10/6/27朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書8:22-25、詩編107:23-32 「嵐の中でも平安を」

10/6/27朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書8:22-25、詩編107:23-32

「嵐の中でも平安を」

 

この舟は沈みません。頼りない舟に見えます。実際に大水が入り込んできて沈みそうになることもあります。人々は慌てふためきます。弟子と呼ばれる人々がです。でも慌てて舟から出ようとしてはなりません。それこそ滅びてしまいます。けれど舟には、救い主がおられます。その舟は沈みません。試練には遭います。不安に押し流されそうにもなるでしょう。不平不満の渦潮の中に飲み込まれそうになるかもしれません。信仰を持っておったなら、すべてが平穏無事に守られるかと思ったら、必ずしもそうではない。それならば神を信じて何になるかという思いが荒れ狂いそうになるときも、でも一つ確かなことがある。この舟には、十字架と復活の救い主が共におられて、それ故に、滅びることはないのです。

弟子たちは、おぼれそうです、直訳は、滅びそうですと言いました。でも私たちの場合はもっとはっきり、死んでも滅びないと言えるでしょう。キリストが、わたしは復活であり、命である、わたしを信じる者は死んでも生きると言ってくださった。その御言葉を信じる信仰の平安のうちに、事実、私たちの先輩達は死を迎えられ、そして滅びてはないのです。キリストが共におられるからです。私たちも、同じ主の御言葉を信じつつ、同じ航路を進んで行けます。以前、米国におりましたとき、冬の嵐に遭遇したことがあります。夕礼拝の後、キリスト者の学生たちを乗せて、家に送って帰ろうと思ったら、突然の猛吹雪。真っ暗な闇をライトで照らしても数メートル先しかも真っ白な雪しか見えない道を、ギア一速で這うように進みました。私は事故せんか不安でしたが、学生は後ろで眠っていて、ごめん幸生さん、でも死んでも天国やし、着いたら起こしてと言うのです。若さゆえということもあるかもしれません。けれど幼子の信仰を愛されたイエス様もまた、同じような父への信頼ゆえに、幼子のように眠っておられたとするなら、それもまた祝福された平安であったかと思います。

また、そこには弟子たちへの信頼もあったのではないかと思います。弟子たちもまた、イエス様だけ寝てズルイと言う人はおらんかったでしょう。全身全霊を込めて人々に福音を伝え、癒しをなされ、クタクタに疲れて舟で揺られて、つい眠ってしまわれたイエス様に愛情をこそ注いでも、非難する弟子たちはおらんかったろうと思います。舟を漕ぐのは弟子たちに任せても大丈夫だというイエス様からの信頼を、弟子たちもまた感じ取っておったかも知れません。そのような信頼を、イエス様は一緒におられる弟子たちに持っておられます。種蒔きの譬えのときも、あなたがたには神の国の秘密を知ることが許されていると、弟子たちの神の国を求める信仰を、受け止めて下さっているのです。イエス様は、わたしの招きに従って、わたしと共に歩むあなたがたに、わたしはわたし自身を任すと、ご自身をお委ねくださる方だからです。キリストが、私たちをそのように見て下さっている。畏れ多くも、やはり嬉しくなるのではないかと思います。

なら弟子たちは、それほどに信頼に足るかというと、そのイエス様から、あなた方の信仰はどこにあるかと叱られます。あるかと思ったら、ないじゃないかと。その御言葉にドキッとせん人もおらんのではないかと思います。なら私は、どこに信仰の根を下ろしているだろうか、私は何を信じているのだろうかと、問わずにはおれんなる主の御言葉です。何を信じておったのでしょう。自分で自分の状況をコントロールできるときには、主を愛する余裕さえあるけれど、自分の力が無力であると知らされるとき、もう絶望だということであるなら、何を信じておったのでしょうか。今の時代は、全能感の時代だと言われます。あたかも全能の神様のように、私は大丈夫、私はできると自分を過大に評価して信じ過ぎている時代だと、一般の識者が危険を察知して警告をしています。ただ、今に始まったことでもないでしょう。自分の全能感が挫折すると逆恨みしたり、偽りの全能が暴露されたことに八つ当たりして暴力的になることもあるということは、私たちは嫌というほど知らされてきたのではないかとも思うのです。でもそれが偽りであると知っただけでは不十分です。本当に知るべきもの、イエス様が、あなたにはこれを知ることが許されていると言って下さった、神の国の秘密を知らんかったら、私の全能感を打ち砕く嵐が上空から吹き降ろしてきて、今までの安心や自分が信仰だと思っていたものがグラグラと揺らされるとき、何度も、あなたの信仰はどこにあるのかと、主から問われてしまうでしょう。

