10/7/4朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書8:26-39、詩編73:21-28 「私にかまわれる神様」

10/7/4朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書8:26-39、詩編73:21-28

「私にかまわれる神様」

 

先週、土佐嶺南教会の古参であられた徳永安雄兄弟の葬儀がありました。私たちが参加している香長伝道圏の創設、また四国教区の自立連帯献金の創設に関わられた、まさに信徒伝道者と呼ばれるような方だったと思います。その遺言であったでしょうか。会葬御礼という題ではありましたが、一枚の紙に見事簡潔にまとめられた福音メッセージが参列者一人一人に手渡され、ぜひ、この神様の愛の御心を知って欲しいとの、故人の願いが記されてありました。私自身、このような御礼を私の葬儀でお渡ししたいとも思いましたし、また皆さんにも読んでいただければと、コピーしてお渡しさせてもらいました。私たち一人一人にとっても深く関わりのあることだと思います。

あるいは、葬儀の場で、こういうものを渡されてもという人々もおられるかも知れません。いま読みました御言葉にも、かまわないで欲しいという言葉がありました。それもあり得る反応でしょう。彼のもとに来られたイエス様に、直訳では、私とあなたとに何があるか。何の関係、何の係わりがあるか、関係ないだろう、このことについては放っといて欲しいと願う。

人間の解放、キリストの救いを伝える伝道は、言わば基本的に嫌がられると言ってもよいのではないかと思います。押し付けているわけではなくても、ここでイエス様が一人の男性を救われた後で、しかし、町の人々から、出て行って欲しいと丁重に断られたように、伝道を拒絶されることが特に日本では多くあります。他の熱狂的新興宗教のせいも少なからずあるでしょうが、そうではないとわかっておられても、死後についても、今の生き方についても、とやかく言われたくないというのは、誰だってそうでしょう。でも神様や救いについて、これは大切なことだと感じないこともないのです。そういうときは話を聴きたいとも思います。神様の愛について話を聴きたい。が、かまわれるのは勘弁というのも、わかる気はするのです。私のほうから求めはしても、神様から求められるのは嫌とも言えるでしょうか。

それは洗礼を受けたキリスト者であっても同じようなところはあるのです。そもそも私たちはキリスト者であろうとなかろうと、神様の御心に、あまりかまわれたくないという心の部分がある。まるで小さな子供が親から、いつまでゲームをやりゆうと叱られて、自分の部屋があったら、あるいは自分の部屋にテレビがあったら、好きなことができるにと思うように、人は自分の世界を求めます。誰だってそうでしょう。でもその度が過ぎると、今朝の御言葉で汚れた霊に取りつかれた人のように人々との係わりから離れ、まるで墓場に閉じこもるような身の処し方になってしまう危うさも、私たちは常に持っていると思うのです。

人は誰かと関わることで人となる。誰かと結びつくことで人間性を保つとも言えます。逆に言うと、これも皆身に覚えがあるでしょうけど、腹が立って、しかも獣じみて腹が立つときは、誰とも関わりたくない。神様ともです。でも神様は、深い同情をもって、親身になってかまわれます。親身とは良く言ったもので、親の身になってですから、子供からうるさいと思われることもあるのです。それでも親なら放っておけません。また、きっと落ち着いたら話を聴いてくれるだろうと、話しかけることなしにじっと忍耐して待っていることもあります。愛を押し付けることはできません。押し付けたら愛ではありません。でも愛が、危ういところにいる人を、まったくかまわないで放っておくことができるでしょうか。罪は係わりを嫌っても、愛は関係を求めます。誰一人、自分の世界の支配者になるために生まれてきた人はいませんし、誰一人、かまわれなくてよい人もおらんのです。世界を造られた神様は、また、その世界が神様との係わりを失って、墓場に閉じこもってしまっても、御子イエス・キリストによって愛の世界を再創造される救いを与えられた、その名を愛と呼ばれる神様は、私たち一人一人を、互いに関わりあう者、仲間として、友として、互いに気にかけ、愛を配りあう隣人として、新しい世界、神の国に召しておられます。共同体に生きる者、それが人間だと言ってもよいでしょう。そしてその共同体にはルールがあります。同じ体を共にすると書いて共同体ですから、体に血の巡りや神経の交換運動というルールがあるように、共同体は愛のルールによって保たれます。イエス様が、文字通り命を削って伝えてこられた神の国は、そうした神様の愛の共同体です。あなたもこの新しい世界の再創造の一部として、新しく生まれ変わって生きればよい、あなたに生きて欲しいのだとキリストはかまい続けておられるのです。

教会は、その神の国を伝え続けています。私たち自身、その神の国の一部として、神の国を証するとさえ言われます。使徒信条で私は…聖い公同の教会、聖徒の交わり…を信じますと告白するのも、教会は、そのような神の国の一部として、既にキリストの、再創造の救いに、入れられているのだと信じるのです。ここでキリストが、この人をかまわれて墓場から解放したように、キリストは、ご自身の体とさえ呼ばれる教会共同体を、墓場から救い出して下さっていると、どんな暗い状況でも、教会は信じ続けてきました。私たちもまた信じるのです。キリストは、ここに神の愛の共同体を造っておられると。それを信じることがなかったら、教会を建て上げることはできなくなります。何をしていいのかがわからなくなります。愛の家を建てていくのです。自分の部屋から解放された、神様の愛の共同体を建てるのです。

無論、そこでキリストに仕えながらも、愛に貧しく、愛に臆病な人間は、愛を押し付けたり、どうしたら良いかわからなくて、かまうことができんかったりもするでしょう。墓場から連れ帰して、足かせをはめて監視しておった人々も、でもどうしたらよいのか、わからんかったのだと思います。監視なんかはしたくないけど、されたら嫌だろうというのもわかるけど、でもどうしたらよいのかわからない。墓場を住まいとしたこの人だって、他にどこにも行くことができんから、自分の居場所がどこにもなくて、共同体を喪失し、自分自身を喪失し、人間性までをも喪失して、しかし、命は失いたくなくて、必死で戦っておったのではないかとも思うのです。でも勝てない、でも死にたくない、どうすることもできず、どうしたらよいのかもわからない、その人間の絶望的無力さの只中に、神様が命を捨てて飛び込んできて下さったから、この人は、墓場から解放されたのです。無力な人間の支配から、キリストは私たちを解放し、神の国に生きる自由を与えようと、来てくださった。そして私たちは自由なのです。キリストが、神の国の自由を、私たちに与えてくださっているからです。暗い墓場へと続く自分の部屋での危うい自由から解放されるところで、人は正気になることができます。我に帰ることができるのです。私の父は神様であったと、キリストが、私を神様につなぎ戻して下さって、神の子供として下さったと、そこに自由の喜びを知りますし、何よりも、神様の喜びを知らされます。

この人が、イエス・キリストに救われたこの人が、しかし、その後で何もかもは思い通りにいかなかったことも、私たちを自分の思いから解き放つ深い恵みだと思います。彼にはもう、恵みが十分にありました。主は言われました。「神様があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」あなたしか語れない恵みがある。その恵みを分かち合って生きたとき、この人は幸せになったのです。私たちに神様がなさった愛を分かち合うとき、私たちもまた、生きる喜びを知るのです。

 

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