10/7/11朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書8:40-56、詩編91:1-2 「絶望の扉を開く光が」

10/7/11朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書8:40-56、詩編91:1-2

「絶望の扉を開く光が」

 

何のため私は生きているのかと問いたくなるときが誰しもあるのではないかと思います。出血の病を患っていたこの人も、おそらくは問うたのではないかと思うのです。こんなに長い間苦しんで、何のための命であろうかと。ともすると神様を恨んだことすらあったかもしれません。他人事ではないと思います。あるいは自分はそうしたことがないという方でも、それほどまでに追い込まれ苦しむ人々に寄り添うことで、他人ではなく、隣人となるところで、私たちは何のために生きているのか、その答えの一つを、共に見出せるのではないかと思います。

血を流すようにして生きる痛みを、イエス様もまた深く知っておられました。何のため私は生きているのかということを、イエス様ほど常に自覚しておられた方はおりません。深くご存知でした。血を流すために生まれてこられたのです。それが人間本来の生き方、生きる目的というのではありません。血を流すという表現を、聖書は古来、命が流れ出るという意味で用いてきました。旧約において動物の血が犠牲として流されたのも、そのためです。命には命の犠牲が伴うことを、命を償うには命が要求されることを、決して忘れないようにという、命の教育でもありました。人の血であろうと自分の血であろうと、血を流し、命を流れ出させることは、人本来の生き方ではありません。人が他の人のために隣人を愛して生きるのは、人本来の生き方ですが、キリストが血を流されたのは、私たちが人本来の生き方へと立ち返ることができるように、犠牲となってくださったからです。命を流れ出させんためです。

命が流出されていたのは、この人だけではないでしょう。私たちは、命が流れ出てしまうのを、自分でとめることができるのでしょうか。まるで大きな砂時計のように、命がこぼれ落ちていく。取り返しのつかない私の大切な時間が、手からどんどんこぼれ失われていくという不安や後悔は、誰しもが覚えるのではないかと思います。あるいは、だからこそという積極思考や、楽天的なハッピーさで、満ち足りた幼少期、青年期、また壮年期や老年期、更には満ち足りた死をも迎えられる方も、まれにおられるかもしれません。どの辺りで満足を得るかということもあるでしょう。満ち足りた命を生きるのは、満足こそ命の目標であるとする考えが染み渡った現代の理想の命とさえ言えるでしょう。

でも、満ち足りて生き、満ち足りて死んで、それで終りでしょうか。この理想には、それこそ取り返しのつかない、満ち足りてない部分が、重大な命の欠けがないでしょうか。

今の時代、命が問われるところで必ず問われるのは、宗教です。英語では敢えてスピリチュアリティー、霊的な部分と呼ばれることが多いようです。命はそれによって満ちると考えるのです。全くの間違いだとも思いません。確かに、この世の目に見える世界だけでは満ち足りないと世界は知らんわけではないのです。信仰によってとも言えるでしょう。しかし信じる力で命を満ち足らせるという信仰は、ご利益信仰と違うでしょうか。前頁の嵐の場面で、弟子たちの信仰をキリストが問われたように、案外、キリスト者も、ご利益信仰を抱えておったりすると二週前の説教で言いました。信仰があるから苦しみに遭わんとか、信仰が弱いから苦しいのだとか。それは自分信仰ではあっても、神様が求められる信仰ではないでしょう。ここに、絶対にイエス様は私を癒されますというような信仰の力が見られるでしょうか。苦しくて辛くて、キリストにすがるほか望みがなくて、でも正面切ってお会いできなくて、他の人にも知られぬよう、自分の病も隠すようにして、こっそりイエス様に手を伸ばし触れた。その人も自分では信仰だと思ってないような、人前でもイエス様の前でも恥じて身を隠してしまうような、イエス様にすがりつくこともできないで、けれどイエス様なら癒してくれるのではないかと後ろからそっと触れる、そんなくもの糸の如くか細い姉妹の手に、神様は、力を分け与えてくださったのです。あるいは、その時点では、まだ信仰とは呼び得ない、すぐにプツンとイエス様から切れてしまうようなか細い信仰を、イエス様は、どうしても御言葉によって強くしたくて、誰が触れたのかと必死で捜し求められるのです。イエス様はその人の命を、信仰によって満たすのでなく、その人の命の主であり救い主であるイエス様ご自身と結びつけ、ここでこそ、あなたは命の安心をえるだろうと言われるのです。流れ出て止まらないあなたの命を、キリストは、そうだ、わたしが止めるのだ、わたしを信じて良いのだと、信仰の置き場所を、はっきりさせて下さるのです。キリストにひれ伏すそのところで、信仰は、自らの落ち着く先を知るのです。