嵐の中での平安は、嵐でない時の平安と違うでしょうか。もしも同じでないのなら、平穏なときの平安が本当の平安だと言えるでしょうか。偽りの全能感ゆえの平安であれば、それは平安でないばかりか、逆恨みの嵐で、人を傷つける危険性すらあるかもしれない。そんな平安で良いのでしょうか。それは安心の安でなく、安売りの安です。試練によって試されて、それでもそこにある平安以外に、どうやって死の荒波を乗り越える平安を得ることができるでしょうか。弟子たちも、試練によって知るのです。この平安ではいかんのだと。この信仰ではいかんのだと。外側だけではいかんのだと。荒波を通して弟子たちは、イエス様を信じるとは、どういうことかを知りました。神の国の秘密を一つ知ったとも言えるでしょう。平たく言えば、私たちも、教会の信仰は、ご利益信仰ではないし、困った時の神頼みではないと言いながら、案外、自分では気づかないご利益信仰に捕らわれてしまっているということを、試練を通して知らされるのです。信じておれば苦しまないと、せめて、これぐらいの苦しみで、どうしてこんなに大きな苦しみなのかと裏切られるような気持ちになってしまう。自分の信じていたご利益の神に裏切られ、けれど、イエス様に裏切られたように非難をしてしまう。弟子たちは、一体この方はどなたなのかと問いましたが、それと同時に自分自身も問われるのです。私は自分をどんな信仰者だと思っていたか。どのような歌舞伎化粧をしていたか、大水に洗われて知るのです。

そして開けてくる全く新しい景色、洪水の向こうに開けてくる新しい世界、神の国の秘密を見ることが、あなたがたには許されていると主は弟子たちに言われました。イエス様と一緒に舟に乗っているから、この舟はそこに進みます。教会はこの舟を、教会そのものであると言ってきました。舟は安定せんのです。中に乗っている人が片寄ったら舟も片寄り危険になります。いつ突然の嵐に遭うかもわかりません。イエス様が一緒におられるから嵐に遭わないということではないのです。イエス様が共におられるその中で嵐に遭います。イエス様だけは水に濡れなかったはずもありません。弟子たちと一緒に大水をかぶり、弟子たちと一緒に激しく揺られ、弟子たちと命を共にしておられ、しかし、その中で、平安を抱いておられるイエス様のお姿に、弟子たちは、神の国の秘密を見ることもできたのです。ある説教者は、こう問いました。もしも弟子たちが、このとき信仰を持っていたら、イエス様が語られた御言葉に、しっかりと根をおろし実を結ぶ、イエス様を主として信じる信仰を持っておったら、どうなっていたかと。信仰があるから嵐に遭わないということはありえない。そんなご利益信仰ではない。嵐には遭うだろうし、同じような大水をかぶっただろう。舟は沈みそうになったに違いない。けれどもそこに、いつもの平安を携えて共におられる主を見つめつつ、いま自分のなすべきことを、ひたすらなし続けたのではないだろうか。何も特別なことは起こらない。舟に入り込んだ水をかき出し、イエス様が言われた向こう岸に向かってひたすら舟を漕ぎ続けたろう。あるいはそんなにも酷い嵐の中で、主もさすがに目を起こされて、これも想像に過ぎませんが、しかし、私たちが既に知っていることでもあろうと思います。イエス様もまた弟子たちと一緒に、吹きすさぶ嵐の中で舟を漕ぎ続けられたのではないかと思うのです。弟子たちの中に、不安がなかったとは思いません。心騒ぎながらであったかも知れない。それならば、イエス様を揺り起こした時と何が違うかというと、イエス様がおられるから、心騒いでも、不安であっても、イエス様がおられるから大丈夫だと、キリストの平安を知っているのです。キリストが私たちと一緒にいてくださるから、私たちは内心は慌てふためいて、みっともない心持ちであったとしても、決して滅びることはない。そして、舟を進めることができる。イエス様もまた、この舟を一緒に漕いでいて下さっている。そのイエス様のお姿に励まされ、弟子たちは主と共に苦難に耐えつつ、目指す岸に向かって、まっすぐ進んでいくのです。

イエス様は嵐をご存知です。叫びたくなる気持ちもよくご存知です。世の罪を背負う十字架の重みに耐えられなくて、大水をかぶるどころか全人類の罪をかぶって滅びを受ける、救いの御心から逃げ出したいと、そのために人として来られた御子なる神様が、そこまで追い込まれ苦しんで這いつくばって、包み隠さず、父に祈られ、そして十字架に向かわれるのです。私たちが滅びから救われるため、ただ一人舟を進めていかれ、十字架の上で叫ばれました。我が神、我が神、何故わたしを見捨てられたかと。でも、そこに、私たちが嵐の中でも信じて良い、神様の愛の信仰があるのです。罪なき神の御子が、罪多き私たちの身代りとして見捨てられたから、この方が、罪の裁きの嵐の中で、私たちの滅びを受けられたから、だから私たちは決して滅びない。キリストが復活であり命であるから、キリストを信じる者は死んでも生きる。たとえ私たちが弟子たちと共に、信仰なき叫びを主に投げつけるようなことがあったとしても、主はその叫びを、ご自分の十字架の叫びに抱きかかえられて、不信の叫びすら受け止めて、静まれと言われる、愛の主なのです。

嵐の中でも、風のないときでも、キリストが一緒に生きて下さって、安かれ、わたしはあなたと共にいると恵みに包み込んで下さっている。そこに私たちは平安を知ります。そこに私たちの信仰があります。この舟は進んでいくのです。波はかぶっても、沈みそうにさえなっても、舟はキリストが目指される港に向かって進みます。キリストがこの舟の主であればこそ、安心して、舟を漕ぎ続けていくことができるのです。