先日礼拝の後で、その方が牧師に、先生、お話によく出てくるイエス様って誰ですか?と尋ねられた。それで先生は、こりゃいかんと反省して、礼拝の後、短く入門講座の会を始めたと、苦笑いされながら話しておられました。私もつられて苦笑いしながら、けれど高知東/中央教会の礼拝に出席される方々も、もし、イエス様がよくわからんと思われながら、ピントのボケた話を聴いておられたら申し訳ないと、襟を正す思いをしました。

実は、昨年の待降節から今聴いていますルカによる福音書の連続説教を始めた動機は、イエス様の話をもっと聴いてもらいたいと思ったからです。今日の御言葉で言えば、イエス様がどんな風に一人祈られ、どんな覚悟で伝道に臨まれ、どんな風に弟子達と接し、どれほど悩める人々を憐れまれ、十字架に向かって行かれたか。福音書が映しだす生々しいイエス様に出会ってもらいたいという願いがありました。そしたら信仰が変わらざるを得ないし、まだ信仰はわからないという方でも、これがキリストを信じることかと、信じたくなると思ったからです。逆に言えば、どんなに教会の交わりに長く参加しても、イエス様がわからんかったら、いや、イエス様をこの私の救い主として知る祝福がなかったら、クリスマスにケーキを食べて終わるようなものでしょう。私はイエス様を伝えているだろうか、私の知っているイエス様を、信頼し愛しているイエス様を、皆に証できているだろうかと、いつも自問します。

12弟子の一人に、アンデレというペトロの弟がいまして、ヨハネによる福音書の伝える記事から、アンデレ伝道という言葉が生まれました。この人はあまり口が達者ではないというか、うまく説明ができん人のようですが、家族や知人を、まあ、とにかく来てみいやとイエス様のところに連れて行って、結果、その人らもイエス様の弟子となります。祝福が分かち合われるのです。アンデレのように、あなたの愛する人を教会に連れて来たらよいというアンデレ伝道は、どの時代、どの教会でも、伝道の基礎中の基礎となってきました。一人が一人を連れてくる。そうやって神の国は分かち合われていったのです。私達の教会の伝道方策があるとしたら、やはりアンデレ伝道がその本線です。この本線を歩んで初めて、トラクトや特別伝道礼拝も活かされえます。

また、アンデレ伝道と必ずセットである、もう一つの伝道方策を挙げると、十字架伝道です。なぜ十字架か。十字架によって愛を知るからです。十字架の愛によって十字架のキリストを伝える伝道です。どうしてアンデレが家族や知人を連れて行ったか。愛しているから以外の動機があるでしょうか。家族のため友人のために祈るたび、胸の痛みがあると思うのです。何年もたったらなくなるようなものではないでしょう。コロサイの信徒への手紙で、パウロは、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たすという言い方をしました。言い換えれば、十字架の愛で罪を背負われたキリストの痛みを、あたかもキリストの身になって人々のために十字架を負うような苦しみをパウロも負うのです。教会がキリストの体であるとは、そういうことでしょう。教会が、愛する人々の救いのため、そのように仕えるようにと、前回もイエス様は弟子達を伝道実習に遣わされ、弟子達に自分自身を分かち合わせることで、神の国を分かち合う、伝道を、教会に体得させたかったのです。

無論そのときの弟子にだけ、イエス様が願われたのではありません。今日の御言葉でイエス様が「皆に言われた」というのは、私たちにも言われたのです。日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。また、その十字架を負っての日々の歩みは、わたしのために命を失う歩みだとも言われます。イエス様のために命を失う歩みとは、どんな歩みでしょう。イエス様を知らない方なら、まるで戦争末期の天皇のためにというイメージや、追い詰められた爆弾テロリスト、狂信的新興宗教をイメージされるかもしれません。自分の命が一番だと信じて疑わない国では、イエス様のために命を失うなんて、入ってはいけない世界に思われるかも知れません。でも、そういうことをイエス様はおっしゃってはないでしょう。あなただけ死ねというのではないのです。イエス様ご自身、まずもって、わたしは多くの苦しみを受け、殺されて死ぬ、しかし三日目に復活させられるのだとおっしゃった。死んで、しかも死の向こう側から、父なる神様から復活させられて、私たちを罪と滅びから救われる私たちの救い主として、では、わたしを救い主として信じるあなたは、どのような救いを信じているのか、どのようにして生きることが、救われて生きることだと信じているかと問われたのです。