ヤイロのときもそうでした。一人娘の命が全部流れ出てしまう前に、どうか命を止めてくださいと、ヤイロはイエス様にひれ伏します。娘の命を抱えるように、無力な自分、絶望的な自分自身をイエス様の前に置くのです。力強い人はひれ伏しません。自分に絶望してない人が、ひれ伏すことがあるでしょうか。説教題に、絶望の扉を開く光がとつけましたが、改めて考えたら、とっつきにくいイメージかと思いました。絶望の扉なんて誰が開きたいかと思うのです。むしろ出口を求めているのに出口がない。長い迷路の果てに行き詰まり、神様を信じる力も尽き果てて、出口のない闇に閉じ込められたというイメージが絶望であれば、扉がないのが絶望でしょう。しかし、人はどこかで絶望するのです。満ち足りて生きて満ち足りて死んだ人でも、死んだ後、どうして絶望しないと言えるでしょう。望みを置いていた命はもう果てました。その果てた命の決算である死後の裁きを裁かれる、神様にひれ伏してなかったら、どうして絶望しないでいられるでしょう。確かに、自分からは開くことのできない扉が絶望の扉だとも言えます。人は絶望などしたくないのです。絶望したら終りだと思う。信仰の力も尽き果てて、神にも見捨てられたと思いやすい。しかし、キリストは、ヤイロが自分に絶望して、その前にひれ伏し倒れたキリストは、恐れることはない、ただ信じなさいと希望の光をくださるのです。娘はもう死んでしまって、ヤイロは本当に絶望したのに、死んでしまったらもう終りだと、これ以上何の望みもないのだと、自分にも命にも絶望したその果てに、絶望の扉を開く光をキリストが、死の向こう側から投げかけてくださって、扉を開いてくださるのです。死んで終りではない命の希望を、神様はキリストによって下さるのです。

それはこのキリストご自身が、わたしたちの絶望の淵に立たれたからです。十字架に直面して思い知らされるのは、神様に本当に見捨てられたという絶望を人間は未だかつてしたことはなかったということです。そう感じたというのならあるでしょう。いくらでもあると思います。命が流れ出るのをとめられず、どんなに強く信じても癒されず、信仰にも神にも絶望したということなら誰にでも襲ってくるでしょう。それでも十字架の上に釘付けられた三位一体の神の御子ほどに、父から見捨てられたものは、ただの一人もおらんばかりか、御子を見捨てられた父の絶対なる裁きの故に、完全で絶対な身代りの犠牲の裁きの故に、神様は、わたしはあなたを見捨てない、御子を十字架で見捨てたから、あなたを見捨てることは決してない、あなたに生きてほしいから、あなたが唯一絶望せず生きられる、わたしの前で生きてほしいから、わたしは死んだキリストを復活させる。十字架であなたの命を、自らに結び抱きしめて注ぎ込んで、十字架で死んだあなたの命であるキリストを、わたしは、あなたが生きるため復活させると、父は、キリスト信仰をくださった。そして今や復活されたキリストが、恐れることはない、ただ信じなさいと御言葉を与えてくださるのです。

神様が御言葉を下さっているのは、命がこの世で完結をせず、それ故この世だけで満足することを決してしえないことを、私たちのために告げ知らせるためです。そして神様が御子をお与え下さって、キリストが命を投げ出して下さったのは、命はキリストの御国で完成することを私たちが知って、キリストによって生きるためです。キリストに結ばれ、この世の流れ失せる満足を捨て去って、神の子として生きるためです。流れ出て失われるほかない命を止められるため、キリストはその流れ出る命をご自身に注ぎ込み、十字架に釘打って止められました。十字架でのみ命の流出は止められます。そして私たちのため、私たちの王として復活されたイエス・キリストの前にひれ伏すとき、私たちは生きられるのです。決して見捨てられることのない十字架の神様の前で安心できる命があるのです。やがて完全に現れる永遠の命を、復活されたキリストの前にひれ伏して生き始めることが、誰にでも許されているのです。恐れることはないと言って下さる、ただわたしを信じればよいと言われるキリストの懐の広さに、信じる力を得るのです。