ペトロが教会を代表して答えた、あなたは神様の選ばれたキリストです。神様が罪に滅び行く世から人々を救うため与えて下さったメシア、ギリシャ語でのキリスト、つまり救い主は、まさしくあなたですという信仰は、当然その中身が重要になります。どういう救い主として信じるか。人は勝手に言うのです。あの人は洗礼者だとか、預言者だとか。同じように、神様を信じれば幸せになるとか、病気にならんとか、勝手な救いを信じます。あるいはこの世では人は救われなくて、天国に行ける救いなのだと。これもまた、イエス様が伝道なさった神の国の救いを、ビリッと一部だけ千切るのです。後は自分の命を頑張って生きましょうと、そういう誤解がうんとあるのです。当時はもっと多かったらしく、だからイエス様も、救い主が殺されて復活させられるという神様の奥義については誰にも話したらいかんと厳しく言われたくらいです。当時のユダヤ教の考えでは、罪を裁かれる聖なる神様が、罪人の身代りに殺されて死ぬなど、しかもそれを神様を信じて一生懸命やっていたつもりの自分たちが、自分の望む命を自分で救うため神様を捨てて殺すなんて、到底受け入れることができんかった。十字架の赦しによってでしか救われえない人間が、しかし、十字架につまずくのです。

だから弟子達には準備が必要でした。訓練も必要でした。教会によって世界に神の国が分かち合われていくという神様のご計画が秒読み段階に入っていました。けれど弟子達に十字架が受け止められるだろうか。イエス様はうんと心配だったのだと思います。実習も積ませたけんど、大丈夫やろかと、打ち明ける前に、一人で弟子達のために祈ったのだと思います。どうかつまかずかないように、どうか受け入れてくれるようにと、愛する弟子達のため、これから、教会として神様の愛の十字架を背負って、キリストはあなたのために死んで下さった、罪を背負って下さって、あなたの身代りとなって下さったと身をもって証をし、人々がキリストを信じて救われる窓口となれるよう、どれほど主は祈られたかと思うのです。ご自身、人のため死ぬということが、口だけではなく、苦しいことを、多くの苦しみを負うことを既に知っておられた。そして覚悟しておられたので、とにかく祈りに祈られて、弟子達に御父の憐れみと、何より十字架を負う愛の力を、弟子達のため願われるのです。

弟子達は、今も昔も、そんなに力強い、愛に満ち満ちた人々ではありません。あるいは、大方の人はと言ったほうが良いのかなというような愛のヒーローも中にはいるようにも思えます。でも大方は、ペトロには悪いですけど、聖書が証するペトロのように、そんなに愛に満ち満ちた人でもなければ、イエス様を愛し抜くこともできなくて、大事なところで、あんな奴知らないと、イエス様に従いきることができなくて悩む、小さな人々に過ぎんのです。でもその小さな人々の中でも、最も小さな者のために、あなたが愛の業をなすならば、それはわたしにしたのだとイエス様はマタイによる福音書でおっしゃいます。そうやって教会は、互いに愛し合うことができるだろう、弱さを知って、思いやることができるだろう、そして、そのように誰かのために、自分を犠牲にするときに、わたしはそこに、あなたの十字架を見るのだと、主は言われます。それはわたしにしたのだと、わたしのためにあなたは十字架を負ったのだと、イエス様はご自分の弟子たちを愛されるのです。

そんなにも愛しておればこそ、罪も弱さもズルさも小ささも、十字架でイエス様が背負って下さり、見よ、これが神からのメシアの救いであると、見よ、十字架であなたの罪を負って死に、三日目に復活したあなたの救い主を、あなたはわたしによって救われると、キリストの救いが語られるのです。愛が口だけでないように、罪も口だけではありえません。その罪を、放っておいたらいつまでも残り、命を汚染していく罪を神様は背負って赦して下さり、あなたの命をわたしが救う、罪を捨て、あなたは愛に生きてほしいと、十字架の歩みを下さるのです。十字架のキリストについていかんで、人は生きていくことができるでしょうか。自分の命なら生きられます。群集があれこれ言うような、自分で決めたあれこれの命なら自分で生きられもするでしょう。人からも、あるいは神様からも、それは間違ってないかと裁かれることを避けて、裁きから命を救うことだってできるでしょう。自分の世界を掴みさえできます。でもそのような命は失われます。イエス様は、それで一体あなたは何を得ることができたのかと、悲しみを隠さずに言われます。そんな命を、あなたは本当に欲しかったのかと。

私たちが本当に欲しくて、でも失っている愛の命、神の子としての命は、キリストのもとにあるのです。愛のない命は耐えられません。どこかに自分を捨ててでも私を愛してくれる人がいないか、神様がいないかという命の渇きは、十字架の足下で癒されるのです。キリストの言葉を恥じるのでなく、私のために死なれたイエス様の愛の言葉に信頼して聴き、そこに自分の身を置いて生きるとき、生きながらにして神の国が見えてくるのです。生きておられる神様のご支配が、キリストを通して見えてきます。やがて私達は死ぬでしょう。しかしキリストにつながれた復活の命を、私は頂いているのだと、既に歩んでいるのだと、神の国の命が見えるのです。ここには神の国の窓がもう開いている。教会はその命の窓を、十字架のキリストに従いながら、人々に開き示すのです。